第107話 誰彼


 ―――― 巫の客とはつまり、夫と同義だ。

 そう昔、別の化生斬りから聞いたことがある。この街に来てまもない頃の話だ。

 当時はまだサァリはほんの少女で、シシュ自身はあくまで、王の臣下としてアイリーデの視察に来ているという意識が強かった。

 だからあの時は、想像もしなかった。

 自分が彼女の選ぶ、生涯ただ一人の客になるのだということは。




 シシュは自分に抱き付いている女を見下ろす。

 小柄な彼女がそうしていると、子供がしがみついているようにしか見えない。だが、彼女は彼女なりに思うことが多いのだろう。シシュは黙ってその背を支えた。小さな吐息が胸にかかる。

 壊れ物を思わせる柔らかな躰。

 彼は、その体を力をかけぬように気を付けて抱いた。伝わってくる温かさに、驚きが少しずつ別の感情に変じていく。

 そうしてひとりでに力がこもる手に、シシュは度し難さを覚えたが、喉を焦がす感情は止めようもなくじんわりと全身に広がりつつあった。

 すぐ下に見える折れそうな首の白さに、青年は目を細める。微かに漂ってくる甘い香りに、陶然とした気分を誘われた。この頼りない身体を守らなければと思い、同時に滑らかなその肌に触れてみたいという欲求が灯る。


