第112話 履行


 細い首だとは、知っていた。

 知ってはいたが、この状況にあってそれは、シシュの恐怖を煽るだけだ。片手でたやすく折れてしまいそうな女の首元に、ぎりぎりと自身の爪が食い込む。

「…………っ!」

 青年は、左手で己が右手を掴むと無理矢理彼女から引きはがした。

 圧されていた呼吸が戻り、小さく咳込んでサァリがうっすらと目を開ける。

 だがシシュの意識は彼女の青い眼よりも、白い首に滲む血の赤さに引きつけられていた。

 ―――― 欲しい。

 狂いそうな程の飢餓を誘う色。その香しさ。

 今すぐ柔らかな肌に歯を立てて、彼女の血を啜りたい。一滴も残すことなく食らって、自分のものとしたい。



 吐き気がする。



 自分が、人でないものになっていく気がする。

 シシュは震える右手を左手で押さえながら、自身を二分する欲と恐れに呻いた。

 このまま、己もヴァスのように塗りつぶされてしまうのかと、思う。

「……シシュ?」

 掠れた声が聞こえる。

 いつの間にかサァリが身を起こしかけて、彼を見ている。

 ぼんやりとして頼りなげな女の目。彼女はまだ、何が起きているのか気付いていない。回復しきっていないのだ。

 だから―――― 今ならまだ。


 シシュは自由の利く左手を離す。

 彼女へと貪欲な右手を伸ばしながら、軍刀を抜いた。何が起きているか分からないらしいサァリを見る。

「……すまない、サァリーディ」

 そうして彼は刃の半ばを握ると、自身の右腕めがけて振りおろした。





 定まらない視界に見えたものは、よく知る青年と振りおろされる刃の軌跡だ。

「っ、シシュ!」

 己の腕を切り落とそうとする軍刀に、サァリは身を乗り出して叫ぶ。

 手段を選んでいられる時間はない。力の加減をする余裕もなかった。

 放たれた力が、軍刀の刃を割り砕く。

 それだけに止まらず、青年の体もまた冷気の塊に打ち据えられ、背後の柱に叩きつけられた。木と肉がぶつかりあって軋む衝撃音に、サァリは顔色をなくす。畳の上へとくずおれた彼に、うまく動かない体を引きずって這い寄った。

「シ、シシュ……生きてる?」

 倒れこんだ彼の顔は見えない。動く気配もない。

 伸ばそうとした手ががくがくと震える。

 ―――― まさかこんな風に呆気なく彼の命を奪ってしまったのだろうか。

 何だか分からないうちに、自分が終わらせてしまったのだろうか。

 サァリはようやく届いた指で、青年の前髪をかき上げる。その下の端正な顔は苦痛に歪んではいるが脈動を感じるもので、彼女は心から安堵せずにはいられなかった。気が緩むと同時に涙が滲んでくる。

「ご、ごめんね、今なんとかするから……」

 治癒をしなければ、と思い、だが動転しているせいかどうすればいいのか分からない。

 とりあえず触れた手から力を注ごうとした彼女を、けれど青年自身の声が留めた。

「……いいから、逃げろ」

「え?」

「蛇が」

 それ以上聞くことは出来なかった。

 シシュの手が、彼女の細い首に素早く取りつく。右手はそのまま圧倒的な力をもって、彼女の喉を締めあげた。

 首を折ろう、というより食い破ろうとするかのように、取りついた五指は肉に食い込んでくる。

 理解出来ぬ状況に、サァリはただくぐもった呻きを上げた。

「……っ、……」

 何故か、と問う余裕もない。意識が遠のく。

 自分が殺されるかもしれないとは思わなかった。ただ殺したくないと思う。サァリは上手く動かない手を上げ、彼の腕に触れた。喘ぐように呼ぶ。

「ぅ……シ、シュ」

 ―――― 不意に、ふっと力が緩む。

 見ると青年の左手が、自身の右手をきつく掴んで留めていた。シシュは苦悶の顔のまま、ゆっくりと己の手を引きはがす。

 言葉はない。食い込んだ爪がサァリの皮膚をえぐっていったが、彼女はその痛みに気づかなかった。畳の上に引きずりおろされてもなお、細い足首を掴もうとするその手を見つめる。黒い、ささやかな影が目に留まった。

