第108話 未然
客取りの話は、まだほとんどの人間が知らないことだ。彼らもその例外ではないだろう。
サァリは反射的に踵を返したくなったが、ミフィルは朗らかな笑顔で一礼してきた。
裏のないその様子に、サァリはほっとすると主としての微笑で返す。ミフィルはまだ他に客がいるのだろう。もう一度男に頭を下げると、そのまま茶屋の中へと戻っていった。
―――― それだけで終わればよかっただろうに、彼女たちに気づいたベントが嬉しそうな表情で近づいてくる。
二人の進路を阻むように立ち塞がった男は、身を屈めて笑った。
「サァリ、久しぶりだな」
「と、言われるほど日にちが開いていたとは思いませんが」
「近頃は行ってもいないことばかりだ。顔が見られなくてつまらなかった」
「色々あるのですわ。このように必要なものを買いだしたりなど」
抱えている袋をサァリは軽く上げて見せる。
彼女はそれ以上の間を与えず「では、失礼致します」と頭を下げたが、相手はそこで終わる気はないらしい。角を曲がろうとするサァリに当然のようについてきた。
若干どころではない煩わしさを覚えながら、サァリはだが、いい機会かもしれないと思い直す。
月白の二人と客ではない男の三人は、並んでアイリーデの水路脇を歩き始めた。サァリは周囲の気配を窺いつつ口を開く。
「この後は何処かお行きになるのですか?」
「月白に行こうと思っている。折角サァリに会えたのだからな」
「まだ火入れをしておりませんわ。女たちも起きておりませんし」
「サァリがいる」
「わたくしは、己の客取りの準備がありますから」
―――― さてどうでるだろうか、とサァリは男の横顔を見ぬようにして窺う。
辺りはまだ明るい。下女もいる。人目を気にする人間であるなら、致命的なことにはしないだろう。
サァリはさりげなく、下女と男の間に自分の体が位置するよう歩みを調整した。だがそうして次の反応を待っていた彼女は、予想よりも大分穏やかな男の声を聞く。
「客取り? サァリが客を取るのか?」
「ええ。つい先日決めたことですが」
「その相手に断られたらどうするんだ」
「……断られておりません」
あまりにも堂々と言われて、サァリはむっと口元を曲げる。
相手があのシシュとあって一瞬不安になってしまったが、多分断られてはいない。いないはずだ。
自分の中で念押しするサァリに、ベントは心底不思議そうに言う。
「今、断られていなくても。すぐに捨てられることになったらどうする? サァリが嫌になることだってあるだろう。そうなったら別の男を選ぶのか?」
「選びません。わたくしの客は一人ですから」
「どんな男であっても?」
「私が選んだ男です。途中で変えることはありませんし、変えることも出来ません」
神供とは、神にもっとも等しい伴侶に相当するものだ。
それは彼女たちの存在を人の世に繋ぎとめる契約の一環であり、簡単に反故に出来るものではない。
ましてや部外者が口を挟む余地などないのだ。いささか不快を表情に滲ませたサァリに、下女ははらはらした視線を向けてきた。
ベントは前を見たまま頷く。
「そうか。―――― ならよかった」
鈍い衝撃に、サァリの体は傾いだ。
倒れそうになるのを反射で踏みとどまった彼女は、自身の脇腹に刺さったものを見下ろす。
それは、鈍い銀色に光る太い棒だ。
脇差よりも短いそれを握る男は、サァリに向けて屈託のない笑顔を見せる。
「それならば話は早いな、サァリ」
「……っあ……、か……」
激痛が全身を走る。
彼女の腹に刺さる棒は、初めて見る種のもので、表面には何かの紋様がびっちりと彫り込まれていた。
先端がどうなっているのかは分からないが、それは内臓を貫く一歩手前で止まっている。
だからこそ彼女も意識を失わないでいられるのかもしれない。サァリは震える両足に力を込めると、意志の力だけで右手を上げた。冷気を迸らせて男を打とうとするその手を、だがベントは難なく掴み取る。うっすらと光り始める女の両眼を、男は珍しい虫でも見るように観察した。
「やはり何だか分からないな。人ではないらしいが、妖物の類か」
「ぬ、主様……!」
悲鳴を上げようとする下女を、ベントは棒から手を放して殴りつける。
少女は悲鳴を上げて崩れ落ち、棒の重みがかかったサァリは思わず痛みに呻いた。
苦痛が思考を塗りつぶす
眩暈と吐き気が込み上げてくる。
集中しようとする端から、意識も力も流れ落ちていってしまうような苦悶の中で、だがサァリは顔を上げ男を睨みつけた。喉の奥から怒りの声を絞り出す。
「貴様……よくも」
「どうした、サァリ。オレを疑っていなかった訳じゃないだろう。テセドを殺して色々聞き出したのだろうしな」
テセド・ザラスは、何も言わなかった。
主人である男のもとにも戻らずに死んだ。
そのことをサァリは知っている。ベントのことを疑ったのは、先程下女から鈴の話を聞いた時のことだ。
―――― 血を飲まずに隠し持っていただけなら、鈴は反応してもサァリ自身は気付かない。
そして、火入れ直後にやって来ていたのはいつも彼だ。三和土の全ての鈴が転げ落ちたあの日も確かにそうだった。
荒い息を吐く彼女を、ベントは笑って覗き込む。
「それとも、急にこんな手段に出るとは思わなかったのか、サァリ? 自分の力に自信があったか。お前たち人外はいつもそうだ」
嘲笑が、昼のアイリーデに軽く響く。
