第115話 半月
行灯の明かりはいつの間にか消えていた。
中の蝋燭が燃え尽きたのかもしれない。暗い部屋の中で起き上がったシシュは、隣で眠っている女の頭を撫でた。彼女の体越しに畳まれていた掛布を取ると、疲れきったサァリにかける。
慎重に少しずつ神供を変えていく儀は、彼女にとってかなりの神経を使うものであったらしい。最後の方は目に見えてうとうとしており、終わるなりシシュの上で眠り込んでしまった。
その体を抱き上げて横に動かし、自分は寝床に胡坐をかいたシシュは、深い溜息を一つつく。
「……冷水でも浴びるか」
とりあえず精神的圧力を受け続けた頭と体を冷やしたい。
崩れきった着物を直しながら立ち上がったシシュは、ふとそこで右腕のことを思い出した。月の光に掌をかざしてみる。
―――― 火傷の痕は残っていない。
それは、いつの間にか消えてしまっていた。傷口から入り込んでいた蛇も、今は気配を感じない。
サァリの息吹が綺麗に拭い去っていったのだろう。人であった頃の形と同じ、だが「ずれて」しまった自分の体をシシュは見下ろす。
実感が湧かない、と言いたいところだが、視界からして元とは違う。見えるものは同じだが、見え方が違うのだ。白い襖を見ても、それをひどく遠くから俯瞰でもしているように、この世界を作る点として認識している。慣れるまではしばらく酔ってしまいそうだ。シシュは、ヴァスがサァリの力を借りた時も似たようなことを言っていたと、今更ながらに思い出した。
主の間を出たシシュは、昼間冷水を浴びせられた部屋へと向かう。
客室の一つであるそこは、今日は客取りの為の準備に開放されている部屋だ。襖を開けると、トーマとイーシア、そしてミディドリスの二人が座卓を囲んでくつろいでいた。
酒杯を手にしたトーマはシシュを振り返るなり、他の三人に向けてにやりと笑う。
「ほら、やっぱり言った通りだろ? 言えば律儀に守る奴だってさ」
「必ずご懐妊なさるとは限りませんし……守らなくてもよかったとは思うのですが。折角の客取りでございましょう?」
「…………」
どんな話をされていたかは大体察しがつくが、今は相手にしていられるほど余力がない。
とりあえず部屋に入ったシシュは座卓にあった木の盆を取ると、それでトーマの頭を殴った。いい音をさせた盆を、頭を抱えた友人の上に投げ、座卓の横を通り過ぎる。
「風呂を借りる」
「おう。―――― あ、ちゃんと成功したのか?」
どうでもいいような確認に、シシュは風呂へと続く廊下に出ながら右手を上げる。その指先から白い冷気が帯となってたなびくのを見て、トーマを除く三人はそれぞれの嘆息を洩らした。
神の血族である男が静かな声を返す。
「悪いな」
「自分で望んだことだ」
何一つ詫びられるようなことはないと、言外に返すとトーマは苦笑する。
廊下の窓越しに見える月は皓々と白い。だがそれは以前までのように―――― 遠いものには見えなかった。
※ ※ ※ ※
夢は見なかった。
目が覚めた時、シシュは月白の客室の一つにいて、すぐには自分が何処にいるのか分からなかった。
世界が回っているかのような、くらりとした不安定さ。
そんなものを仰臥したまま味わっていた青年は、近づいてくる気配に上体を起こす。足音はしない。だが続きの間に入って来たのであろう女に向かって声をかけた。
「サァリーディか」
「―――― う、気づかれた」
言いながら膝をついて襖を開けた女は、その体勢のままシシュに向かい行儀よく頭を垂れた。そうしてようやく中へと入ってくる。
薄化粧で、髪も前に流して一つに束ねてあるだけの彼女は、シシュの隣に座りなおすと頬を膨らませた。
「朝起きたらいないんだもの。置いて行っちゃうとか、ひどい」
「あのまま一緒にいたら気が狂う……」
「シシュなら大丈夫」
何処まで本気なのか、サァリは美しい笑みを見せると白い手を伸ばしてきた。熱を測るように彼の額に触れる。
ほっそりとした指の温度が、どれくらいなのかはよく分からない。
