第113話 神楽
人として死ぬ。
そして神に成る。
―――― まるで妄言にしか思えない言葉だ。
この街で、彼女の兄たる男が言ったのでなければ、到底信じられなかっただろう。
離れの部屋から、月白の母屋にある浴室へと移されたシシュは、冷水を浴びせられながら問う。
「しかし、本当にそんなことが可能なのか?」
「可能さ。元々神供の男ってのは半神半人だ。巫にとって唯一の同族が神供の男だって聞いたことないか? あれはつまりそういう意味だ」
言うなりまた、桶から冷水がぶちまけられる。
顔面にかけられたそれに、シシュは一瞬息を止めた。
恨みがあるのではないかと思われるほどの水攻勢は、一応禊であるらしい。本来ならば前日から食事を抜いておかねばならないのだが、今はとにかく時間がない。神縄を解くわけにもいかないということで制服のままのシシュは、先程から遠慮ない水責めを受けて潔斎をしていた。
迂闊に口を開けば気管まで注ぎ込まれそうな水は、木の湯船から汲みだされていて特別なものには思えない。ひょっとしたら単に、巫の兄である男の憂さ晴らしなのかもしれないが、疑いだしたらきりがないので、シシュは黙って前髪から滴る水を眺めていた。
トーマがまた身を屈めて桶に水を汲む。
「神供の男は、客取りによって人から半分ずれる。そして、巫を人の世に縫い留めるんだ。これは神が返礼を受け取ったことの証でもある」
「なるほど……」
「で、お前の場合はそれを全部ずらしてみようというわけだ」
「そんなことが可能―――― 」
激しい音を立てて水が顔にぶつかる。
閉口するシシュに、トーマは平然とした顔で返した。
「可能だろ。相手はサァリだし、アイリーデの歴史には前例もある」
「前例があるのか!」
「ある。百年くらい前のことだ。当時の巫は体が弱くてな。出産後まもなく亡くなったが、客だった男が代わりに自分の娘を長じるまで守った。極めて稀な例だ」
トーマは次の水を、シシュの右半身にぶちまける。
「今回も危急時だからな。お前がそうなればちょうど戦力になる。サァリ一人じゃいくらなんでもきついからな。お前がいれば相手が同時に来ても二対二だろ?」
「戦力って……確かさっきもそう言ってたな。まさか最初からそのつもりで―――― 」
今度は水ではなく空の桶が飛んできた。
首を横にして桶をよけたシシュは、笑顔のトーマと目が合う。
「いやいや、肝心なのは結果だろ?」
「桶は」
「手が滑った」
「…………」
色々と言いたいことがないわけでもないが、トーマにとっても蛇が彼を蝕んでくるとは予想外のことだったのだろう。
壁に跳ね返り転がってくる桶を拾い上げた男は、一息つくとずぶ濡れの友人を検分する。
「……もうちょいかけとくか?」
「さすがにそろそろ風邪を引きそうなんだが」
「どうせ死ぬんだから別にいいだろ」
「…………」
ひどい会話だが、何処まで本気なのだろう。
シシュは少し考えて、もっとも率直と思える問いを投げかけた。
「死ぬことになるとは、どういうやり方で存在をずらすんだ?」
もし一度死んで蘇生されるのだとしたら、死ぬまでにサァリの手を煩わせたくない。
色々重なって不安定になっている彼女だ。出来れば死ぬところではなく、死体になってから落ち着いて見てもらった方がいいだろう。
そんなことを考えているシシュに、男は当たり前のことのように返した。
「何言ってんだ。今までの話聞いてなかったのか?」
「聞いていたが」
「なら分かってることを聞くなっつの。―――― 神供は神と交わることで変質する。お前を殺すのも戻すのも、どっちもサァリだ」
「…………」
言われたことを反芻する。
それはつまりどういうことなのか。飲みこみきれぬまま、シシュは黙り込んだ。すかさず遠慮ない水責めが再開される。
