第109話 人世
昼のアイリーデは、夜と比べて問題も半減する。
それは開いている店や客層からして、夜とは微妙に異なることが原因だろう。
かといって揉め事がまったく存在しなくなる訳ではない。いつものように軽く見回りをしていたシシュは、しかしながら賑わう通りの中に見知った姿を見つけて、ぎょっと足を止めた。黒い洋装に身を包んだ青年は、シシュと目があうと軽く笑顔になる。そうして何と言うことのないように、彼を手招いた。
十分に人がいる大通りで、シシュは緊張を覚えつつ相手の方へと近づいていく。周囲の喧噪が、まるで一枚幕を隔てた先のものように思えた。
彼が目の前に立つと、青年は食えない微笑になる。
「お久しぶりです。今、少し付き合ってもらえますか」
「……何のつもりだ」
用心を隠さずシシュが問うと、サァリの従兄であった青年は皮肉げに片目だけを細めて見せた。
「立ち話もなんなので、歩きましょう」というヴァスの提案によって、二人は大通りを歩き出す。
確かに自警団の人間が険しい顔で話し込んでいれば、周囲の店に迷惑をかけてしまうかもしれない。苦い顔を崩さぬシシュの隣で、ヴァスは目を細めて行き過ぎる人の波を追っていた。その眼差しは何処か懐かしげなもので、不思議と元の人間だった彼を思い出させる。
一連の事件の最中に行方不明扱いとなったウェリローシアの青年は、歩き出してしばらく、唐突に口を開いた。
「外洋国には人外の血を引く種族がいくつかあると、ご存じですか?」
「人外の血?」
突然何を言い出すのか。相手の意図を掴みかねてシシュは眉を寄せる。
対するヴァスは軽く頷いて続けた。
「何であるかは分かりません。私たちのような上位存在であるのか、それともまったくの異種か。どちらにせよ、あちらの大陸にはそういう者たちがいて、己の正体を隠して生きているのだそうです」
「それが、サァリーディと関係があると?」
「どうでしょうね。ただ彼らが人の振りをして生きているのは、人外の血を持っていると知られると、その血を吸い取られてしまうからなのだとか」
「は? 血を……?」
不穏が、胸の中に宿る。
表情を変えたシシュに、ヴァスはわざとらしく肩を竦めて見せた。
「ええ。その血は薬にも毒にもなるらしく、あちらの或る国には人外から血を抜き取る為の専用の道具が伝わっているらしいのですよ。人の血肉を溶かした炉で精製された呪具で、人外の異能を封じ、その血を吸い上げるとか。恐ろしい話ですね」
「何が言いたい」
シシュは素早く聞き返しながら、だが己の中に確信が育っていくのを感じる。
何故テセド・ザラスが、手に入れたサァリの血を利用することを思いついたのか。
それは似た前例を知っていたが為のことではないか。今、大陸をかき回している一派の首謀者は、主君からの情報によれば別大陸から来た人間であるという。彼らはサァリの存在を知って、故郷の大陸にいるのと同じ「獲物」と判断したのではないか。
―――― 今すぐサァリの無事を確かめに行きたい。
そう思いながらシシュはだが、隣を行く青年の存在もまた「見逃すことの出来ない脅威」と看做していた。
ヴァスはサァリについて「また迎えに来る」と言ったのだ。それがいつのことになるのか、可能なら居場所が分かっている今、芽を摘んでおきたい。
腰の軍刀を意識するシシュに、青年は何も気づいていないかのように続ける。
「まぁ、私たちであれば、そんな相手にみすみす捕まりはなしない……と言いたいところですが、彼女はあの通り、不器用ですからね。いいようにつけ込まれてしまうかもしれませんね」
「……だとしても、サァリーディは、敵に容赦することはしない」
「そうですね。彼女の気性はあれでなかなか苛烈ですから。ただ元々、月白の主には純粋な人間にあまり大きな力を行使出来ないという制約があるんですよ。以前も言ったでしょう? 少しの刺激で割れてしまう血袋と、ただの人間は違うのです。だからこそ、不利な状況から人間に反撃するためには、彼女は今の己を捨てなければならなくなる。前に一度そうなったようにです。―――― けれど、今の彼女がそうなることを選ぶでしょうか」
理解を試すような問いかけに、シシュは虚を突かれて無言になる。