「これ……」

 人の欲、と聞いた。

 地下深く封じられた蛇と同じもの。毒に似た陰だ。

 彼を蝕んで動かす欲に、サァリは一瞬虚を突かれる。―――― その瞬間、正面から伸ばされた左手に、とんと軽く肩を押された。

 そうして畳の上に座り込んだ彼女が、呆然としていたほんの僅かな間、シシュは懐から長い針を抜く。

「逃げろ、サァリーディ」

 いやにはっきりと聞こえる言葉。

 針はそして、彼の右手の甲を貫き、畳の上へと縫い留めた。



「あ……」

 漏れ出た自分の声は、ひどく遠いものとしてサァリに聞こえた。

 人としての己が、事態を認識する声。それと同時に内なる本質が、激しい怒りに捕らわれていくのが分かる。

 ―――― 誰の選んだ神供を、このように蝕んで損なおうというのか。

 零れる息に氷片が混じる。膨らんでいく感情が力と結びついた。

 人一人を容易く殺める神の眼差しが、黒い影へと向けられる。



 けれどサァリは、唇を噛むと激情を自らの中に押し留めた。代わりに子供の駄々と変わらぬ罵り言葉が唇を割る。

「……っ、何これ……もう、馬鹿……」

 右手を針で突き刺している青年が、それを聞いて顔を上げる。状況以外はいつもと変わらぬ彼の目に、サァリは泣きたくなった。弱り切った体のせいか頭がうまく働かない。ただここで退けば彼を奪われてしまうということは分かった。

 途方に暮れかけながら、もう一度シシュに手を伸ばそうとしたサァリに、だが襖の向こうから呆れたような声がかかる。

「―――― 何やってんだ、お前ら。ちょいうるさいぞ。館壊す気か」

「トーマ!」

「本当に何やってんだ? 喧嘩か?」

 襖を開けて入って来た男は、へたりこんでいる妹と、その前で倒れている友人を視界に入れて顔をしかめた。そこかしこに血が飛び散っている有様に苦言を呈してくる。

「なんでお前らは、ちょっと二人にしただけで流血騒ぎになるんだ。今は無駄な体力使うな」

「……トーマ」

「うん? 本当にどうした?」

 兄の顔を見て、気が抜けたサァリはぽろぽろと泣き出す。

 そこでようやくシシュの手の針に気づいた男は眉を寄せて―――― 無言のまま溜息を噛み殺した。




 ※ ※ ※ ※



「人の死っていうのは、どういうことだと思う?」

 トーマの声音に、説教じみたところは感じられなかった。漂っているのは体力を吸い取られる疲労感であり、僅かばかりの自嘲だ。

 月白の離れにあるサァリの部屋、妹の体を膝の上に抱き込んでいる彼は、答を求めて壁際の床に座るシシュを見る。

 手の甲と肘の裏側を針で刺され、更に細い白縄で右腕と体を拘束された青年は、首を傾いだ。

「どういうことと言われてもな。肉体の死……もしくは人格の喪失だろうか」

 それが死なのだとしたら、今の自分は後者に向かって緩やかに進んでいるのかもしれない。

 蛇の浸食を、針と神縄で一時的に留めてはいるが、いつまでもこのままでいられないことは分かる。シシュはサァリの泣き顔を思い出し、気鬱になった。


 今の彼女はトーマの膝上で縮こまっており、うっすらと目は開いているが起きているのかは分からない。妹の髪を撫でながら、トーマは頷いた。

「ま、そうだな。ほとんどの人間が、肉体の死を迎えて死ぬ。極わずかな者が人格を塗りつぶされて死ぬ。―――― でも『人間の死』ってのは、この二つだけじゃないと俺は思うわけだ」