男の手に半ば吊り下げられているサァリは、脇腹に刺さった棒を薄らいでいく視界に留める。
棒の食い込んだ場所からはうっすらと血が滲んできていたが、その量は刺さっている深さの割には僅かなものだ。
ずるずると体内の血を吸い上げられる感覚に、サァリの意識は更に遠くなる。
耐え切れず小さな頭を落とす彼女を、ベントは顎を掴んで上向かせた。
「お前にもこれは効くみたいで何よりだ。力を封じて血を吸い上げる―――― お前のようなモノを狩る為の道具だ。こちらの大陸には存在しないものだから、用心もしていなかったんだろう? 愚かなところが可愛らしいな、サァリ」
「ほざけ……」
サァリは小さく吐き捨てたが、男が言うように腹に食い込んでいる棒の影響は重い。今は余計なことに体力を使うことは出来なそうだ。
彼女はとめどなく流れ出していきそうな力を体の中に溜め始める。
そうして意識を集中させるサァリの耳に、突如大きな羽ばたきが聞こえた。
目を開かなくても分かるそれは、銀色の羽を持つ大きな鷹だ。
いつか通りで彼女に襲い掛かり、腕に傷をつけ髪を引き抜いていった鷹は、ベントの肩にとまると翼を畳む。じっとサァリを観察する感情のない視線は、自分に与えられた血の大元を冷やかに観察しているようであった。
同時に黒い穢れた気が、地中から湧き出し彼女の足下に絡みつく。
染み出す血に吸い付こうとする淀んだの気。よく知るその気配から、サァリはようやく事態の本質を把握した。
―――― これは、思っていたよりも不味いかもしれない。
せめて突き刺された棒を抜かねばと、彼女は震える手を動かす。
耳元で男の声が囁いた。
「安心しろ、サァリ。これから長く飼ってやる。男を変えることが出来ないお前は、オレに繋がれて生きるしかなくなるんだからな」
そう言った男は、彼女の手を無造作に払う。刺さっていた棒が、より深く腹の中に捻じ込まれた。
くぐもった悲鳴を上げるサァリを、ベントは両手で抱え上げる。路地の影に目配せすると、そこから出てきた二人の男が気絶している下女を抱き上げた。
殴られたせいだろう、少女の額は割れて血が垂れている。サァリは翳の差す視界にその姿を見て、怒りではなく無に似た冷たさが満ちてくるのを自覚した。少しずつ体温が下がっていき、人の世界が遠くなるのが分かる。自身の変質を、彼女は芯で感じ取った。
―――― このままいけば、全てを凍り付かせて壊すことさえ出来るだろう。
そうしたい。そうしてしまえばいい。人が、自ら選んで彼女を傷つけたのだから。当然の報いだ。
サァリは氷の息を吐く。
氷片の混じるそれは、彼女の腹を這い、血を啜ろうとしていた黒い気を払った。
体内で凝っていく力が、人を消し去る為の純粋な光へと変じかける。目に映るもの全てを薙いで、地の深くまでを焼き切って終わらせる。
だがそこで、僅かな迷いがサァリの脳裏をよぎった。
今度完全に変わってしまったら、自分はもう人の世に留まることを選ばなくなるかもしれない。
そうなればきっと、彼の手を取ることはなくなる。
自分を引き留めてくれた命をも踏み躙ってしまうだろう。
幼い頃から今まで、自分に手を差しのべてくれた何人もの顔を、サァリは思い出す。
―――― まだ大丈夫だ。
まだ終えてしまうには早い。怒りに狂うのも、自分の甘さが元であるなら愚かしいだけだ。
本当に恐れているのは彼の死で、だが今はそうではない。
ならば自分が傷つく状況など大したことではないのだ。まだどうにでもなる。運命を変えられる。
彼女は短い間にそう決断すると、意識の変質を留めた。代わりに目を閉じて、血の流出を防ごうとする。
体温の低下に気付いているのかいないのか、彼女を抱き上げ歩き出していたベントが笑った。
「逃げようなどと考えるなよ。歯向かえば下働きの小娘を殺す」
サァリは答えない。
男は路地に面した空き家の一つへと入っていく。
古い畳の臭いは彼女にとっては慣れ親しんだもので、だが今はそれより錆びた鉄の臭いが気に障った。
意識を手放したかのように、ぐんにゃりと力を失ったサァリの体を、ベントは奥の間の床へと下ろす。脇腹に刺さったままの棒には触れず、男は白い着物の衿に手をかけた。
「すぐに、オレに逆らうことも出来なくなる。一人しか選べない相手だ。存分に尽くせ」
傲慢な宣言に、サァリは力なく笑った。薄く目を開けて男を見据える。
「……だとしても身籠ったら用済みだ。殺してやるから楽しみにしていろ」
「そうしたら、誰かがお前の腹を裂くだろうな」
無遠慮な手が、彼女の喉元に伸ばされる。
直に触れてくる肌は、彼女が傷を負っている以上、男の生気を吸い上げることになるだろう。だがその効果がいつ出るかは分からない。それよりも彼女が気を失う方が早いかもしれない。
サァリはのしかかってくる重みに激痛を刺激され、悲鳴を飲み込む。自分の血を、力をしゃぶりつくそうとついてきた黒い気を、視界の片隅で確かめた。
―――― あと二日で客取りだったのに、こんなことになってしまったのは、ただ単に自分が馬鹿だったせいだ。
それでもまだ、最悪な状況ではないだろう。
サァリは自嘲を込めて口の中で呟く。
「シシュを怒らせると、怖いんだからね」
ささやかな意趣返しの言葉が聞こえたかのように、玄関を蹴破る音が聞こえたのはその直後のことだった。
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