 求婚をした返事が「客になって欲しい」というものであったことに、不満はない。

 彼女の立場では、最初から普通の婚姻は難しかっただろう。むしろそれについては、自分が言いたいから言っただけで、アイリーデのやり方にあわせるつもりはある。

 そうしたいと思ったのだ。気丈に己の役目を果たそうとする彼女の傍にいて、支えになりたいと。

 ―――― ただ、神供として選ばれたなら、そこから先どうすればいいのか。

 このまま彼女を借りた部屋に連れ帰ってもいいのだろうか。口に出して問うことが憚られる疑問に、シシュは無言で悩んだ。

 悩みながら、けれどほっそりとした体を抱き上げようとしたところで、サァリが顔を上げる。

「あの、色々準備があるから、何日か待ってもらえる?」

「準備?」

「専用の膳準備するのとか、神楽舞の衣裳出したりとか。あと他の神供二家に連絡したりとか」

「ああ……分かった」

 名目上は客取りであっても、実質は彼女に神供を捧げる為の儀式であるのだろう。

 確かに以前彼女は「正式な段階がある」と言っていた。それらを一つ一つ踏まえていくのだろう客取りは、彼女にとっては婚礼の儀に相当するものなのかもしれない。

 シシュは、彼女の兄である友人がこの話を聞いたら何と言うか、若干の頭の痛さを予感した。

 表情の変化を気付かれたのか、サァリが首を傾げる。

「シシュ? 何か不味い?」

「いや。大したことじゃない」

「ならいいけど……あ、風邪引いちゃわないでね。体力落ちてると死ぬかもしれないし」

「待て。そんな話も初耳だ」

「本当にお風呂入りなおした方がいいよ。それとも一緒に入る?」

「心臓を痛めそうだから嫌だ……」

 真面目にそう返すと、サァリは冗談と取ったのかころころと笑った。だがすぐに青い目に憂いが宿る。

 淡い月光の中で、彼女は淋しげに笑った。

「ね、シシュ」

「何だ?」

「もし嫌じゃなかったら、死ぬまで私と一緒にいて」

 それは微かで切実な願いだ。白い指が、彼の手をきつく握る。

 暗い庭には澄んだ夜気が広がり、それは初めからそうであったように、見えない波となってシシュの足下を浸した。

 神に触れている―――― そのことが、初めて彼女の真実を知った時のことを思い出させる。

 シシュは応えられなかったあの時のことを振り返り、頷いた。

「分かった。約束する」

 それを聞いてサァリは、嬉しそうに顔を綻ばせて笑った。




 ※ ※ ※ ※




 テセド・ザラスの死体が街の外れで見つかったのは、その翌日の朝だった




 ※ ※ ※ ※




「ようやくか」

 神供二家をはじめ、アイリーデの主要な面々に客取りの話を伝えた時、返ってきた反応はおおむねそのようなものだった。

 当日必要になる供物としての酒を、打ち明けがてら兄に頼んだサァリは、雑な感想に頬を膨らませる。

「何それ」

「そのまんまだよ。ま、お前たちらしいっちゃらしいけどな」

「別に鈍くてもいいでしょ。まだ私十七だし」

「もうすぐ十八だろ。あと遅いとは思ってないさ。時間がかかったってだけだ」

 兄の言葉は、矛盾しているようにも思えたが、言わんとするところはなんとなく分かった。

 火入れをする前の花の間で、トーマとテーブルを挟んで座すサァリは、自らが記した書き付けを兄の前に滑らす。

「ね、支度ってこれで足りてる? 大丈夫かな」

「俺に聞かれてもな。記録が残ってるだろ」

「残ってるけど、お祖母ちゃんはいないし……。巫と神供しか知らないことって結構あるでしょ。神楽舞とか。色々不安だな」

 祖母が存命だった頃、神楽舞は散々叩き込まれたのだが、今となっては不味いところがあっても注意してくれる人はいない。

 そんな風にあちこちに不安要素を抱えるサァリは、他に相談出来る相手もいないとあって、兄へと縋る目を向けた。

 トーマは肩を竦めて書き付けを手に取る。

「……これだけ準備しとけば大丈夫だろ」

「本当?」

「何か足りないものがあっても、あいつなら無駄に体力あるから大丈夫だろ。それより……」

「なに?」

 意味ありげに切られた言葉の続きを、サァリは小首を傾げて待った。

 しかしトーマは軽く考え込むような表情を見せただけで、それ以上は何も言わない。

 そのまま男は席を立つと、サァリの隣にまで来て小さな頭を撫でた。くすぐったげに目を閉じる妹へ微笑する。

「ま、たっぷり我儘言っとけ。一生に一度のことだからな」

「うん」

「あいつの存在は、きっとお前にとって救いになる」

 サァリは兄の言葉に不思議な重みを感じ、顔を上げる。

 彼女よりも十年以上長く生きている男の目はその時、少しの寂寥を湛え、だが優しげに微笑していた。




 ※ ※ ※ ※




 月白の主である彼女の客取りの儀は、神膳と神楽舞、そして床入りの三段階を経ることになっている。

 客となる相手の男は前日から水以外を断ち、当日神膳を取ることで身体を浄化させる。その後神楽舞によって神たる存在に相対し、床入りとなるのだ。

 これらの儀は巫の力の強さによって、月が満ちている時に行われるか、逆に欠けている時を選ぶかが決まるのだが、サァリはその力の強さから、まず新月に行うことになるだろうと祖母からは言われていた。

 だが、結局のところそれも相手次第だ。腕の立つ化生斬りとあって、あちこちから体の頑健さを保証されたシシュは結局「いつでも大丈夫だろ」というトーマの言葉で、話が持ち上がってから五日後の晩に月白へ招かれることになった。


 種々の支度を手配しつつ「絶対外で一人になるな」と厳命されているサァリは、何処となく浮足立った気分を抱えて日中の通りを行く。

 主の客取りがあるからといって、館自体が休みになるわけではない。客に出す為の茶菓子を下女と買い出しに来た彼女は、ぼんやりと昼の空を見上げた。菓子の入った袋を抱き締めて呟く。

「何だか現実味ないなあ……」

「客取りのことですか?」

「ええ」

 いずれはこんな日が来るだろうとは思っていたが、まったくもって実感が湧かない。

 相手が彼であるということも、曖昧な浮遊感に拍車をかけている気がした。よく知っているはずの道が綿で出来てるような気がして、サァリは慌ててかぶりを振る。

「何もないところで転んでしまいそう」

「きっと待ち遠しいからでしょう」

「そうなのかしら」

 刀を取る無骨な指。彼女が触れるといつも気まずげに、だがそっと握り返してくれる彼の手のことをサァリは思い出した。あの手に触れてほしいと、少女の憧れに似た感情が囁く。

 サァリは微笑してしまいそうな口元に、片手で顔を覆った。

「そうなのかも」

「あとたった二日です」

「実感が湧かないです……」

「―――― あ、そういえば主様」

 下女は何かを思い出したように、ぽんと手を叩く。

「玄関に鈴が一つ落ちていました。拾って戸棚に置いておきましたけど」

「あれ。拾いそびれですね。ありがとう」

 以前、玄関に散らばってしまった時に全て集めたと思ったのだが、どうやら残っていたものがあったらしい。

 直前の会話のせいかぼんやりと返したサァリは、だが次の言葉を聞いて意識を引き戻した。お茶の包みを持った下女が首を傾げる。

「あの鈴、勝手に鳴りだしたので見つけられたのですが、何か術のかかったものなのですか?」

「……え?」

 ―――― 鈴にかけられた術は、サァリ以外で彼女の血を持つ者が近づけば鳴るというものだ。

 それが鳴ったということは、やはり刺客が月白に近づいたのだろうか。

 サァリは厳しい表情になると、下女に聞き返す。

「それっていつのことです?」

「昨日の夕方です。主様がミディリドスに出向かれていて、火入れの時にいらっしゃらなかったでしょう? あのあたりです」

「火入れの時?」

 確かに昨日は客取りの打合せの為に外出していたが、そう長い時間店を空けていたわけではない。

 サァリが戻って来た時、特に店に異常は見られなかったし鈴も鳴っていなかった。

 彼女は全ての鈴が三和土に広がってしまった時のことも振り返り、眉を寄せる。

「その時、何か怪しい人影とか見ました?」

「特にそういうものは……」

 あの日その時間、花の間に客が入ったという記録はない。一時期は火入れ直後に毎日のようにやってきていた商人の青年も、目当ての娼妓に振り向いてもらえないと分かったのか、いつの間にか姿を見せなくなっていた。


 サァリは首を捻って―――― ふと一つの心当たりに行き当たった。確定出来る要素は何もないが、ささやかな疑念が生まれる。

「もしかして……」

「あ、主様」

 注意を促す声に、彼女は顔を上げる。

 見ると通りに面した茶屋から、一人の男が出てくるところだった。続いて客を見送る為に着物姿の女が出てくる。

 どちらも見知った顔で、だが二人一緒にいるというのは意外だ。サァリは門前払いの常連であるベントと、月白にいたこともある女、ミフィルの二人を十数歩離れた場所から眺めた。思わず口の中で本音を洩らす。

「これは会うのが気まずい取り合わせ……」

 出来ればもう少し顔をあわせずにいたかった。

 そんなことを考えながら、さりげなく気配を殺そうとしたサァリは、だが次の瞬間振り返ったミフィルと目があって、己の不運を実感した。

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