もし、完全な神に変質しなければならない状況に、彼女が置かれたとしたら。
サァリはそれを選ぶのだろうか。『彼』の犠牲で踏みとどまった立場を捨て去るだろうか。
想像出来うる答は、「余程の窮地でなければあり得ない」だ。
彼女に近しい誰か、もしくはこの街そのものがかかっている状況でもなければ、彼女はそんな選択をしない。
自分が傷つくだけなら平然と飲み込んでしまうだろう。サァリは、よくも悪くもそういう強さと己への酷薄さを持っている。
青ざめるシシュに気づきもしていないかのように、ヴァスは軽い口調で続けた。
「とは言え、そんな選択に追い込まれる程、彼女が迂闊であるとは思いたくありませんが。追い込まれたとしても、普通は考える余地もない選択だと思いませんか? 自分を食い物にされて黙っているなど、愚かの極みでしかないです。それで誰が得するわけでもないでしょうに」
「サァリーディは……」
条件反射で言い返しかけたシシュは、だがそこで、少し先の路地からよろめき出てきた女に気づいた。
彼と旧知の間柄である彼女、ミフィルは、男物らしい紙入れを手に握っているが、それを今にも取り落としそうな程がくがくと足を震わせて周囲を見回している。
助けを求めるような視線がシシュのものとぶつかった時、彼女は半ば以上引き攣れた声を上げた。
「た、たすけて……! 主様が、さ、刺されて……」
もつれるような訴えは周囲の怪訝そうな注目を集めたが、シシュは一瞬でその意味を理解した。彼女に駆け寄ると、その肩を支える。
「場所は?」
「こ、この先の水路の、でも、連れていかれて……」
「分かった」
それ以上を待たずにシシュは走り出した。ミフィルの出てきた角を曲がり、先に見える水路の前へと飛び出す。
左右に伸びる水路付近に人の姿は見えないが、青年はすぐに月白に向かう方角を選んで駆け出す。まもなく土の上に揉みあったかのような足跡を見つけた。
複数の足跡は、数を減らして先へと続いている。シシュはその後を追って更に走った。刺されたと聞いたにもかかわらず一滴も落ちていない血が、かえって事態の陰湿さを感じさせる。
薄い足跡はそう遠くない、路地に面した古い空き家の中へと続いていた。
彼は何の誰何もせず、薄い木の戸を蹴破る。
上がり口に座っていた二人の男が、ぎょっとした顔で腰を浮かしかけた。その奥の座敷には気絶した下女が転がされている。
すぐさま状況を把握したシシュは、流れる動作で腰の軍刀を抜いた。二人の男の間を駆け抜けながら刃を一閃させる。崩れ落ちる彼らを見もせず、彼は下女の脇を抜け、奥の間へと踏み込んだ。
「サァリーディ!」
見えたものは、ほどけて敷布の上に広がっている銀髪と彼女の上から体を起こしかけた男の背だ。
予想はついていた、と言ったら嘘になるだろう。だが、シシュがベントの姿に驚かなかったことは事実だ。
何を問うこともせず、彼は男の首を狙って軍刀を横に薙ぐ。
触れれば骨まで断ったであろう刃を、だがベントは刹那の判断で横に転がってかわした。べっとりと血にまみれた己の口元を押さえて、男は振り返る。忌々しげな視線が、倒れているままのサァリへと向けられた。
「貴様……」
「おや、女に噛まれるのは初めてか?」
嘲弄を隠しもしない彼女は、蒼白な顔を横に向けて笑む。その口元にも血がついており、だがそれ以上に異様であるのは、彼女の左の脇腹から鈍い銀色の棒が生えていることだった。
うっすらと周囲の着物には血が滲んでいる。「刺された」というミフィルの言葉を思い出し、シシュはぞっと肝が冷えるのを実感した。それは血が煮える程の怒りと混ざり合って、狂気に近しい殺意へと変じていく。
彼は一片だけ残した理性を以て、アイリーデの主へと問うた。
「サァリーディ……これは、生かしておかなければならないものか?」
「ううん。好きにしていいよ。……あ、でも、生かしておいた方が王様喜ぶかな……」
「構わない」
―――― 彼女にとって不要であるなら僥倖だ。
理由としてはそれだけで十分で、だからシシュは躊躇いもなく一歩を踏み込んだ。普段よりも遅く振るった刃が、畳の上の刀に伸ばされかけたベントの腕へと食い込む。
骨に触る直前で引かれた軍刀に、男は苦痛と罵りの声を上げかけた。
だがその喉に、深々と化生斬りの刃が突き刺さる。
