第110話 美味
抜いた直刃を二人に向けた青年は、その刃に走る赤い光とは対照的に冷めきった貌をしていた。
転がる男の死体に一瞥もくれず、二人にはそれ以上の関心も見せない。ただ義務の残滓であるように、彼はサァリに向けて口を開く。
「在るべき場に連れ帰ろうと、思っていたのですけれどね」
「……私は帰りません」
「どうやらそのようですね。そこまで決意が固いなら無理強いも出来ないでしょう。こんなこともあろうかと代わりは確保しておきました」
「代わり?」
思わずシシュは聞き返したが、ヴァスは薄く笑っただけで答えない。その剣も相変わらずサァリの顔へと向けられたままで、シシュはやはり「前の彼とは違うのだ」と冷厳な事実を噛み締めた。
以前ネレイの時にサァリは「人格を塗りつぶされた」と言っていたが、今のヴァスもそれと同じであるのだろう。化生斬りの青年は、歯噛みしたい衝動に駆られて軍刀を取った。かつて共に神と相対した青年に向けて、刃を構える。
「代わりがいるというのなら、サァリーディのことはもういいだろう」
「それが、そうもいかないんです。彼女をここに置いておくということは、同じ存在が人の世に生み出され続けるということですからね。それでは意味がないでしょう。またいつ面倒事が起きるとも分かりません」
「だからと言って―――― 」
反論しかけたシシュは、だがそこでサァリの手が服を引いたのに気づいて口を噤んだ。夜の湖面に似た静かな女の目を見て、彼は意識を改める。
今ここで言い争ったとしても、相手は元のヴァスではない。彼の姿形をした神だ。
人間の主張を聞き入れて退いてくれるような存在なら、はなからここまでのことにはならなかっただろう。
もう、彼女を守ろうとしていた二人の青年はいない。自分が惑っていては、彼らの動きも無にしてしまうだけだ。
シシュは未練に似た感情の混迷を押し殺すと、サァリから手を離し立ち上がる。彼女を庇ってヴァスの前に立ち、軍刀を構えた。
「ならばまた退けるだけだ。お前が人の世に関わるのをやめるまでな」
「人の身で殊勝なことですね。一人で何が出来るとも思いませんが」
「―――― シシュ、この棒抜いて」
疲労が窺える、だがはっきりとした声が背後から囁く。
シシュは目の前の神を見たまま逡巡した。ヴァスが目を細めて微笑する。
「それを抜いたら、どのみち出血で倒れますよ。無駄なことはおやめなさい」
「シシュ、いいから抜いて」
「サァリーディ……」
陽の光を宿す直刃に、隙は見られない。
今振り返って身を屈めれば、ヴァスの剣は容赦なく彼を両断してくるだろう。
だが、サァリを後ろに庇ったままのこの状況で、神と対等以上に戦えるかも分からない。
そんなシシュの迷いを見抜いたかのように、青年は穏やかに笑った。
「そのままでいなさい。……楽に死なせて差し上げますから」
「抜いて! 早く!」
伸ばされる白い手。
シシュはその手を掴んで引き寄せる。
打ち込まれる剣を、右手の軍刀で受け流した。サァリに突き刺さった楔を掴む。
―――― そして彼の視界は、眩い閃光に焼き尽くされた。
神同士の力がぶつかりあう余波が、古い空家を大きく揺らす。
白い冷気の帯をたなびかせて、立ち上がったサァリは細く長く息を吐いた。銀に光る爪でヴァスを指す。
「いいだろう……受けて立ってやる」
下ろされた長い銀髪は、それ自体うっすらと光っている。
白磁の着物は裸身と変わらぬ程に乱れて、だがそれさえも女の美しさに拍車をかけていた。
完成された凄艶な貌に、サァリは静かな戦意を滲ませて青年を睨む。隣で彼女を支えるシシュはけれど、自分が左手を回し押さえている傷口から、みるみるうちに広がり始める血の染みに、焦燥を押さえることが出来なかった。早くヴァスを退けて止血をしなければならないと思い、だが焦りは隙を生むだけだとも思う。
