第104話 退路


 血と泥で汚れきった畳は、後で全て替えなければならないだろう。

 シシュは頭の隅でそんなことを考えながら、軍刀を構えた。

 普通の刺客が相手であれば、三対一でも凌ぎきることは可能だろうが、鈴が反応しているということはまともな人間ではない。

 彼は油断を挟まぬ摺り足で更に半歩前に出た。その隣にタギが無造作に並ぶ。

「なんだこいつら。知り合いか?」

「この前の黒尽くめと同じものだ」

「ああ、あいつらか」

 まるで茶の銘柄を聞いたように興味のない返事だ。だがシシュは、男の持つ気が一段険しくなるのを感じ取った。あの時刺客たちと交戦した彼も、ただならぬ相手だということをよく知っているのだろう。よく磨かれた業物の切っ先を、タギは三人へと向ける。


 三人のうち、薄墨色の洋装姿の女が首を軽く傾けた。

「黒尽くめ? ああ、別の隊のものか」

「別の……複数いるのか!」


 サァリ自身、自分の血がどれだけの人間に与えられたのか心配していたのだ。

 しかし女の口ぶりからすると、少なくともその人数は十をくだらないようだ。シシュはちりちりと震え続ける鈴を睨む。


 女はだがそれを、細い指先で握り潰して捨てた。右手の脇差を自分の体に引き付けて構える。

「お前はどうやら、我らの探す者に心当たりがあるようだ。切り刻んでから問うてやる」

「……それはこちらの台詞だ」

 研ぎ澄まされた空気が無音を作る。

 血の匂いが広がっていく妓館の座敷で、二人の化生斬りはそれぞれの戦意を立ち昇らせる。

 そんな中、潰された鈴はひとりでに畳の上を転がっていくと、月の光の当たる場所でそっと止まった。




 ※ ※ ※ ※




「―――― かかった」

 ぽつりと呟いた言葉に、傍にいた下女が顔を上げる。他に客の姿もない玄関先で、幻聴を聞いたかもと思ったのだろう。彼女は上り口にいるサァリを振り返ってくる。

「主様? 何か仰いました?」

「少し」

 反射で答えながら、サァリは右手を上げる。

 場所を変えている時間はない。即座に動かさねば逃げられてしまうだろう。だから彼女は自身にしか見えぬ糸を指で手繰る。

 紅く塗られた唇をそっと開け、古き呪を吐き出した。

「……縛」

 街中に広がる鈴への糸。その上を、細く縒られた力が風よりも早く走っていく。

 そうして全ての糸の大元に立つ神は、冷え切った息を小さく吐くと、舞うような仕草で右手を強く―――― 引いた。




 ※ ※ ※ ※




 三人の刺客は、やはりそれぞれ異様な身体能力を持っているらしい。

 恐ろしい速度で次々突き込まれる脇差を弾きながら、シシュは嫌な予感を覚えて天井を仰いだ。そこに着物姿の少年が逆さにしゃがんでいるのを見て、咄嗟に後ろへ飛び下がる。

 ほぼ同時に前髪を掠めるようにして、天井から突き込まれた刀が畳の上に突き刺さった。その柄の上に片足で降り立った少年は、体重がない者のような身軽さでシシュに向かい飛びかかってくる。

 何も持っていない両手。だが暗い緑に染まっている指を見て、シシュは舌打ちした。


「毒手か!」


 絶えず毒液に漬け込んで作るという暗殺者のその手は、触れられれば致命傷は免れえないものだ。

 シシュは軍刀を横に構えながら更に下がろうかと考えたが、すぐ後ろにはもう娼妓と蹲る客がいる。

 彼は一瞬で決断すると、向かってくる少年に向けて刃を振るった。


 突き出された両腕への一閃を、しかし少年は宙で身をよじって避ける。

 人とは思えぬ身のこなしに戦慄しながらシシュが身を斜めにした時、だが少年は腹から身を二つに折って後ろに弾き飛ばされた。隣で痩身の男を相手にしていたタギが、笑いながら蹴りつけた足を引く。

