第102話 夜鈴
散らばった鈴は、灯り籠の赤い火を受けて鈍く輝いている。異様とも言えるその眺めに、サァリは慌てて玄関へと戻った。
下女は花の間を開けに行っているらしく、誰の姿もない。鈴を包んでいたはずの風呂敷は、棚の上から半ば垂れ下がって広がっていた。
サァリは足下に落ちている一つを拾い上げる。
「何これ……。私、ちゃんと包んでおいたんだけど」
「不安定な場所に置いたとか」
「ううん。それに、ただ落としたんだとしても、ここまでは広がらないと思う……」
もっとも遠くまで転がっている鈴は、広い三和土の端にまでいっている。いくら丸い鈴といってもこれは飛び散った範囲がおかしい。―――― 鈴自体が跳ね回ったりしなければ、ここまでにはならないはずだ。
サァリは門前に出ている間、鈴の音が聞こえたか否か思いだそうとした。だが、玄関から門までは大分距離がある。彼女はすぐに答の出ない思考を捨てた。険しい目で辺りを見回す。
「あの黒いのたちが近くに来たのかも」
「奴らが?」
シシュの纏う空気が変わる。青年は腰の軍刀に手をかけ、廊下の先を睨んだ。サァリは三和土に屈んで鈴を拾い集めながら頷く。
「この鈴、私以外で私の血が近づくと反応するんだけど、その反応っていうのが近くなるほど大きく揺れて音を出すってものなの。こんなになってるってことは、全部が反応しあってこぼれちゃったのかも……」
「中を見る。上がって構わないか」
「大丈夫。お願い」
サァリは即答したが、頷いたシシュの方は上り口を前に逡巡を見せた。土足で上がるべきか決めかねているのだろう。
彼女は下足棚を開けると、そこから取り出した靴を彼の前に置く。
「はい、これ履いて行って」
「どうしたんだ、これは」
「そろそろいつも靴で上がってるのを気にしだす頃かと思って。用意しといたの」
別に土足で歩かれようが血を撒き散らされようが、サァリとしては後で掃除をするだけなので構わないのだが、彼の性格ではいいと言っても気にしてしまうだろう。だから彼女もこういう時の為に、中履き用の靴を用意してみた。
青年は、上り口に置かれた靴に履き替え紐を締めながら呟く。
「……何かおかしな感じだな」
「大きさ合わない?」
「丁度いい」
士官学校出の彼は、手早い支度にも慣れているらしい。あっという間に長い靴紐を結んでしまうと廊下を花の間に向かって歩き出した。サァリは小走りにその後ろを追う。
だがそうして月白の敷地内全部を回っても、先日出くわした刺客たちの姿は―――― 何処にも見つからなかったのだ。
すっきりしない結果だが、店のこともある以上、いつまでも拘泥してはいられない。
サァリは玄関に戻ると下女の手から回収された鈴を受け取った。一応怪しい何かに気付かなかったか女たちにも聞いてみたが、皆心当たりはないという。
得体の知れない気持ち悪さに、彼女はシシュを門まで送りながら眉間に皺を作る。
「何なんだろ」
「館の結界にかからないのか?」
「うーん、結界は無理かも。私の血なんだもん。でも、近づいてきてたなら昨日みたいに私の方が気づきそうなんだけどな。何でだろ」
昨晩は確かに、接近するにつれ違和感を覚えたのだ。
それに比べて今日は何も引っかかるところはない。サァリは鈴にかけた術の作りを改めて振り返った。
その時、一歩先を歩いていたシシュが立ち止る。つられて足を止めたサァリは、自分たちが門前に戻ってきたことに気付いた。すっかり暗くなった道の先には、いくつかぼんやりとした灯りが見える。サァリは風呂敷包みを彼に手渡すと、街の中央に通ずる方角を眺めた。
「これから見回り?」
「ああ。鈴を置きながら奴らを探してみる。三人は確実に逃がしているしな」
「気を付けて。何かあったら要請出してね」
「分かった」
いつもと大差ない挨拶を交わした二人は、そこでほぼ同時に微妙な顔を見合わせた。先程途中になっていた話について、触れるべきか否か迷う空気が流れる。
放っておきたいような、逆に腹を割って本音で話したいような、取扱いに迷う問題だ。
しかしサァリはすぐに「申し出をされたのは自分の方なのだから、自分から切り出すべきだ」と結論づけた。勇気に似たもので自身を奮い立たせる。手を伸ばしシシュの袖を掴むと、彼女はすがる思いで口を開いた。
「さ、先に約束して欲しいの」
「約束?」
問い返す青年に、彼女は首肯する。
一線を越えるならば、二の足を踏ませている憂いを取り払いたい。
それがこの場しのぎの誓いであっても、今だけは安心しておきたいのだ。
