第114話 新床


 舞の余韻は、まだ体の中に残っている。

 彼女が鳴らした鈴の波紋はそれぞれ透明な響きを持ち、シシュの中で幾度も跳ね返り続けていた。

 自分の存在があやふやに思えるような不思議な浮遊感。

 無音の耳鳴りが感じられるような現実味のなさに、シシュは軽く頭を振る。

 サァリはそれを見て微苦笑すると、両手を彼に差しのべた。

「連れてって」

 子供がねだるようなその仕草は愛らしくも艶めかしい。

 シシュは何かを言いかけて、だがそれを飲みこむと立ち上がった。それ自体が花のような女を抱き上げる。

 奥の寝所に巫である彼女を運びながら、彼は出来るだけ平静を心がけて口を開いた。

「実は、トーマに忠告されている」

「知ってる。でもシシュなら大丈夫だよね?」

「……あまり信用しないでくれ」

 こんなことで彼女の信頼を裏切りたくはないが、状況によっては割と自信がない。

 しかしサァリはくすくすと笑っただけだ。シシュは平常心を唱えつつ奥の間に入る。

 夜に初めて入るそこは、まったく別の部屋のようだった。

 昏い寝所を照らすものは、隅に置かれた小さな行灯だけだ。ささやかなそれに加えて、障子越しに白い月光が差し込んでいる。

 昼の血の痕は拭われたらしく見当たらない。奥にある寝所も全て整え直されており、皺一つない敷布の上にはうっすらと月白の紋が描かれているのが見えた。

 シシュは沢山の鈴に注意しながら、サァリをその上に下ろす。彼女は膝立ちになると、自分の隣をぽんぽんと叩いた。

「座って」

「ああ」

 彼女のやるようにさせろと、言われたことを覚えているシシュは大人しく従う。

 その間にサァリは自分の首の後ろに手を回すと、舞衣を止めていた紐を解いた。衣擦れの音と鈴の音がさざめく。

 一枚、また一枚と薄衣が敷布の上に落ちていくのを見て、シシュは途中から目を閉じた。まったく関係ないことを考えようとする。

 しかし無情にも、サァリの声が現実を呼び戻した。

「仰向けに、横になって。あ、帯解いといて」

「…………それは、死ぬ時に着物が汚れるからとかか?」

「違います。別に結び目前に回すだけでもいいけど。寝ると痛いでしょ?」

「ああ」

 理解したシシュは帯を回すと、目を閉じたままサァリにぶつからないよう横になる。

 このまま首を絞められでもするのだろうか、と考えた時、体の上に柔らかな重みがかかった。思わず目を開けたシシュは、月光が照らし出す女の姿に息を飲む。


 簪は抜かれ、艶やかな銀髪は全て下ろされている。

 薄絹の舞衣は脱ぎ捨ててしまったのだろう。今は白い襦袢を一枚羽織っているだけで、帯は解かれ合わせ目が大きく開いていた。

 裸身と変わらぬ姿の彼女は、彼の上に跨って腹に両手をついている。

 細い首筋に透き通る膚。柔らかな膨らみから細い腰までは染み一つなく、露わになっている躰全てが先の舞を思わせる美しい曲線を描いていた。

 狂おしく扇情的な眺めは、ただ人に劣情を抱かせぬほど神秘と威圧に満ちている。

 ―――― けれどシシュは不味いことに、神としての彼女に慣れてしまっていた。




 普通の男であれば萎縮したかもしれない状況だ。

 だが彼にとっては、元々あまりない自信を横殴りされたに等しい。

 自失から抜け出したシシュは目の上で両腕を交差させると、掠れた息をついた。

「出来れば何か着てくれるか、下りてくれると嬉しい……」

「着ると感覚が鈍るから我慢して」

「だが……」

 全てを言いきる前に、ひんやりとした手が合わせ目に滑り込んでくる。

 ぞっと背筋が震えたのも束の間、着物の前が割り開かれ、女の躰が重なってきた。触れた場所から溶け入りそうなしなやかな肌は、人ならざる冷たさではあったが、彼にはそれも馴染みある温度だ。直に触れ合う身体に理性が焼きつきそうになる。