 けれどその間にも、脇差しを手にした女が左から回り込んできた。


 迷っている時間はない。

 シシュは追い込まれる前に、自ら踏み込んで女へと相対した。

 体の死角から突き出される脇差しを紙一重でかわす。服の袖を掠めていく感触にも構わずに、軍刀を最短の軌跡で振るった。

 その切っ先が、彼に飛びかかろうとしていた少年の右手を払う。緑に染まった手の指が二本、切り落とされて畳の上に飛んだ。


 しかし、少年はまったく痛みを感じていないかのように、身を屈めるとシシュの足を払おうとする。それを反射的に飛んでかわした青年は、だが代わりに喉元へ向かってくる脇差しを「完全には避けきれない」と判断した。

 左手を犠牲にすることを決断して……けれどそこで、三人の動きが止まった。



 糸が張る音に似た気配が響く。

 時間自体が静止してしまったような空隙はほんの一瞬のことで、すぐに場には変容が訪れた。

 ――――少年の指の切り口から、猛然とどす黒い血が溢れだしたのだ。

 あまりのことに場の全員が刹那、虚を突かれて固まる。

 そんな中でシシュだけは、異様な現象の意味を即座に理解した。どうやってかサァリがこの場に干渉してきているのだ。おそらく先日黒尽くめがそうなったように、体内に混ぜられた彼女の血が吐き出させられているのだろう。


 シシュは、我に返ろうとする少年へと刀を振り下ろす。避ける間もない速さのそれは、少年の首を半ば切断してのけた。未だ毒に侵されていない深紅の血飛沫が、噴き上がり天井にまで届く。

 その間にタギもまた痩身の男を正面から切り捨てていた。堰きって溢れ出す血に、化生斬りの男は飛び下がりながら気味が悪そうな目を向ける。

「何だこいつら。今まで人の血でも吸って溜め込んでたのか?」

「巫が何かをしているのだろう。最後の一人は生かして捕らえたいが……」

 この様子ではかすり傷でもつけたが最後、失血死されてしまいそうだ。刃を突きつけて降伏するような相手であればよいが、この身体能力ではそれは望めないだろう。シシュは無手での攻撃を考える。


 だがタギは逆に、女に向けて刀を構え直した。

「ならちょっと傷をつけてやりゃ、それで終わるな。床板まで染み込みそうだけどよ」

「待て。殺しては話が聞けない」

「って言われてもなぁ」

 大雑把な性格に見えるタギだが、シシュの意見を聞いてくれる気はあるらしい。僅かに引かれた刃先に、女は逡巡の目を見せた。逃げられるかどうか計っているのだろう。その様子を見て、シシュは更に考え込む。


 結論はすぐに出た。


「分かった。殺そう」

「おい」

 呆れたような声に突っ込まれたが、何も投げやりになっているわけではない。

 シシュは軍刀を握りなおしながら補足する。

「この特殊な刺客は一定以上増えない。数が多くても限度がある。情報が得られるに越したことはないが、そうでなくとも一人ずつ始末していけばそのうち絶えるだろう。手をこまねいて逃がしてしまうよりはその方が確実だ」

「へえ。あんたのことだから、女は殺したくないとか言い出すかと思ったぜ」

「そんなことはない」


 出来るなら女子供を殺したくはないが、何事にも限度というものはある。相手が敵国からの刺客で、サァリの血を取り込んで変質した上に彼女を狙っているとなれば、それはもう迷うことなく敵だ。見逃して不安の芽に繋げることは出来ない。

 女に向けて距離を詰める青年に、だがタギは軽い制止の声をかけた。

「まぁ待てよ」

「何を。殺すことに問題でもあるのか?」

「いや。どうせ殺すなら吐かそう」

「それは……出来るならそれに越したことはないが」


 死ぬと分かっていて情報を洩らす人間がいるだろうか。

 懐疑的な表情のシシュを置いて、タギは一歩進み出た。極々自然に上から見下ろすような、力を振るう者の目で笑う。


「今の話聞いてたな? じゃあ、てめえに選ばせてやるよ。苦しんで死ぬか、楽に死ぬかだ。どうせ死ぬんだから、後のことはてめえにゃ関係なくなる。なら、使われて犬死にする最後の最後に、反吐吐いてのたうちまわる方を選ぶか、一瞬で痛みも感じずに死ぬ方を選ぶか―――― 好きな方を選べ」


