第105話 血袋



 ずぶ濡れのシシュを、サァリははじめ月白にまで連れていこうかと考えたのだが、それをするには彼の全身からは水が滴りすぎている。このままではあちこちに薄い血の臭いを振りまいて、本人も風邪を引いてしまうだろう―― そう判断すると、サァリは小道に面して建つ一軒の貸し座敷に、事情を話して部屋を借りた。

 渋るシシュをまず浴室に押し込み、脱衣所に必要なものを用意しながら、サァリは浴室の内に声をかけた。

「服脱いだら洗うから、こっちに寄越して。着替えは浴衣置いとくから」

「……自分で洗うからいい」

「血抜きは水でやらないと。いいから頂戴。早くくれないと私が中入って脱がすよ」

「…………」

 風呂の木戸越しに、深い溜息が聞こえたのは気のせいだろうか。

 ややあって引き戸が小さく引かれて桶に入った制服が差し出されると、サァリは当然のようにそれを受け取った。「裏で洗ってくるね」とだけ言い残して部屋を出ていく。



 古い貸し座敷の裏には、通用路に面した小さな庭がある。袖を上げ前掛けを借りたサァリは、そこの井戸から水を汲みだして服の血抜きを始めた。すぐさま血臭が立ちこめる桶の水に、ばつの悪さを覚える。

「これじゃ、本当に部屋の方は再起不能になったかも……」

 畳を貫通して床板にまで血が染み込んでいたなら、直すのは容易ではあるまい。サァリは自分のかけた術の、予想以上の結果に反省した。

 だが実のところ、今の彼女ではあれ以外の対策は難しい。単なる捕縛も化生と違い、相手が人間ではすぐに振り切られてしまうだろう。サァリは桶の水を換えながら首を捻った。

「単に目印をつけるだけに専念してみた方がいいのかな……でも戦況が不味いと人死にが出ちゃうだろうしな……」

 出来れば相手の力を削いで、なおかつ周囲が汚れないようにしたい。

 自分が操れる練度の術でそのようなことが可能か、サァリは悩んだ。悩みながら丁寧に制服を押し洗いしていく。


 その時、小道を近づいてくる足音が聞こえて、彼女は顔を上げた。

「こんな時間に洗濯ですか、お嬢さん」

 低い木塀を覗き込むようにして挨拶してきたのは、初老の男だ。品のある穏やかな眼差しを、サァリは何処かで見た気がして目をまたたかせた。身に染み着いた習性で微笑を作る。

「少し急ぎの汚れ物が出まして。いつものことですわ」

「いつものことですか。だが変わった血の匂いだ」


 洗濯をする手が止まる。

 サァリは表面的な微笑のまま初老の男を見上げた。

 深緑を基調とした洋装に、皺と同化した笑顔。

 なんらおかしなところはないはずのその姿に、けれどサァリは既視感の正体を直感する。彼女は桶の水を捨てると立ち上がった。

「王都からいらっしゃったのですか?」

「ええ。神話時代からあるという享楽街を一度訪ねてみたく思いまして」

 客商売に携わる人間特有の、真意を見せない笑顔。

 人なつこいとさえ錯覚させる目で、テセド・ザラスは笑った。



 この男と直接顔を合わせたのは一度だけ、シシュに王都を案内されていた時に、訪れた茶屋の主人と客としてまみえただけだ。

 だが、相手方は彼と共にいたサァリの顔をよく覚えているのだろう。下女のような格好をした彼女を物珍しげに眺める。

「あの時は見習い娼妓ということでしたが、今もそのままなので?」

「時と場合によって、ではございますが。若輩らしく励んでおりますわ」

「これはまたご謙遜を。最古の妓館の主ともあろう方が」


 ―――― 表情は崩さない。

 わざわざこんなところにまで現れたのだ。既に調べられることは全て向こうの手の内だろうとサァリは踏んでいた。

 美しく作られた微笑を、彼女はテセド・ザラスへと向ける。

「主だからといって、水仕事をしないわけではありません。己の不始末なら尚更です」

「そのように仰るとは、殿下とは相変わらず親しくていらっしゃるようだ」

「…………」


 一体何処から見られていたのか。

 サァリの目から笑みが消えた。


 そのまま威圧さえ漂わせ始める彼女に、けれどテセド・ザラスは変わらぬ柔和な表情のままだ。木塀越しに彼女と向き合う男は、何の変哲もない世間話のように続ける。

「元より殿下はあまり人前にお出にならない方だとは思っておりましたが、まさかこの街で化生斬りなどをなさっていたとは。いささか驚きましたよ」

「……あの方は、王よりこの街にお借りしている方。余計な手出しは無用です」

「ほう。陛下も変わったお方だ。国の内外が戦乱で揺れ動いている時に、懐刀である殿下をお傍から離したままとは。……それとも、そうまでして守らなければならない『何か』が、この街にはあるのでしょうか」