 ―――― この客取りが、普通の夜であったらどれ程よかったか。

 シシュは眩暈を伴う欲動にもう一度口を開いた。

「サァリーディ……早く死にたいんだが」

「すごいこと言わないで。少しずつやらないと危ないの」

「これ、気絶してたら駄目なのか? 意識を失いたい」

「駄目」

 素肌にかかる息が心臓の動悸を早めていく。乗られていること自体がそろそろ不味い。細い体を抱きしめたくなる。

 シシュは大きく息を吸うと、目を覆っていた両腕を下した。

「……はじめの国が生まれし時、晃の柱と木白木の火が地を照らし―――― 」

「史書の暗誦とかやめて!」

「握り潰しても構わない鉄棒とかが欲しい……」

「私の脚握ってていいから」

「それは事態が悪化する」

 小さな溜息をついて、サァリは緩やかに上体を起こす。彼女はそうして心音を確かめていた場所へ両手を伸ばし―――― そっと十指を皮膚の下へと潜り込ませた。


 呪を打つ時と同じ、だがそれよりも深く。

 神の指が直接彼の心臓に触れる。

 冷たいその手から、剥き出しの力が中へと注ぎ込まれた。


「―― っ!」

 衝撃に、体が弓なりになる。

 それは上に乗っていた女にも影響し、手を埋めたままのサァリは転げ落ちそうになった。

 シシュは瞬間でそのことを思い出すと、咄嗟に右腕で彼女の体を支える。サァリは慌てながらも慎重に手を抜くと、青年の顔を覗きこんだ。

「痛かった? ごめんね」

「いや……大丈夫だ。体が反射で動いた」

「なら、もっとゆっくりやる」

 言うなりサァリはまた体を重ねてくる。だが今度は胸に耳を当てた時とは違い、すり寄るようにしてシシュに顔を寄せた。

 青い瞳が彼を見つめ、そして閉じられる。

 穏やかに、ごく自然に、彼は彼女の頬に手を添えた。銀の髪に指を絡めて、甘やかな口づけを受ける。

 初めの一度は、ついばむような軽いものだ。

 唇が離れた時、サァリが小さく微笑んだのが分かる。細い両腕が彼の頭を抱いた。

 そして次の一度は―――― 神の息を吹き込む為のものだ。

 冷気が喉を駆け下りる。体の中に広がる力は心臓と共鳴し、手足の隅々にまで軽い痺れを走らせた。


 悪寒を覚えるような寒さではない。

 ただひんやりと、何処かへ下っていくような気がする。

 シシュは目を開けると、すぐ上にいる女を見つめる。

「不思議な感じがする」

「死に近づいているから」

 淋しげに微笑むサァリは、少しだけ泣き出しそうにも見えた。

 彼女はけれど、その表情に気づかれたと分かると兄に似た笑顔を作る。

「本当は交わっている時に変えるの。そうするとちょっとのことには気付かないでしょう?」

「別に気付いてもいいと思うんだが。これぐらいなんでもない」

「嫌われたくないの」

 サァリはそう言ってまた彼に口付ける。

 吹き込まれる力が、ゆっくりと遠いところに自分を引いていくようだ。

 か細い声が耳元で聞こえる。

「……殺したくなかった」

 弱弱しい囁き。

 シシュは小さな頭をそっと撫でた。

「これくらいなんともない」

 彼女はそれを聞いて、また淋しそうに微笑った。





 真綿で首を絞められるというのは、こういうことを言うのかもしれない。

 心臓に触れる指と、吹き込まれる息。

 繰り返し重ねられるそれらに、少しずつ自分が世界から遠ざかっていくのが分かる。

 まるで月夜の水底に沈んでいくような緩慢な死だ。

 女の冷たい体が心地よく、だがふっと意識が途切れた後―――― その体を冷たいとは、思わなくなった。

 いつ目を閉じていたかは覚えていない。