淡々と水を汲んではかけてくる男は、ようやく手を止めると青年に問うた。
「で、どうだ? 右腕動くようになったか?」
聞かれてシシュは、自分の右腕に視線を落とす。神縄と二本の巫針によって封印されていたそこは、離れにいる時にはほとんど動かなかったのだ。
シシュは冷え切った指を緊張しつつ意識する。感覚がほとんどないそこは、だが拍子抜けするほどあっさりと動いた。彼は指を握って開き、腕を上げてみる。
「元通り、みたいだ」
「おう。もう縄と針外していいぞ。しばらくはもつだろ」
用心しながらも針を抜き、神縄を外したシシュは、枷がなくなっても異常がないことにひとまず安心する。
火傷はそのままだが、今は冷え切っているせいか多少ひりひり痛むくらいだった。
シシュは動くようになった右腕で、濡れそぼった前髪をかき上げる。
「冷水のおかげか。ちゃんと効果があるんだな」
「当たり前だ。嫌がらせでかけてるとでも思ったか」
内心を見抜かれていたシシュは無言を保つ。
もっとも、腕が動くようになったと言っても一時的なもののようだ。そうでなければサァリがああまで錯乱するはずがない。
シシュはまた気鬱になりながら、とりあえず水を吸い過ぎてずっしりと重い上着を脱ぎ始めた。
その様子を見たトーマが、ふと思い出したかのように付け足す。
「そうだ。これ大事なことだけどな」
「なんだ」
「客取りの儀礼時って身籠りやすいんだ。でも身籠らせるとサァリの力が落ちるから我慢しろ。あいつがやるようにさせて、お前は手を出すな」
「…………」
言われたことを、シシュは再び反芻した。
―――― 意味が分からない。
飲みこみきれないことを理解しようとする間、上着を脱ぐ手を止めた友人に、トーマは意地悪く笑う。
「つまり、生殺しを味わえ」
それが最後の嫌がらせのように男は宣告すると、絶句したシシュを前に、空になった桶を湯船に投げ捨てた。
着替えとして渡されたのは墨染めの着物だ。
身支度を済ませ、主の間へと足を踏み入れたシシュは、そこで待っていた三人に息を飲む。
ラディ家のトーマとミディリドスの長、そして次の長と言われるトズが、座敷の正面、正式な和装に身を包んで座していた。
トーマの前には銀色の盃だけを乗せた塗り膳が置かれている。テンセが四弦を、トズが鈴と鼓をそれぞれ携えており、それぞれの楽器にはミディリドスの紋であろう根つきの草が彫り込まれていた。
ぴんと張り詰めた空気は、まぎれもなくアイリーデのもう一つの姿だろう。我に返ったシシュは座敷の中央に歩み出ると、そこに座する。入れ違いに立ち上がったトーマが、重々しい所作で塗り膳を彼の前に差し出した。透き通る酒をシシュは一礼して口に含む。
―――― 言葉はない。
息は穢れに繋がるのだと聞いた。だからトズも今日は笛を持たない。鳴り始める楽の音に、シシュはつい隣の襖を一瞥した。
寝所であるそこには、今はサァリが一人でいるはずだ。
神楽舞に楽はない。それは彼女だけが舞うもので、今鳴らされている音は、冷水や酒と同じくシシュへの禊の一つだ。
強く、そして弱く。嚥下した酒と混ざり合って体の内に広がっていく楽に、彼は黙って聞き入る。王都で生まれ育った自分が、今このような場にいることに、気付いてしまうと複雑な感慨が膨れ上がった。初めて月白に足を踏み入れた時、玄関で出迎えてくれた少女の姿をシシュは思い出す。
綺麗な娘だと思った。思わず見惚れた。
銀の髪と白い着物は月光が染みこんでいるようで、蒼い双眸は深い水底を思わせた。
彼女が巫であると聞いて、さもありなんと思ったのだ。
何処の国でもない―――― 神話を継ぐ街、アイリーデ。
聖娼で知られる妓館に佇む少女は、いつか咲き誇る日を待ってまどろんでいるように見えた。
その「いつか」とは、今夜のことなのだろうか。
音がやむ。
