第106話 結論


 テセド・ザラスがサァリの正体を知っているのかどうかは分からないが、少なくとも「冷たい血」の持ち主であるとは確定されているようだ。

 シシュの背中に半ば張り付きながら、彼女は初老の男を睨む。

「神の領域だから何だというのです、回りくどい。言いたいことがあるのなら、さっさと言いなさい」

 シシュの軍刀はテセド・ザラスに向けられている。

 左右にいる刺客のうち、左の刺客は斬られた両目を押さえて片膝をついており、喉を突かれた右の刺客はふらふらとよろめいていた。

 どちらも普通の人間であれば戦えないくらいの致命傷だが、まだ油断は出来ない。サァリはいつでもその動きに対応出来るよう意識を集中させた。


 一転して不利な状況に足を踏み入れたテセド・ザラスは、だがまだ焦りを覚えているようには見えない。苦笑混じりにサァリへと返す。

「言いたいことですか。私の希望としては、お嬢さん、あなたにはこちらに来て頂きたい。叶うなら殿下もですが」

「断る」

 シシュの即答に、テセド・ザラスは軽く笑った。

「ならば仕方ない。お嬢さんだけ来てもらいましょう。なに、ご心配なく。こちらも手荒な真似をするつもりはございませんから」

 白々しい言葉に、サァリは自分を棚に上げて美しい眉を寄せる。

 彼女を背に庇う青年が、苛立たしげに吐き捨てた。

「戯言を吐くな。巫は連れて行かせない」

「引き下がっては頂けませんか」

「無理だ。殺されようとも退く気はない」

「ばっ……そういうこと言っちゃ駄目だってば!」


 先視を思い出させるようなシシュの発言にサァリは暴れたが、まったく彼に影響する様子はない。

 このまま後ろにいては、ただ出遅れてしまうだけだ―――― そう判断したサァリは、青年の背に囁く。


「もう全員破裂させるでいいよね。やるからね」

「待て、サァリーディ……」

「大丈夫。弁償はするし洗濯もするから。シシュは気にしないでお風呂入りなおして」

 また血塗れになってしまうかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。彼自身の無事と比べられるような問題ではない。

 割り切った彼女をだが、シシュの呆れ声が引き留める。

「いや、そういう問題なのか?」

「だって、この人たち放っておいても増えないでしょ。だったら一人一人破裂させていけば、いつかは全滅するはずだよ」

「人の口から改めて聞くと酷いな……」

 しみじみとした述懐に、サァリは「人じゃないもん」と反駁したくなったが、さすがにそんなことは口にできない。

 彼女はシシュの動きを妨げないよう半歩下がりつつ、テセド・ザラスを見据えた。

「大丈夫だって。あの人だけ残れば十分でしょ」

「それはそうかもしれないが」

「あとここで変に逃がしたら、またアイリーデの何処かで誰か殺されそうだし。どうせ血が流れるなら、ここで出しきった方がいいよ。ね、そうしよう」

 反論を挟む余地なく言いきって、サァリは右手を上げる。

 力の灯る指、息吹が集まっていく掌を見たテセド・ザラスは、ふっと苦笑した。

「やれ怖いお嬢さんだ。加えて殿下がついているとあっては、確かにこちらに勝ち目はなさそうですな。何しろ殿下は元々、飛び抜けて優れた剣の腕をお持ちだった方だ。更にお嬢さんの血の助力まで受けていては、まったく手のつけようがない」

「っ、この方にそんな必要は……」

「待て、サァリーディ」

 むきになって反論しかけた彼女に、シシュからの制止が飛ぶ。

 反射的に口をつぐんだサァリは、遅れて自分がかまをかけられたことに気付いた。思わず口を押えてテセド・ザラスを見る。


 ―――― 間に合ったかと一瞬期待しかけたが、期待するだけ無駄だろう。

 最初に聞き返さなかったことが既に不味い。「お嬢さんの血」と言われたことに、サァリは引っかかりを見せなかったのだから。



 テセド・ザラスは、少しだけ困ったような顔で二人を見た。

「予想通りではありますが、なんだか申し訳ない気分にもなりますね」

「……そう思うなら、残りの血を置いて命乞いをなさったらどうです?」

「そうしたくとも、あれはもう私の手元にはありませんので」

「え?」

「何処にやった?」

 シシュが一歩前に出る。

 その時には既に、両眼を斬られた刺客と喉を突かれた刺客が、やや安定しない態勢ながらも青年に向けて構えを作りつつあった。彼女の血を得た彼らは、普通の人間よりも自然治癒力が高いのかもしれない。サァリは残る三人の刺客をいつでも破裂させられるよう、一歩退いて視界内に入れた。