 だがシシュは瞼を上げて、暗い天井を見る。



 遠い。

 ずれて小さな。

 点のような存在。

 線と力。

 拡散する。

 位置。

 空。

 そして意味。



「急に無理しないで」

 サァリの声が聞こえる。

 それはとても、近しいものとして響いた。すぐ傍で、それ以上に繋がっているかのように。

 シシュは自分に跨ったままの女を見上げる。

「サァリーディ……?」

「まだ。これから足すから」

 枯らしてしまった甕に、新たな水を注ぐ。

 それと同じことを彼女はしようとしているのだ。

 切り替えは飛沫のような断絶かと思えたが、そうではなかったのかもしれない。サァリの頬にはいつの間にか涙の痕があった。シシュはそれを見て、手をついて上体を起こす。

「サァリーディ」

「え? ちょ、え?」

 驚く彼女を腕の中に抱きしめる。



 ―――― 孤独な異種。

 彼女がそうであることを知っていた。知っていて、構わないと思っていた。自分だけはありのままを受け止めると。

 だが己がこうなった今、新たな視界で彼女を見ると―――― そこにいるのはただの女だ。自分と同じ、ただ愛しい相手。

 シシュは、今まで独りを耐えてきた彼女を労わるように抱く。

「随分待たせた」

 ただ一人の客を待って、彼女はこの館にいた。

 恋情を捧ぐ男の為に。揺らぐ不安を抱えて。

「愛している」

 だから、もう孤独を感じる必要はない。

 シシュはそうして彼女の白い手を取ると、誓いを込めて口付けた。





 唖然としたままのサァリは、顔を上げた彼がばつの悪い表情になると、ようやく我に返ったらしい。紅い唇を噛んで声もなく泣き出した。小さな額を彼に寄りかからせる。零れ落ちる涙がシシュの胸を濡らした。

「シ、シシュの馬鹿……」

「一応言っておくと、別に心変わりしたわけではない」

「わかってる」

 ただ彼女の孤独を真に理解しただけだ。これまでの間、どれだけ不安でいたのかも。

 シシュは泣きじゃくる彼女をなだめようと、長い銀髪を何度も撫でる。

 神に対しているという気負いが薄らいだせいか、サァリがまるで最初の少女に戻ったかのように思えた。頼りない体が無理をしていたことを、彼は改めて実感する。




 だが―――― 度し難いことに、触れている身体は抗いがたい蠱惑的なものだ。

 ようやく彼女が泣き止んで微笑むと、シシュは多くを飲みこんで頷いた。

「よし、残り半分か」

「うん……ちゃんと横になって。手元が狂うから」

「意識を失いたい」

「駄目。触るだけなら何処でも好きにしていいけど」

「事態が悪化する」

 精神が、死を経たこととは違う方向性で疲弊しつつある。

 ほっそりとした腰に回していた手を、名残惜しいと思いながら離し仰向けになると、サァリがぺったりと上に重なって来た。嬉しそうな青い目が至近から彼を見つめる。

「何か希望があるならどうぞ」

「…………」

 それはどういうことなのか。

 頭の中をよぎった幾つかを、シシュは無言で飲みこむ。口にしたいと思う己を内心で叱りつけつつ、深く息をついた。敷布の上に広がった銀髪の一房を撫でる。

「先にお願いするが、答は言わないでくれ。また今度聞く」

「うん」

「サァリーディが欲しい」

 自分でも呆れてしまうような、無粋な希望。

 愚直な望みを聞いた女は、けれど途端口元を綻ばせる。

「それは私にとって―― 最高の言葉」

 そうして月白の娼妓は嫣然と笑った。

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