水滴が落ちる響きさえ聞こえそうな静寂に、過去を振り返っていたシシュは顔を上げた。
トーマたち三人は、無言で一礼するとそれぞれの道具を持ち主の間を出て行った。
一人きりになった青年は、神がいるであろう部屋の方を見る。
名を呼ぶ必要はない。
音もなく、ゆっくりと襖が開いていき―――― その向こうには、一人の女が座して深く頭を下げていた。
白い薄絹を何枚も重ねた舞衣。広がる裾に縫い留められた鈴は、一つ一つが澄んだ銀色に光っていた。
長い銀髪は二本の簪で上げられている。その先には大粒の真珠が嵌め込まれており、シシュは見覚えのあるそれが、自分の贈ったものであることを思い出した。
前に重ねられていた白い両手が引かれる。
肩に垂れていた銀髪の一房がさらさらと動いた。小さな頭が上げられ、神の眼差しが彼に向けられる。
澄みきって何処までも遠い青。孤独と情愛を孕む瞳は、シシュにとってよく知るもので、だが今は初めて目の当たりにする静けさを湛えていた。
凄艶な美貌は夜の翳を帯びて、生粋の娼妓のようにも、無垢な作り物のようにも見える。
離れていても分かる神の気が急速に部屋を冷やし、畳のあちこちがぴしぴしと音を立てた。
瞬く間に彼女の支配下に置かれた部屋で、シシュは無意識のうちに居住まいを正す。
サァリはそんな彼を見てふっと微笑むと、絹袖に包まれた右腕を上げた。縫い付けられた鈴が波に似た音を立てる。細い身体が立ち上がり、すべらかな素足が一歩を踏み出した。
足音は聞こえない。ただ鈴の音だけがついてくる。
彼女はそうして、ただ一人の為の舞を始めた。
鈴の音は、一つ一つが波紋を描いて広がるようだ。
宙に重なるそれらは彼女の力の現れであり、神の楽だ。
薄絹を引いて、しなやかな四肢を伸ばして、女は舞う。
小さな爪先が畳を踏む度、そこには掌ほどの氷花が咲いた。冷気が白い帯となり、翻る舞衣と重なる。
サァリは笑わない。
妖艶に、可憐に。細い腕を絡めて天へと伸ばす。露わになる脚が花を生む。
遠ざかり近づく鈴の音だけが響き、紅い唇が小さく息を継いだ。
指が冷気を纏わせて空を掻く。繊細な仕草の一つ一つに、シシュはただ呆然と見入る。
溜息も忘れる程の神楽舞はひたすらに美しく―――― それ以上に、神が持つ力に溢れていた。
細い指先が自分の方を向く度に、青い目と視線が合う度に、魂から圧されていく。
息が苦しくなり、気が遠くなる。
小柄な彼女が、天に輝く月にも等しく思えた。
己が深遠なる者に対しているのだと、意識を背けたくとも根底から思い知らされた。
無数の鈴が鳴る。
人が初めて神に触れるのは、本来ならこの時であるという。
現にサァリの父親は、ディスティーラの舞を見て、震えて許しを請うた。あまりの存在の違いに心が耐えきれなくなったのだ。
だがシシュは威圧されながらも、それら全てを飲みこんでいった。
何もかも違う彼女が、何もかも違う自分を選んだ。そのことが純粋に―――― 当然のように彼を支えた。
サァリが彼を見る。
小さな唇が淋しげに笑み、広げられた腕が下ろされた。細い脚が伸ばされ、気付けばすぐ目の前に彼女が立っている。
神である女は時を戻したかのように膝をつくと、初めの時と同じく両手を揃えた。重々しく頭を垂れ……けれどすぐに顔を上げた。恥ずかしそうな、不安そうな目で問うてくる。
「どうだった? おかしくなかった?」
「いや……」
いつもの調子に、反射的に答えかけてシシュは口を噤んだ。もう普通に話していいものか分からなかったのだ。
だがサァリはじっと彼を見上げて答を待っているままだ。シシュは多少の決まりの悪さを飲みこむと頷く。
「綺麗だった。……とても」
不器用な賛辞に、彼女は安堵したように微笑んだ。
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