怒りを押し殺した声が宣告した。
「口をきくな」
これ以上一言でも何かを聞けば、自分が自分でいられなくなる気がする。
シシュは面のような無表情のまま手元で軽く軍刀を返した。ベントの体が弓なりに揺れ、広げられた傷口からぼたぼたと血が畳に落ちる。
これまで、相対した敵をあえて嬲ろうと思ったことはない。
ただ今だけはこの男に、相応の苦痛を与えたいと思った。
無言のままシシュは、男の喉元から愛刀を抜き去る。
血を払って上げた軍刀を、彼は瞬間目で追った。磨かれた刀身に痛ましい女の姿が映る。
白い着物をはだけさせられた彼女は、だが毅然を感じさせる美しさのままだった。震える手が、己の脇腹に刺さる棒を何とかして掴もうとしている。
殴られたらしく赤くなっている片頬を見て、シシュは吐ききった息を止めた。何がもっとも大事で、何が些末であるのか。失われかけた自らが問うてくる。
―――― 時間をかける意味もない。好きにしろというのなら、他に選ぶ余地もないのだ。
シシュは目を閉じて露ほどに残る冷静さを引き戻す。
振るわれた刃はそうして、彼女の目前で男の命を刈り取った。
※ ※ ※ ※
額に脂汗を浮かべているサァリは、酷い怪我ではあるのだろうが、刺さっている棒の角度からして命に関わるほどではなさそうだ。
彼女の傍に膝をついたシシュは、傷口を検分してそう判断する。棒を抜こうとする彼女の手を押さえて留めた。
「ここで抜くと出血が酷くなる。清潔な場所で止血の道具を用意してからの方がいい。我慢出来るか?」
「出来るけど、これあるとうまく力出ない……」
「それは……」
外洋国に伝わるという、人外の異能を封じ、その血を吸い上げる道具―――― ヴァスから聞いた話を思い出し、シシュは眉を顰める。一度は沈みかけた激情が、悔悟の念と混ざり合って喉の奥を這い上がった。薄い背を抱き起こしかけた手が強張る。
「……どうして捨てなかった?」
「え? なにを?」
「巫としての自分をだ。そうすれば、ここまでされることはなかっただろう。周囲がどうなろうとも巫は無事で済む」
神である彼女が、人の不遜を甘んじて受けることなどないのだ。
踏み躙られて黙っている必要などない。この街自体、初めから彼女を歓ばせる為にあるのだから。
青年の真剣な眼差しに軽く瞠目したサァリは、だがすぐに目を閉じて微笑する。温度のない息が白い胸元に落ちた。
「そんなの、捨てられないよ」
「捨てていい。巫を傷つける人の世など捨てられて当然だ。我慢する必要などない」
結果、彼女に去られたとしても、それは当然の報いでしかないだろう。
彼女に苦痛を耐えさせるよりずっといい。そうして欲しいと思う。
己の隙を噛み締めるシシュに、けれどサァリは澄んだ声で笑った。
「でも私、あなたを捨てたくない」
飾りのない情。
白い指が頬に触れる。
その手が初めて胸を突いた時と同じ、それ以上の震えにシシュは息を飲んだ。
―――― ここに至るまで、自分は彼女の想いを分かっていなかったのかもしれない。
前を向く懸命なその目が、己にも強く注がれているのだと理解していなかった。ただ自分だけが気負っていた。
そのままで神供になるつもりだったのだ。彼女を守りたいと思いながら。
軽い自失の後、シシュは振り返って己を恥じると、そっと抱き寄せた彼女に囁く。
「……すまない」
「なんで謝るの」
「いや……」
かぶりを振ろうとして、しかし彼は背後に新たな気配を感じた。片手でサァリを支えたまま、片手で軍刀を取る。
入って来た足音はしない。だが、そこに誰がいるのかは分かっていた。
灰色の髪の青年は、座敷の入口に立ったまま蔑みの目をサァリに注いでいる。虫の行列を眺めるような無関心さを以て、冷めた感想が投げられた。
「やはり貴女はそうですか」
「ヴァス……」
「まぁ、捨てる気がないのなら仕方ありませんね。貴女は元々人の言うことを聞き入れないたちですし」
ヴァスは腰に下げた直剣を抜く。
光の波が走る切っ先がサァリの顔へと向けられた。色褪せた畳がうっすらと赤く照らされる。
「ならば貴女は―――― 人と共に死になさい」
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