 先の丸い刃を差し込むに似た切込みに、サァリは唇を軽く上げただけで応える。

 テセド・ザラスが何を狙っているのか、はっきりとしたところは分からない。

 ただこうして現れたのだから、無事に済ますつもりは、彼女にはなかった。



 穏やかならざる空気を漂わせ始めた女に気付いてか、テセド・ザラスは苦笑する。

「聖娼でありながら巫というあなたは、どうやら殿下を配してでも確保しておきたい存在のようだ」

「何のお話でしょう。心当たりがございません」

「別に構いませんよ。殿下にお聞きすればよいだけですから」

 テセド・ザラスの視線が、木造の建物を見上げる。

 どの部屋に彼がいるかまで把握しているのだろうか。サァリは静かな怒りが湧いてくるのを自覚した。


 ―――― 不遜の対価は如何なるものか。


 何処までも艶美なる圧力が冷気を帯びて立ち昇る。彼女は温度を失って白い指先を、男へと向けた。

「二度言わされるのは好きではありません。あの方に手出しは無用。それさえご理解頂けるのなら、わたくしも手荒な真似はいたしませんわ」

「これはこれは。勇ましいことだ」

 小娘が、とでも揶揄したいのだろうか。

 サァリが目を細めると、テセド・ザラスは軽く手を挙げた。

 りん、と小さな鈴の音がして、入り組んだ路地のあちこちから顔を隠した黒づくめたちが現れる。


 サァリは風を切る音と共に左右に降り立ってきた刺客を冷ややかに一瞥した。

 テセド・ザラスの両脇に二人、彼女を挟むように二人、合計四人の刺客は体格からいって大人の男だろう。だが揃って泥人形のように個を感じられない。彼らはここに来るまで何をして来たのか、全員が薄い血臭を漂わせていた。


 近くに置かれているのかちりちりとうるさく鳴る鈴を、サァリは軽く手を振って止める。

 そうしている間に、テセド・ザラスが近くの木戸を開けて中に入ってきた。彼女は足下の水桶を確認して顔を上げる。

「どういうおつもりです? このような者たちで私をどうにかできるとでも?」

「大した自信だ、お嬢さん。それとも、この者たちを無力化するだけの力が、あなたにはあるのかな」

「試してご覧になればよろしい」



 神の血を取り込んだ人間など、彼女にとってはただの血袋と変わらない。

 その事実を目の当たりにして、誰も彼も己の愚かさを顧みればいいのだ。



 サァリは力と同義である息を、深く遠く吸い込む。

 テセド・ザラスはその様子を検分するように注視していたが、やがて何かを命じるように口を開きかけた。

 ―――― しかしそれより早く、サァリの目前に白刃が現れる。

 間髪置かず、男の手が彼女を強く後ろに引いた。



 濡れ髪に浴衣姿のシシュは、サァリを自分の背に回してテセド・ザラスを睨む。

「何をしている? よくこの国に顔を出せたものだな」

「ご無沙汰しておりますな、殿下。ご壮健のようで何よりです」

 テセド・ザラスの声音に動揺の色は感じ取れない。或いは単に、建物に背を向けていたサァリが気付かなかっただけで、男たちには割り込んでくるシシュの姿が見えていたのかもしれない。

 彼女は驚きから覚めると、慌ててシシュの浴衣を引いた。

「シシュ、駄目だよ。下がってて」

「それは俺の言いたいことだ。中に入っていてくれ、サァリーディ」

「駄目だってば」

 サァリは彼の背を叩いたが、シシュは退く気配がない。


 ―――― このままでは、もしかしたら自分を守ってシシュが酷いことになってしまうかもしれない。

 そんな危惧に捕らわれサァリが青ざめた時、すぐ右にいた黒尽くめが動いた。軍刀を持つシシュの右肩へ拳を振るう。


 青年はそれを、前を見たまま体を斜めにして避けた。そのまま軍刀を返して黒尽くめを切りつけようとする、寸前でサァリが叫ぶ。

「身の程知らずが! 下がれ!」


 無形の力が、彼女から男に向けて破裂する。

 次の瞬間、シシュに殴りかかった刺客は、口から大きく血を吐いて崩れ落ちた。

 突然の血飛沫はシシュの浴衣に降り注ぎ、それだけでなく足下の桶へぼたぼたと滴る。前髪にまで血がかかった青年は、背後の女を低い声で呼んだ。

「サァリーディ……」

「あああ、ごめんなさい」

 これではまた弁償洗濯の連鎖だ。サァリはままならない力加減に当惑したが、相手はそれを待ってはくれなかった。

 未だ笑顔のまま、ただ目だけは笑っていないテセド・ザラスが残る刺客に命じる。

「行け」


 その声に応えて、更に二人の黒尽くめたちが向かってきた。

 左右から挟撃するように飛びかかってくる男たちに、サァリは刹那、逡巡をする。

 その間に一歩前に出たシシュが軍刀を振るった。

 空を切る速度で振るわれた刃は、左から来た刺客の両眼を正確に切り裂く。

 ほぼ同時に振り切られた軍刀の切っ先が、右の刺客へと突き立った。獣に似た瞬発力で飛び込んできた男は、突如進路上に現れた刃を避けきれなかったのだ。


 喉元を突かれた刺客は、だがすんでのところで踏みとどまると後ろに飛ぶ。よろめきながら態勢を整えようと体が揺るがせた。

 シシュはだが、男から視線を外すとテセド・ザラスを凍り付くような視線で射抜く。

「お前たちは、いくつかの部隊に分かれてこの街に入り込んでいるそうだな」

「おや、誰にそんな話を聞きましたか」

「誰でもいいだろう。―――― アイリーデでお前たちは、対立する陣営の邪魔者を排除しながら、『冷たい血』の持ち主を捜している。違うか?」


 シシュの確認に、後ろにいたサァリは内心息を飲む。

 やはり彼らは、血の大本たる彼女を探しているのだ。それが人を狂わす花と同じく、自分たちのよい道具になると思って求めている。


 だがどうしてアイリーデにいることがばれてしまったのか。表情を変えないよう努める彼女に、テセド・ザラスは笑いかけた。

「どうですかな。冷たい血など、まるで夢物語のような話でしょう。ほんの一匙で人間を作り変えてしまう液体など……想像するだけで身が震えます。実在するとしたら、それはもう神の領域でしょう。―――― そう思いませんか、お嬢さん?」

 彼女の体の奥までを突き刺すような目線。

 知っている、と如実に漂わせてくるテセド・ザラスの言葉に、サァリは蔑みきった眼差しを向けた。

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