サァリは懇願を込めて彼を見つめる。
「絶対、死なないでほしいの」
「……人間には寿命というものがある」
「そうじゃなくて!」
さすがに寿命を曲げて生きろとまで言う気はない。大体サァリ自身の寿命も人と変わらぬものなのだ。その代り巫は同じ存在を持つ次代を生み出す。
―――― そうして生きる自分と共にいてくれると言うなら、何よりもまず自分を守って欲しい。
サァリは袖口を掴む指に力を込めた。
「私の為に絶対死なないで。それだけ約束してくれればいいから……」
先視の巫が彼について告げてきた内容は「女を守って死ぬ」というものだ。
だがその女が誰であっても構わない。ただ自分でなければそれでいい。
自分が彼の死の原因にならないのならば、共にいて守ることが出来る。どのような敵でも打ち払ってみせる。
そう信じられるのなら、今この瞬間に己が全てを彼に明け渡してもいい。
懇望して必死に彼の答を待つサァリに、だがシシュは難しい顔で数秒考えた後、口を開いた。
よく通る、心地よい低い声が響く。
「それは守れるかどうか分からない。約束出来ない」
「……………………」
風のない夜。
楽の音も届かない場所で沈黙が訪れれば、圧し掛かってくるのは空気の重みだけだ。
サァリは先の時とは違う意味で震えだした指先を見つめる。
―――― こうなる気がしていた。
と思ったのは神としての自分か、人としての自分か。とりあえずは腹立たしい。分かっていたが酷い。どうしようもない。
彼女は男の袖口から手を放すと、下げた両腕の先で拳を握る。そのまま俯いてしまったサァリを、シシュは心配そうに覗き込んできた。
「サァリーディ?」
「何だ、馬鹿……」
地面を這うような声に、シシュは軽くたじろいだ顔を見せる。
「いや、一応言わせてもらうなら、俺は巫を守る為にいるのであって――――」
「っ、煩い、馬鹿!」
「サァリーディ」
「シシュのそういうとこ好きだけど……でも馬鹿! もういいよ! 知らないから!」
癇癪状態のサァリの叫びは、ここが月白の門前でなければ周囲の注目を浴びてしまっただろう。
だが、北の館の周りに他の店はない。彼女は握った拳で伸ばされた手を殴ると、門の中に駆け込んだ。上り口にまで戻ると滲んでくる涙を指で押さえる。
玄関にいた下女が、軽く飛び上がって問うた。
「ぬ、主様、どうかなさったのですか?」
「どうもしない。私は今日は花の間にいるから。シシュが来たら絶対上げないでね」
「え、あ、はい……」
怪訝そうな返事を最後まで聞かず、サァリは歯を食いしばりながら中へと上がる。
自分が狭量なのだとは分かっている。だが今だけは制御できない情動が、全てを内から焼き尽くしてしまうような気がした。
―――― 今までサァリの怒りを買ったことは何度かあったか、今回はさすがにいつもと違う気がする。
茫然とした気分から抜け出した後、彼女を追って玄関に戻り、下女に「入れられない」と断られたシシュは、三和土の上で悩んだ。小脇に抱えたままの風呂敷包みを一瞥する。
「…………これは、断られたのか?」
「何が断られたんだ。要請か。ってか、そんなところで突っ立ってんな」
友人の声に振り返ると、ちょうどトーマが灯り籠の脇を通って入ってくるところだった。石畳を踏む足音に気付いていたシシュは、途方にくれた思考のまま返す。
「サァリーディに求婚した」
「そりゃまたお前らしいな。で?」
「もう知らないと言われた」
「そうかそうか。大体いつもと同じだな。ま、頑張れ」
主の兄である男は、軽くシシュの肩を叩くと下女に迎えられ中に上がっていく。
その背を見送った出入り禁止の青年は、言われた言葉を反芻した。
「いつも通り……なのか?」
彼女と共に生きる覚悟はある。その覚悟を、自分の方から示すべきだという思いもあった。
そしてそれ以上に、何故だか言いたくなったのだ。
ただ他の客のように「買いたい」とは言いたくなかった。神供の押し売りも違うと思った。
結果残った選択肢で、娼妓の彼女に向けるには無粋だろうと思いつつも求婚の言葉になったのだが――――
「やはり不調法だったか……」
これは、サァリの機嫌が落ち着いた頃、謝りに来るしかないだろう。
シシュは溜息を一つ落とすと、見回りに出かける為に重い足取りで月白を後にした。
誰もいなくなった三和土の隅には、拾われ損ねた小さな鈴が一つ、鈍い銀色に光っていた。
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