少しだけひんやりとして感じられるそれは、彼にとっては「自分と変わらぬ温度」だ。サァリは透き通る双眸を細めると、切なげな微笑で彼を見上げた。
「今日は無理しないで。慣れるまで違和感あると思うし」
「違和感はあるが……少し体を慣らしたいな。トーマはいるか?」
「いる。殴ろうと思ってるでしょう」
「手合せの相手をさせようと思ってるだけだ」
いつまでも寝起きのままぼんやりとはしていられない。
隣にちょこんと座っている女の頭を撫でて、シシュは立ち上がった。見えていないはずの背後までが「見える」感覚に、思わず眉を顰める。
―――― 今踏み出す一歩で、何処まで届くのか。
そんなことを考えて立ち尽くす彼の背を、サァリが支えた。
「すぐに慣れるよ。自分で感度を調節出来るようになる」
「そういうものなのか」
「うん。シシュは元々感覚が鋭いから。ちょっと過敏になってるんだと思う。せめて手合せするなら午後からにして」
心配そうに、彼女は横からシシュを見上げてくる。彼が倒れるかもしれないと思っているのか、ぺったりとくっついてくる女に、シシュは緩みそうになる顔を手で押さえた。反対側の手で、背伸びしようとしている彼女の肩を叩く。
「分かった。トーマにいいようにされるのも癪だしな」
「え?」
怪訝そうな声に、シシュは隣の女を見返す。
何を言っているのかと、サァリの顔は如実に物語っていた。青い左目が半分細められ、可憐な唇が尖らされる。
「違うよ、シシュ。今手合せしたら、トーマが殺されちゃうからやめてって言ってるの」
「……は?」
聞き間違いを疑って、シシュは女を凝視する。
サァリはその視線を受けて軽く首を傾ぐと、忌まわしくも微笑んだ。銀の睫毛の下で双眸がうっすらと光って見える。
「今のあなたに勝てる人間なんていないから。元々の身体能力もあるし、多分私より強いんじゃないかな。気を付けてね、シシュ」
アイリーデの主たる女にそう言われたシシュは、唖然として己の掌を見つめる。
―――― 一体何がそこまで変わってしまったのか。
不可解さを飲みこめぬ彼は、そうして口付けをねだるサァリに襟元をくいくいと引っぱられるまで、呆然とその場から動けずにいたのだ。
「徒手ならいいけどな。加減しろよ」
朝食を終えた後、話を聞いたトーマはあっさりそう言った。
と言っても、月白で手合せが出来るような場所と言えば、外か花の間くらいしかない。
昼ならば女たちもいないということで、テーブルを端に寄せ花の間で向かい合った二人は、シシュが怪訝そうな顔でトーマが真面目な顔という、普段とは違った様相を呈していた。
兄の後ろに立つサァリが、同族の男に言う。
「ゆっくりやってみて。いきなり動かないで」
「分かった」
シシュはトーマに向かって、緩やかに一歩を踏み出す。
受けられることを前提とした顔面への突きを、トーマは初めて見る緊張の表情で外に流した。整った顔を苦痛に歪めながら、それでも男は右手の拳をシシュの腹へと向ける。
言われた通りの速度を抑えた動き。
シシュは右腕を引きながら、左手の掌で相手の突きを受けようとした。
「―――― シシュ、駄目」
サァリの声が飛ぶ。
その時には既に、青年はトーマの拳を手で留めていた。ぴしり、と空気が罅割れる音がする。
違和感を覚えたのは一瞬、シシュは本能的な判断で左手を引いた。ほぼ同時に、トーマが思いきり顔を顰めながら半歩下がる。兄を庇うように、サァリが二人の間に割って入った。青い双眸がシシュをねめつける。
「だから午後からにしてって言ったのに」
「……何か不味かったか」
「加減しろっつっただろ。人の拳砕く気か」
言いながら自分の右手をさするトーマを見て、シシュはぎょっと慄いた。先程受けただけの拳が、半ば霜が張って凍りつきかけている。サァリは振り返って兄の腕に触れた。
「大丈夫? トーマは血族だから耐性あると思うけど」
「痛いけどな。サァリ、俺はちょっと溶かしてくるから、そいつを熱湯にでもつけとけ。冷気発散させろ」
「氷で出来てるみたいに言わないで。すぐに自分で抑えられるようになるから」