「と言うと?」

 この話が今の状況にどう関わってくるのか。シシュは友人を見上げる。

 サァリはやはり眠っているのかもしれない。この状態に落ち着くまで、彼女は彼が死ぬことを極端に恐れて錯乱気味だったのだ。今何も言ってこないということは、失われた体力を取り戻すことに専念しているのだろう。虚ろな瞳は硝子玉のように焦点があっていなかった。


 トーマは腕の中の妹を一瞥する。

「なんで今、兄神が現れたのかってな。ちょっと考えたけどやっぱりサァリが不安定な巫だから、ってのにつきると思うんだ」

「不安定とは、力が強すぎるということか?」

「それもあるけど、こいつ、実質両親がいないだろ? そりゃ俺とか祖母がいたけどな、やっぱりちょっと違うんだ。月白の巫ってのは神供を迎えるまでの間、宙ぶらりんの不安定な状態にある。それを留めるのは『人の血肉を介して生まれた』って事実と、アイリーデの主人という座しかない。―――― でもこいつの場合、両親とはほとんど面識がなくて、母親は巫であることを放棄してるんだ。もともと力の大きさの割に不安定にならざるを得ない状況で……そういう隙が他を呼び寄せたのかと、思う」

「だとしても、サァリーディが悪いわけではないだろう」

 シシュが思ったままを率直に言うと、トーマは微笑した。肯定するわけでも否定するわけでもない。ただ大きな手が妹の体を抱き寄せる。

 とても大切な宝物を守るように、か細い神を支えて男は続けた。

「だから俺は、実は割と昔から、こいつの為に一人は死ぬことになるかもな、って考えてた」

「それは……」


 その予感は的中したと言えるのかもしれない。

 彼女に関わって死んだ者は、一人ではないのだ。

 だが何故今そのようなことを言うのか、シシュは憤慨に似た気分を抱く。友人の言葉を訂正させようと口を開きかけた。


 けれどトーマは、彼がそのように言おうとしていることを察したかのように、苦笑して付け足す。

「お前の思ってるような意味じゃないさ。俺の言うそれは―――― 神供のことだ」

「神供?」

 だとしたら、今の自分の状況だけが友人の想定内だったのか。シシュが困惑していると、トーマは笑ってサァリの頭に手を置いた。

「一人で十分なんだ。こいつの為に死ぬのはな。……どういうことか分かるか、サァリ?」

「わからない」

 彼女の返答に、シシュは驚く。

 サァリは動かない。目もうつろなままだ。だが彼女はそこに在る。

 男は頑なな子供に言い聞かせるように重ねた。

「分かるだろう。それでいいんだ。こうなっちゃ他に方法もないしな」

「でも……」

「大丈夫だ。もう、先視に怯える必要もない」

 サァリは黙する。ただ少しだけ長い睫毛が震えた。そうして目を閉じた彼女から視線を外し、トーマはシシュを見る。

「な、シシュ」

「何だ?」

「こいつの為に死ぬ覚悟はあるか?」

「ある」

 間髪置かず返すとトーマは笑う。少し寂しげな、だが嬉しそうな笑顔は、何処か「父親」を思わせた。

 男はけれど一瞬でその表情を消すと、もっともらしく頷く。

「なら決まりだ。シシュ、お前はサァリに殺されて、三番目の死を迎える。そう難しいことじゃない。ちょっと精神消耗するだろうけどな」

「三番目の死?」


 ―――― 肉体の死でも人格の死でもないそれは何か。

 何とはなしに己の右腕を見る青年に、トーマは微苦笑して、言った。

「単純なことだ。『人』の死だからな。今晩お前は、人として死んで―――― サァリと同じものになるんだ」

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