 タギは刃紋のない刀を女に向ける。

 嗜虐も、残忍さもない笑いは、だがその分、現実を知らしめる率直さがあった。

 シシュは軽く驚いている自分に気づくと、頷く代わりに畳の上に足を滑らせる。女の退路を立つよう、自然と脇に回り込んだ。



 女はそれまで、緊張を漂わせた真顔であったが、二人の男に刀を向けられると口の端を上げて笑った。脇差しを顔の横に引くようにして構える。

「ニ対一だからと言って、もう勝った後の算段か? 随分と自信家であるのだな」

「そりゃてめえの方だ、女」

 タギの足が、じっとりと血に濡れた畳を踏む。

 たわんで染み出す赤黒い液体は、人の業を表す淵の端そのものだ。シシュは自身も踏み込んでいるその上に立ち、無言を保った。

 彼が考えていること同じことを、タギは笑って口にする。

「てめえはどうやら、おかしな動き出来るだけの力に相当自信あるみたいだけどな。俺たちにとっちゃただの獲物だ。―――― アイリーデの化生斬りは、はなっからそういう奴らばかりを相手にしてる」


 化生が実体を持つこの街において、化生斬りが相対するものは皆、人ならざる力を持つものばかりだ。

 サァリの血を悪用した刺客たちがたとえ飛びぬけた能力を得ていようとも、驚くには値しない。ただいつも通り戦うに過ぎない。


 二人の男の態度からもそのことを察したのか、女は軽く顔を強張らせる。

 避けようのない死へ向けて、果たしてどの道筋を選ぶのか。躊躇いさえも許さない力が、人の形を取って彼女の目前に迫っていた。




 ※ ※ ※ ※




 鳴っている鈴が潰されたならその一つを辿れるようにはしていたのだが、開いている店を置いて来たところ、大通りに面した妓館はちょっとした騒ぎになっているようだった。

 灯り籠が下ろされ、二人の用心棒が人払いをしている様を、サァリは眉を寄せて見やる。

「あれ、どうなってるんだろ……」

 中に入って様子を確かめたいが、ひょっとしたら思いもかけず不味いことになっているのかもしれない。

 何と言って通してもらおうか迷っていたところで、けれどサァリは中から出てきた男に発見され、逃げ出したくなった。

 頭から水でもかぶったかのような姿のタギは、彼女を見るなり舌打ちする。

「お嬢、畳と壁と天井を弁償しろよな。おかしな術のおかげで部屋が一つ使い物にならなくなった」

「……畳はともかく天井までは勘定外だったのですが。どのような斬り方をしたのです」

「てめえの男に聞け。聞き出した話の内容もな」

「聞き出した?」

 サァリは軽く首をかしげたが、水を滴らせてもなお血臭がこびりついているタギは、彼女を無視して通りの中へと消えていった。

 代わりに遅れて出てきた青年が、サァリの後ろに立つ。彼女はやはり水浸しのシシュを振り返った。

「ね、どうしてそんななの?」

「返り血を浴びすぎた。とりあえず水で流してはみたが」

「……風邪引くよ。せめて着替えないと」

 サァリは彼の体越しに妓館の中を覗き込んだが、自警団員が数人慌ただしく行き来しているそこは、どうやら着替えを借りられる状況ではないようだ。

 彼女はずぶ濡れの青年をもう一度見上げると、困惑しながらもその袖を引く。

「行こ。ここじゃ目立っちゃうし」

 このまま店の前で立っていても、周囲の視線を浴びて妓館の評判に影響するだけだ。

 二人は大通りを避け路地に入ると、月光に照らされた小道を歩きだした。

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