言い返すサァリは兄の背を心配そうな目で追ったが、ついていくつもりはないらしい。シシュは驚きから覚めると慌てて部屋を出ようとするトーマに声をかけた。
「悪い!」
「予想の範囲内だから気にすんな」
さらりとした返答は、まったくいつもと変わりがない。
扉が閉まると、シシュは困惑の視線をサァリに向けた。
「ひょっとして、今の俺は体温が低いのか?」
「かなり。私のこと冷たいって思わないでしょう?」
女の手が彼の頬に触れる。
確かにその指先を冷たいとは感じない。サァリは頷くと、放した手で彼の手を握りなおした。
「ちょっとずつ体温上げてくから、一緒に意識して変えてみて。力を自分の内に沈める感じで」
「沈める感じ……」
「あんまりそのままでいると、人だった頃のこと忘れちゃうから。生き辛くなっちゃうよ」
苦笑混じりの言葉は彼女自身の経験をふまえての忠告なのだろう。
シシュは言われた通り、女の手の温度に意識を移した。続いて自分にまとわりつく力を集めようとして―――― 不意に顔を上げる。
扉の方を見据えるシシュに遅れて、サァリも同じ方向を振り返った。感情を挟まぬ声がぽつりと呟く。
「早いね」
「仕切り直しの時間か」
月白の門前に誰が待っているか、見に行かずとも分かる。己に近くて、だが遠いものだ。
―――― 新しい自分を何処まで動かせるかは分からないが、ここまでの猶予が与えられたことは幸運だろう。
シシュは扉に向かい踏み出しかけて、だがすぐに己が武器を帯びてないことを思い出した。
「しまった。軍刀が―――― 」
「ごめんなさい私のせいです代わりはあるから」
遮るように一息で言われてシシュは噴き出しそうになる。
確かに王から拝領した軍刀を砕いたのはサァリだが、あの状況では仕方ない。サァリは花の間の隅の戸棚に歩み寄ると、そこから用意していたのだろう刀を取り出した。昨日トーマが佩いていたものと同じ、神殺しの刀をシシュに差し出す。
「これを使って」
「いいのか?」
「いいの。本来これは私たちが使って初めて意味があるものらしいから。今のシシュが持つのがいいと思う」
―――― かつてこの剣は、双子の神の為に作られた。
それはつまり、神が神を殺す為の刃ということだろう。シシュは装飾の施された鞘を神妙な面持ちで受け取った。細い銀鎖を使って腰にそれを佩く青年に、サァリは袂から取り出したもう一つを手渡す。
「あとはこれ」
「……これは」
随分懐かしい気もするそれは、白の半月と黒の半月を合わせた飾り紐だ。
巫の客たる男に渡される石飾りを、シシュはまじまじと見つめる。時の流れを実感すると共に、一抹の不安も湧いた。この先の戦いの結果、自分がどうなり、そして彼女がどうなるのか。今のうちに言っておかねばと、思う。
「サァリーディ、もし俺が死んだら……他の客を」
「待ってる」
きっぱりと、透き通る意志が断言する。
反論も、驚く間も与えない。
サァリは隣り合う連れ合いを見上げると微笑んだ。芯のある情が声音に滲む。
「そうなったら、あなたが戻るまで待つだけだから。心配しないで」
アイリーデの人間は業が深いと聞いた。
それはつまり、愛情の深さと同じことなのかもしれない。
無数の夜を孕む街の営みにおいて、けれど彼女が選ぶ男はただ一人だ。
生涯唯一の客を、昔も今も彼女は待ち続けている。
そして―――― 自分以外の誰かがその相手になることは、最早ないのだ。
シシュは胸に染み入る余韻を味わって、隣り合う娼妓を見つめる。夜に咲く花の美しさを前にして……ただ自分は幸運だと思った。
彼は冷たいままの手を、サァリに差し出す。
「巫を待たせるつもりはない。きっちりと決着をつけよう」
「うん」
幸せそうにはにかんで、彼女はシシュの手を取る。
そうして前を向きなおした女の青眼は既に冷え切って、粛然とした戦意を氷面の下に満たしていた。
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