第111話 欲望


 白光が全てを塗り潰す。

 一瞬で骨までを凍り付かせるのでは、と思えたそれは、凄まじい圧力を感じさせながらも、何一つ傷つけることなく、まるでただの風のようにシシュの中を通り過ぎた。

 代わりに壁際にいた黒い人影が、白い波の中で四散する。

 それだけでなく力の濁流はヴァスにもまた襲いかかり、青年は純粋な攻撃に対し直剣を上げて防御しようとした。

 ―――― だがそこに鋭い白刃が突き込まれる。


 シシュのものではない。新たな一振りは、ヴァスの背後からその体を串刺さんとして現れたものだ。

 ウェリローシアと月白の両方の紋を鞘に持つ、神殺しの剣。研ぎ澄まされた刃を振るう男は、直前で察知し身を躱したヴァスを、冷めきった目で睨む。

「大したざまだな。それとも、その姿で我が物顔に歩き回るな、と言った方がいいのか?」

「トーマ!」

 友人の名を呼んだのはシシュの方だ。男の妹は彼の腕の中でぐったりとしており、青い瞳も精彩を失って半ば閉じられていた。

 だが彼女の意識はまだ、ヴァスの方へと向けられている。それは畳の上を広がる霜からも明らかだ。彼女の力はこの部屋を支配下に置いている。


 ヴァスは避けきれなかった力のせいで罅の入ってしまった剣身と、すっかり凍り付いた自身の右半身を見た。

 うっすらと血が滲み始める体は、まだ人のものに近いのかもしれない。

 サァリの周囲をたなびく冷気がいくつもの鋭い穂先を作る。

 それらを向けられた青年は、態勢を整えると、小さく溜息をついた。二人を庇うようにして前に出たトーマを見やる。

「参りましたね。全員殺しても構わないのですが、余力は出来るだけ残しておきたいですからね……」

 考え込むような陽の目は、この場にいない存在をも勘定しているようだ。

 消え去った黒い影も、その大元はまだ地下に潜んでいる。他にも懸念はあるのかもしれない。

 青年はシシュに抱えられたサァリを見つめた。


「仕切り直しにしますか」


 賛同を求めるような言葉に、しかし三人の誰もが答えない。

 サァリは銀色の睫毛を軽く上げて、二重の縁を持つ青年を見返した。ヴァスは穏やかとも言える微笑を見せる。

 そうして彼は軽く肩を竦め―――― そのままふっと消え去った。同時に崩れ落ちるサァリの体を、シシュが慌てて抱き直す。

 ずきりと鈍い痛みが右腕に走り、そこでようやく彼は、軍刀を握る右腕がひどい火傷を負っていることに気付いた。

 ヴァスの攻撃を防いだ時に飛沫に触れたのだろう。服は焦げ落ち、皮膚は爛れて肉の上に血が滲んでいる。剣を鞘に収めたトーマが顔を顰めた。

「とりあえず何か巻いとけ。あとでサァリに治させる」

「ああ……悪い。これでは彼女の着物を汚してしまうな」

「もう十分汚れてる。気にするな」

 そう言いながらもトーマが妹を引き取ったのは、シシュの怪我を気遣ってのことだろう。

 男は気を失ったサァリを自分の外套で包むとそっと抱き上げた。畳の上の凍り付いた死体を一瞥する。

 顔の下半分を破壊された男は、畳の上に大きな血溜まりを作ってそこに没していたが、その血も今は固く凍っていた。先程の残滓か、小さな黒い影が飛び散った血肉の上に薄く漂っている。



 今、外で起こっている戦争において、影の扇動者たる外洋国の要人は何故か、先視や遠視にほとんどかからないのだという。

 シシュはその話を聞いて、人外がそちらについているのではないかと疑ったのだが、ひょっとして単に、当の人物がサァリの支配するこのアイリーデにいたからこそ、先視に映らなかっただけのことなのかもしれない。


 今となっては、本人に確かめることは出来ない推測だ。



 トーマもさして興味はないのだろう。すぐに死体から視線を外すと、何も言わず部屋を出ていく。

 ―――― 不遜が故の死に与えられる言葉はない。

 アイリーデという街の結論が、立ち去る男の背には冷然と負われていた。




 ※ ※ ※ ※




 トーマは二人のもとに駆けつけてくる直前まで、件の刺客の掃討に関わっていたらしい。

 傷を負ったサァリと下女を連れて月白へと戻る道中、二人のもとにはラディ家の下男や自警団員らから次々報告が入って来た。その中には「刺客と思しき者たちが次々爆ぜた」という話も混ざっており、シシュは気を失ったままのサァリを見やる。