彼はほんの僅かな間考えると、左にサァリを支えたまま、その身体の前に軍刀を構えた。
攻撃の為の姿勢ではない。彼女を守ることだけに専心する構えだ。サァリにもその意図は伝わったらしく、彼女は吐息混じりに頷く。
「すぐ終わらせるからね……待ってて」
「気にしなくていい。これ以上の傷はつけさせない」
今、この瞬間を乗り越えられねば、先には何もない。
ただでさえ不利な状況なのだ。判断を誤れば、即全てを失いかねない。
そしてもっとも優先されるべきは、彼女の命だ。だからシシュは攻撃を全て彼女に任せ、自分はその身を守ることを選んだ。
一対として相対する二人を、ヴァスは感情のない目で眺める。
「面白い。その体で何処まで出来るのか見ものですね」
「見ものと言うなら黙って見ていろ」
冷え切った言葉と共に、サァリの手の中に白銀の光が膨れ上がる。
近づくだけで肌を切る冷気の塊は、そうしてヴァスに向けて何の警告もなく打ち出された。対する青年は少しだけ煩わしげな表情で剣を上げる。
目には見えない。だが何らかの防壁がそこに張られたのがシシュにも分かった。サァリの力が壁に衝突し、氷片混じりの暴風が座敷に吹き荒れる。くたびれた襖がたわんで裂け、倒れ伏したままの死体に霜が張った。
「っ……」
力を振るう反動が傷に響くのか、サァリが小さく呻く。
だがそれでも彼女は歯を食いしばって腕を上げているままだ。研がれた力が白い刃となって続けざまに放たれる。
シシュはその中を縫って向かってくる、金色の礫を軍刀で斬り払った。刃に触れたそれらは粒となって四散し、冷たい風の中へと掻き消える。ぶつかりあい、相殺しあう二つの力は、そうしてゆっくりと一つの渦を生み出しつつあった。
サァリは己の体重をシシュに預けて荒い息をつく。
「―― 支えてて」
これで終わりにするつもりなのだろう。彼女の銀髪一本一本に、青白い輝きが宿った。
白い胸の前に小さな光球が現れる。サァリは持てる力を全てその球に注ぎ込むつもりなのか、光球はまるでもう一つの月であるかのように、またたく間にその力の密度を増していった。
いつの間にか瞳が金色に変わっているヴァスが、舌打ちせんばかりに顔を顰めるのが見える。
サァリはふっと息を切ると、ほろ苦く笑った。銀の爪が青年を指す。
「……疾く去ね」
白光が膨れ上がる。
だがそれが打ち出されるより早く、ヴァスの背後から、小さな黒い影が畳すれすれを飛び込んできた。
ウェリローシアの青年が顔色を変え、サァリもまた体を震わせる。
「っ、シシュ!」
彼女の声が聞こえた時には既に、シシュは己の足下に飛び込んできたその影を、軍刀で斬り払っていた。
だが影は四散しながらも、落ちていた銀の棒に絡みつく。澄んだ音が鳴り響き、表面の紋様に深い亀裂が走った。中からどろりとサァリの血が流れ出す。
棒の中にどれ程吸い取られていたのか、畳の上に広がった血はしかし、異様な速度で地下へと吸い込まれていった。血の跡も残らぬ畳をシシュは唖然として凝視する。
僅かに漂う黒い影の残滓が、小さな蛇の形になり―――― 嗤った。
『美味』
地の底から轟く言葉。
忌まわしさと直結するそれは、シシュの記憶にあるものと同じであった。
この街に来て初めて出くわした事件において、陰で糸を引いていた人外、「蛇代」と呼ばれた呪術師のことを彼は思い出す。
まるでその思念が伝わりでもしたかのように、小さな蛇はしゅるしゅると畳の上を這うと、サァリからもヴァスからも等距離の壁の前で止まった。色褪せた畳から更に黒い気が染みだし、蛇に加わってぼんやりとした人形になる。何処からともなく飛来した鷹が、おぼろげなその肩にとまった。
人形は空気を震わせまた笑う。
『甘露の如き白月の血よ。小細工を弄した甲斐があったわ』
「黙れ、小賢しい蛇が……」
力なく吐き捨てるサァリに驚いた様子はない。