 テセド・ザラスは肩を竦める。

「あれは取り上げられてしまいました。残りは小瓶程度でしたけれどね。だから他の部隊がいるのですよ」

「黒尽くめでない者は、お前以外の者の指揮下にあるということか」

「お察しの通りです」

 何故か楽しそうな男にサァリは薄気味の悪さを覚えたが、それ以上に不快が勝った。彼女は桶に飛び散った血の飛沫を見下ろす。

 とろりと粘り気を帯びた深紅の血―――― この中に一体どれだけ自分の血が含まれているのか。

 サァリがそんなことを考えている間に、シシュが詰問の声を上げる。

「誰が今、残りの血を持っている? 他の部隊はどれだけいるんだ?」

「さて、教えて差し上げたい気持ちもあるのですが、残念ながら私は存じ上げないのです」

 肩を竦める男に、サァリは頷く。

「そう。なら殺すから」

「……人の口から聞くと酷い」

 げっそりしているシシュはともかくとして、初めから半分以上サァリはそのつもりだ。そうでないのなら王に突きだそうと思っていたが、情報が得られないのでは生かしておく意味もない。



 サァリはテセド・ザラスに向けて一歩を踏み出す。

 軽い足音に反応したのか、傷ついた刺客二人がほぼ同時に庭土を蹴った。彼女に向かって飛びかかろうとする一人に、シシュは無言で軍刀を一閃させると、その喉を先程よりも深く斬り払う。

 遅れて夜の闇の中、サァリが浮き立って白い指を弾いた。

 研ぎ澄まされた小さな仕草。それだけで、残る二人の刺客は声もなく弾き飛ばされる。一人は地面に叩きつけられて動かなくなり、もう一人は木の塀に背から衝突して崩れ落ちた。

 新たな血がまた庭へと染み出す。

 人間を踏み外した者たちの呆気ない結末に、サァリは内心、同量の不快と憐憫を抱いた。



 面に出しては彼女は、身も凍る眼差しでテセド・ザラスを射抜く。

「あとはあなただけです」

「そのようですな」

「随分余裕そうだが、一体何を企んでいる?」

 死を目前にして落ち着き払った男の様子に、シシュは懸念を覚えたのだろう。問われたテセド・ザラスは人の良さそうな笑顔を見せた。

「私自身は何も。ただの捨て駒でございます」

「捨て駒?」

「ええ。私は以前、大事な花畑を枯らしてしまった罪を償えておりませんで、結果として今回このような役割を仰せつかりました。―――― すなわち、私がここから生きて帰ろうともこのまま死のうとも、そこのお嬢さんが冷たい血の持ち主であることが確定されるようにと」

「……っ!」

 慄然とした感覚に、サァリは思わず身を震わせる。

 テセド・ザラスが彼女の前に現れたことは、彼女自身が思う以上に計算ずくでのことだったのだ。

 彼を逃がしてしまえば、テセド・ザラスは仲間たちにサァリのことを報告するのだろう。逆に彼が帰らなければ、待っている者たちはサァリを「当たり」と見なす。どちらに転んでも問題ないように、最初からなっていたのだ。


 神である女は、血の臭いが漂う夜の庭を見回す。だがそこで、動揺する彼女を支える冷淡な言葉が、シシュの口から吐き出された。

「それが何だというのか。いずれにせよ、お前たちを全て排除することには変わりない」

「そこのお嬢さんが危険に曝されても構わないと?」

「俺が守る」

 この命に懸けても、と。

 彼女の芯にまで、シシュの声は響いた。

 サァリはただ、雷に打たれたかのように立ち尽くして、青年の背を見やる。



 息が詰まる程の思いが、自分のものであるのか彼のものであるのか分からない。

 ただ初めから分かってはいたのだ。彼がこういう人間であると。

 だから惹かれた。譲らず立ち続ける頑なさと、何もを押しつけない誠実さが好ましかったからだ。

 それは、彼女にとって初めて見るもので、透き通る水晶に似てありのままに綺麗だった。


 そのままでいて欲しいと思っていたのだ。

 なのにどうして、己の身を惜しんで欲しいなどと無理な願いを抱いていたのだろう。

 ―――― 臆病だったのは、受け入れるべきなのは自分の方だ。




 軽く唇を噛んで、離す。

 サァリは後ろからシシュの袖を引いた。青年が怪訝そうに振り返ると、彼女はその頬に飛び散ってしまった血を、指を伸ばして拭い取る。そして同じ指先で、彼女はテセド・ザラスを指した。