「先程の力の余波が及んだのか?」

「いや、用済みと看做されたんだろ」


 ―――― 何に、とは聞かない。答は明らかであるからだ。

 人の争いの一端をこの街に持ち込んで、サァリを狙ったのは蛇代だ。蛇代は、人外の血を道具として利用する外洋国のことを知り、サァリを標的にするよう誘導したのだろう。

 その結果、彼女の血が得られれば十分成功で、そうでなくとも神と人の血が混ざりあって街を穢せば、やはり蛇の力となる。

 どちらに転んでも蛇代にとっては悪くない結果で、アイリーデからすれば、企みに気付いたとしても刺客を排除する他に道はない。

 結局は人の欲望が、彼女を食らおうと動いただけなのだ。



 ミフィルによって届けられたというベントの紙入れを一瞥し、シシュは溜息をつく。

「すまない。後のことは城に頼んで調査させよう」

「構わないさ。どっちみちこっちにはヴァスの奴がうろついてるからな。神同士の仲間割れなんて、蛇にとっちゃ見逃せない好機だ。今回の件がなくても、別の伝手で仕掛けてきただろ」

「だが……」

「それより、こっから先の話だ。人間絡みの話は城に押し付けられるとして、あとの二つだな。相手同士で潰しあってくれりゃいいんだが、難しいだろうな」


 蛇とヴァス、両方ともがサァリの命を目的としているのだ。

 彼女を無視して争いあうとは思えない。むしろヴァスなどは彼女の死が目的の分、蛇の後押しをしても問題ないくらいだ。


 ―――― 相手が一人でも厳しい戦いにもかかわらず、同時に複数とまみえることになるかもしれない。

 その時に彼女を十全に守りきれるのか、シシュは人の身には高い壁を前に緊張を覚える。




 主が襲われたという話は、月白にも知らされていたらしい。

 シシュたちが門前に着くと、火入れ前の時間だというのに、イーシアをはじめとして数人の女が駆けてきた。

 付き添ってきた自警団員の手から、まず下女がイーシアに支えられて引き取られる。

 相変わらず意識のないサァリは兄に抱き上げられたままで、シシュは青白い女の顔を見ながら門をくぐった。内に敷かれた石畳に足を踏み入れた時、怪我をした右腕がずきりと痛む。

 トーマは辺りを軽く見回して言った。

「離れ……じゃない方がいいな。主の間でいいか。シシュ、お前も来い」

「最近、出入り禁止になっているんだが」

「知るか。どっちみちあと二日で客取りだ。今入ったって何が変わる訳でもないだろ。それより今は離れてる方が不味い」

「……確かに」

 ヴァスは仕切り直すと言っていたが、それが本当だと信じきれるわけでもない。

 少なくともサァリが回復するまで共にいた方がいいだろう。シシュは巻いた布越しに火傷を押さえ、館の中へと上がった。


 主の間の寝所に妹を寝かせると、トーマは大きく息をつく。

「しかし、なんか面倒なことになっちまったな。元々すんなり行くとは思ってなかったが」

「蛇代のこと、気付いていたのか?」

「いや。ただおかしな奴らが入り込んでサァリを狙ってるみたいだったからな。動き出したところを一掃してやろうとは思ってた」

「それで今日動いたのか」

「ああ」


 客取りの情報をベントが得ていたかは分からないが、サァリを襲ったのを切っ掛けに他の者たちも行動に出るところだったのだろう。或いは彼女を得た後は、皆、用のなくなったアイリーデから退却するつもりだったのかもしれない。

 だがそんなことになれば、アイリーデの全てが彼らの敵に回っただろう。どれ程の惨事になったことか、シシュはぞっとして寝所の入口に立ち尽くした。


 サァリの枕元に胡坐をかいているトーマが、そんな青年を見上げる。

「ま、俺も王都のあちこちから情報貰ってたから動けてたってのはあるけどな。城もウェリローシアも、人外の動きまでは読めなかったってことだ。―――― こっから先は、アイリーデの問題だ」