黒い影の出現に意表を突かれていたシシュは、彼女の傷口を押さえている手が、いつの間にか冷えきっていることに気づいた。サァリが止血を試みているのだろう。か細い体は今にも倒れそうで、シシュはそれを他に気取らせないよう彼女を支えた。
ヴァスがすっかり空っぽになった銀の棒を一瞥する。
「貴女はどうせぎりぎりで感づいたのでしょうがね。そこで死んでいる男を動かしてアイリーデに来るようし向けたのは蛇代ですよ。外洋国の企みや国同士の思惑を利用して、その実、蛇は貴女を狙っていたんです。大方、貴女がテセド・ザラスを調べて飛び回っていた当時のことを逆手に取ったんでしょうが」
自業自得だと、言外に示すヴァスの口振りは、かつての彼を連想させるものだ。
だが、彼が彼のままでいたなら、今の事態は防げていたかもしれない。ウェリローシアの実務を担う青年は、情報を集める能力に長け、またサァリの危なっかしい様子に口煩くもあった。
かつてはそうして周りの人間たちが、少女であったサァリを陰日向になって支えていたのだ。
―――― 今は失われた彼らの思いを汲めばこそ、ここで彼女を傷つけさせる訳にはいかない。
シシュは凍り付くような冷たさにも構わず、サァリの傷を押さえる手に力を込める。
ヴァスは直剣の先で、黒い人影を指した。
「それの思惑通り、貴女は散々街のあちこちで血袋をぶちまけてきたようですから。夥しい量の人の血と貴女の血が染みこんで、今頃さぞ地下は面白いことになっているでしょう。私にとってはまぁ、どうでもいいことですが」
「…………」
サァリは答えない。
その青い瞳にちらついているものは、傷ついているような苛立ちだ。シシュは敵である二者を前に息を詰める。
―――― これまでのことが、人を利用してサァリを追いつめるための布石なのだとしたら、既に完全に後手に回ってしまっている。
シシュは勿論、サァリもまた地上のことだけに気を取られていたに違いないのだ。化生が近頃ほとんど出現しない原因も、彼は他の二柱がアイリーデに潜んでいるからではないかとしか疑っていなかった。
だがもしそれが、密やかに蛇が力を蓄える為の空白だったのだとしたら。
シシュはサァリをほんの僅か、力を込めて抱き寄せる。
この状況でヴァスと蛇代の両方を下すことは難しい。出来てサァリを逃がすことくらいだろう。
けれどそれは、彼がしなければならないことだ。サァリに隙を生んでしまったのは人間たちの事情が原因で、それも本来この街には関係ないことが発端だった。
なればこそ、ここで彼女にそのつけを回すことは出来ない。主君から下された命もまた「彼女を守れ」というものであったのだから。
足音は立てない。
だが、静かに重心を移動させたことを、寄り添うサァリは気づいたのだろう。彼女はシシュにしか聞こえぬ小声で制した。
「駄目。置いていかないし、傷つけさせないからね」
「だが……」
「駄目」
疲労の滲む声で、しかしはっきりとサァリは断言する。
彼女は顔にかかる銀髪を気だるげに掻き上げると、黒い人影を睨んだ。
「面白い。策を弄して私を食らおうと言うか」
『今までの礼だ、白月よ。最後の一滴まで生き血を啜ってくれよう』
「ならば好きにしろ」
軽い音を立てて、銀の鷹が爆ぜる。
羽が天井にまで舞い上がり、汚れた木の壁と畳には血肉が飛び散った。
けれどそれらは瞬く間に黒い影の中へと吸い込まれていく。ヴァスが軽く左目を細め、シシュは素早く懐から投擲用の針を抜いた。
放たれたその針が蛇代の眉間に突き刺さると同時に、サァリはシシュの腕だけを掴んで絶叫する。
「―――― っぁああぁっ!」
言葉にならぬ声。
荒ぶる力の奔流。
全方位に放たれた白光は、一瞬で小さな空家を飲み込んだ。
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