「いいだろう。帰ってお前の仲間に伝えるがいい。私こそが、お前たちの探すものであると」

「サァリーディ!?」

「ただし、鈴付きでだ」

 りん、と小さな音が響く。

 背後の建物の軒先から、銀に光る鈴がふわりと浮かび上がった。それは宙を滑ると、テセド・ザラスの耳の下に素早く食い込む。苦痛の呻きを上げて鈴を取り出そうとする男に、サァリは付け足した。

「お前が何処へ逃げ帰るのか、その鈴が教えてくれるだろう。……ああ、急いだ方がいい。最後には頭を突き破ってしまうからな」


 ささやかに、だがはっきりと鈴は鳴っている。

 小刻みに震えるそれは、少しずつ男の肉の中へと潜り込もうとしているようで、彼女の隣にいるシシュでさえも唖然とした顔で言葉を失った。


 テセド・ザラスは恐慌に陥りそうな視線を辺りにさまよわせる。痛みもあるだろうに、悲鳴や泣き言を口にしないのは、高い矜持の故なのかもしれない。

 彼は定まらない眼差しを、最後にサァリの上で留めた。根源を覗き込むようにして問う。

「……あなたは、はたして人間ですか」

「いや? 残念ながら否だ」

 アイリーデを治める神は、貝殻に似た瞼を閉じる。

 サァリはそれきりテセド・ザラスの姿が消えるまで、一言も口をきかなかった。




 ※ ※ ※ ※




 決心に、長い時間を必要とした訳ではない。

 むしろ結論は、当然のもののようにあっさりと降って来ていた。ただ無言でいたのは、彼が警戒を解くのを待っていたからだ。

 サァリは頭上からの溜息が聞こえると、ようやく目を開けて顔を上げる。

 そもそも鈴の音を聞きつけて走って来たのだろうシシュは、血の臭いがついてしまった濡れ髪を手でかき上げた。

「死体を片づけねばな」

「私がやるよ。先にシシュはお風呂入りなおしてて。風邪引いちゃいそうだし」

「普通は逆だ。それに、外で一人にならない方がいい。奴らがいつ来るか分からない」

「多分まだ平気」

 テセド・ザラスが無事仲間のもとに行きつけたとしても、他の人間が来るまでにはもう少し時間がかかるだろう。それだけでなくサァリは、初老の男が仲間を守る為に、一人ひっそりと死ぬ可能性もあると考えていた。

 時に人間は、そのように己の命よりも意志を貴んで動くのだ。

 賞賛の念に値する潔さに、サァリはほろ苦い感情を思い出す。失ったものを振り返り―――― だがもう、不安に駆られて立ち止まるのはやめようと思った。


 彼女は相反する熱を飲み込むと手を伸ばす。

 迷いが陥穽を引き寄せるのなら、一息に踏み越えるだけだ。

 サァリは背伸びをすると、彼の浴衣の合わせ目を両手で握りしめる。

「―――― あなたにする」

「何がだ? どうかしたのか」

「私の神供を。あなたにします」



 人ならざるものの未来は見えないと、先視の巫は言った。

 ならば思うがままに運命を打ち払うまでだ。

 恐れる必要はない。それだけの力が彼女にはあるのだから。



 生まれた沈黙は、放っておけばいつまでも続いていきそうだ。

 一応場が落ち着くのを待ってから口にしたにもかかわらず、驚いて固まってしまったらしいシシュに、サァリは戸惑いを覚えて首を傾げる。

「あれ……もう駄目? 遅かった?」

「そんなことはない、が」

「本当? なら私の客になって」

 夜を共にして温度を交わして、そうして神供を受け取ったなら、もはや何物にも傷つけさせない。神であろうと退ける。

 それだけの誓約を込めて、サァリは腕を広げると青年の体をきつく抱き締めた。胸にもたれて目を閉じる。



 月が白い。

 鈴の音は聞こえない。

 遠慮がちに背に回された腕の温度は、狂いそうな程に優しかった。

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