 冷えた戦意が、男の精悍な横顔によぎる。

 妹を見下ろすその顔は、普段の余裕や軽妙さがない、抜き身の刃を思わせる貌だ。

 神に仕える神供三家―――― その一つを担う者としての冷徹さに、シシュは自然と居住まいを正す。自らもまた、彼女の神供であることを思い出したからだ。



 トーマは妹の顔を見たまましばらく何事か考えていたが、不意に顔を上げるとシシュを手招いた。

「悪い。ちょっとサァリ見ててくれ。ミディリドスと話してくる」

「構わないが、一人で外に出て平気か?」

「こっちに呼んである。そろそろ来るだろ。客取りについて予定変更を伝えないとならないし」

「ああ……確かに先延ばしにした方がいいな」

 シシュ自身の怪我はともかく、サァリも負傷している。いくら彼女が傷を塞げると言っても、しばらくは安静にした方がいいだろう。

 だが頷くシシュに、トーマは立ち上がりながら呆れ顔になった。

「違うっての。早めるんだよ。最低でも明日だ。出来れば今夜」

「…………は?」

「他に打てる手がない。今のままじゃ戦力が足りないからな。っつっても、サァリ次第だ。今日中に起きなかったらどのみち明日になる」


 ―――― 意味がよく分からない。

 分からないのだが、トーマはシシュの肩を軽く叩いて部屋を出て行こうとする。我に返って呼び止めようとする彼に、トーマは振り返ると思い出したように釘を刺した。

「あ、分かってると思うが、そいつに触るなよ。サァリが早く回復しても、お前の生気が削られちゃ客取りが出来なくなるからな」

「……いや、話についていけてないんだが」

「後で説明する」

 男の言葉は襖の閉まる音とほぼ同時に聞こえた。

 廊下を去っていく足音に、シシュは困惑を強める。とは言え、追いかけて聞き直すのもはばかられた。

 彼は先程からひどく傷む腕を押さえて、サァリの隣に座る。



 まるで人形のように顔色のない女を、青年は見つめる。

 いくら非常事態とは言え、怪我をしてそのままなのだ。傷の手当もしていなければ着替えもしていない。

 今ここに誰か娼妓がいれば少しは何か出来るのだろうが、唯一部屋にいる人間は「触るな」と厳命された自身だけだ。

 シシュはままならなさに落ち着かなくなって、枕元に畳まれていた薄い手布を拾い上げた。直に触れぬよう注意しながら、それでそっとサァリの口元の血を拭う。小さな苛立ちが胸で疼き、右腕がますます傷んで痺れた。

 溜息が言葉になる。

「もし俺が―――― 」



 もっとずっと前に神供についての答を出せていたのなら。

 彼女は今のような苦境には追い込まれていなかったのかもしれない。少なくとも今日くらいのことは防げたはずだ。あんな風に腹を刺され、紅い血を吸い出されるようなことは。



 傷が痛む。

 陽の力に焼かれたそこは、今は酷く彼を苛むようだ。肉を、そしてその先までも更に責め訴えてくる。

 シシュは思わず顔を顰めた。

 女の唇に指が触れる。

 どろりとした感情が蠢く。

 脳裏に染み出した血の紅さがよぎり、甘い香りが鼻を突いた。



 あんな風に―――― 血が――――



 軽い眩暈がする。

 右手が痺れる。

 もっときちんと冷やした方がよかったのかもしれない。

 そう思いながら、だが指だけはそっと彼女の唇をなぞっていった。

 湧き起る気分の悪さにシシュは顔を顰める。



 血の匂いがする。

 息が苦しい。

 御しようのない欲望が全身に広がっていく。

 いつの間にかじわじわと染みこんできた毒が、頭の中をも変えていくようだ。

 彼は乾いた喉を鳴らした。



「……しらつき、よ」



 自分の声が、彼女を古い存在の名で呼ぶ。

 それを認識した時、シシュは愕然として己が右手を見た。布の巻かれた腕、黒い影がまとわりつく指先が、サァリの首へと伸びる。

「まさか……」

 潜んでいたのかと、問う暇もない。

 彼の意思によらず伸ばされた五指は、おもむろに白く柔らかな喉へと、食らいつくが如く爪を突き立てた。

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