第101話 恋情
冷たい石室にいるものは彼女一人だ。
神の室には他に誰もいない。サァリは裸の体を見下ろす。
柔らかな女の躰は、人間を模して作られたものだ。人の手を得る為に作った体。指先に灯る熱を感じたいが為に、彼女は人の形を取った。そうして己が褥に供物を招いたのだ。
だがそこまで考えてサァリは、ふっと顔を上げた。
―――― 違う。
人との繋がりを欲して人の体を作ったのは、祖である古き神だ。
彼女自身は違う。最初からこの体を持って生まれた。神性を切り捨てた母と人間である父の間に生まれたのだ。
だからこの孤独は、存在に付きまとうはじめのもので、彼女自身のものではない。たとえ漠然とした不安を覚えようとも、それは自分だけのものであるはずだ。
サァリは目を閉じて細い腕を上げる。氷のような指を、何もない空間に向かって差し伸べた。
冷気を宿す手。人を容易く死に至らしめるこの手で、自分はこれから何を掴むべきなのか。
答は出ない。
石室には同じ存在を持つ女たちの足跡が、無数に染み込んで残っている気がした。
※ ※ ※ ※
術をかけた小さな鈴は全部で六十二個。サァリはそれを薄紅色の風呂敷に包んで玄関脇の棚に置いた。同じ棚に置かれた細工時計で時刻を確認する。
まもなく火入れの時間だ。だが仕度をしようと三和土に下りたサァリは、門の向こうに見知った青年の姿を見いだし微笑した。一礼して先に籠へと火を入れると、淀みない足取りで彼のところへと向かう。
主が来るのを嬉しそうな笑顔で待っていたベントは、薄闇に溶けぬ金髪を軽く揺らしてサァリに手を伸ばした。大きな掌が彼女の左頬に軽く触れる。
「今日も来てみた」
「ご厚情感謝いたしますわ」
「昨日の返事が聞きたい」
「昨日と変わらぬままです」
即答で打ち落とすと、ベントは少年のようにむっと不満げな顔になる。その率直さが微笑ましくて、サァリは口元を緩めた。
ベントは彼女が表情を崩したのを見て、自分も微笑する。サァリは背後の館を指し示した。
「よろしかったら花の間にご案内いたしますわ。お気に召す娼妓がいるやもしれません。お茶をお出ししますわ」
「貴女は?」
「わたくしは表でお客様をお迎えいたしますので」
「一緒にいては駄目なのか?」
「駄目です」
サァリは笑顔のまま、遠慮なくきっぱりと両断する。
別に意地悪で断っているわけではない。妓館の玄関に大男がずっと立っていたりしたら、他の客に迷惑なだけだ。
彼女の返答を聞いて、ベントは不服そうに口を曲げる。よい育ちの人間なのだろう。ころころと表情が変わる中にも、芯に一本通った品の良さのようなものを感じさせた。
サァリは彼から一歩退く。
「お上がりになるならご案内いたしますわ」
「そうでないのなら?」
「お時間の無駄になるかと」
言外に「望みはない」とサァリは釘を刺したが、ベントは分かったようには見えない。これは面倒な意味で長期戦になるかもしれない、と思ったところで、サァリは道の先に待っていた人間の姿を見つけた。瞬間で表情を統御する。
ほぼ同時に向こうもサァリがそこにいることに気づいたらしい。シシュは、彼女の主としての一瞥を受けて頷いた。客との会話を邪魔しないよう歩調を緩める。
ベントは大きな手をもう一度、サァリの頬に添えさせた。
「サァリ、どうすればオレを選ぶ? 時間が必要か?」
「いいえ」
同じ問いを、人は一度は自分の中に抱いて向き合うものなのかもしれない。
誰かを選ぶとは、どういうことなのか。
サァリは他の誰とも違う日常と非日常を振り返る。
「わたくしは、恋情とはどのようなものであるのか存じません」
それがどんなものであるのか、サァリは分からない。思えば自分の中にあるものは、話に聞く少女たちのどれとも違っている気がする。似たようでいて、変わっているのだ。彼女はシシュを見ぬよう目を閉じて微笑む。
「想いを向けられれば、時間を費やされれば、そして心を……命を贈られれば、その方を選べる訳ではないのです」
サァリには、それが出来なかった。全てを貰ってもなお「彼」を選ぶことが出来なかった。確かに好きだったのに、最後の距離を縮めることが出来なかったのは、きっとただ形が違ったからなのだろう。
形と形をあわせて一つと成す。それがサァリ自身の思うものと彼の思うものとは、異なっていたのだ。
「わたくしは、ただ自ら惹かれるだけです。強さに、そして弱さに。誠実さに、頑なさに。何を欲している訳ではないのです。ただ立つその姿を綺麗だと思う。向かい合いたいと思い、触れたいと思う。触れて欲しいと想う。……それだけなのです」
形のないそれを恋情と言うのか、サァリは分からない。
ただ手を取ってくれたなら嬉しい。温かさを感じていたい。狂う程の熱ではなく、変わらぬ真摯で立っていて欲しい。―――― そういうものを、サァリは選んだ。
彼女は目を開けて前に立つ男を見上げた。
ベントは不服そうな、理解しがたいといった視線を彼女に向ける。
「まるで一目惚れしかしないとでも言っているみたいだ」
「そうかもしれません」
「運命を信じているとでも?」
少しだけ皮肉げな問いに、サァリは曇りなく微笑む。
「いいえ。少しも」
それは傲然さを隠さない、神の笑顔だった。
ベントはまだ何か言いたげにしていたが、結局は「また来る」とだけ言って踵を返した。そこで初めて少し離れたところに立つシシュに気づいたようで、軽く目を瞠る。
自警団姿の青年に、ベントは一瞬何かを言いかけたが、すぐに苦い顔で立ち去った。
男の姿が見えなくなってから、シシュはようやくサァリの前にやって来る。
「火入れ前に来ればよかったな。すまない」
「いいの。用意出来てるから入って」
見上げた青年の顔は、いつもの気まずさとささやかな苛立ちが入り交じったものだ。或いは先程のベントとのやりとりを聞いて、何か思うことがあるのかもしれない。
だが、客がいる場所では彼女の立場を慮って無言でいてくれるその真面目さが、サァリには嬉しかった。思わず子供だった時のように、シシュの左腕に飛びつきたくなる。
彼女は弾みそうになる足取りを抑えながら、青年と並んで月白の門をくぐった。
玄関へと続く石畳にシシュの呟きが落ちる。
「最近は、巫を望む客も増えているのか?」
「うん。前よりは」
「先程の男は―――― 」
そこまで言って、彼は言いにくそうに言葉を切る。だがサァリが袖を引いて続きをねだると、溜息混じりに口を開いた。
「少し見ただけだが……彼に似ていると思う」
「彼? 誰?」
ベントに似ている知り合いなどいただろうか。
サァリが聞き返すと、シシュは軽く眉を上げた。分からないと言われたこと自体に驚いた様子で、じっとサァリを注視してくる。その視線には気遣う色が多分に含まれており、足を止めたサァリはその様子で彼の言う人物が誰なのか思い当たった。意表を突かれて目を丸くする。
「ひょっとして、アイドのこと?」
「……ああ」
「全然似てないよ」
何処が似ているかと言えば、髪色と身長くらいだろうか。
それ以外何処に共通点があるか分からない。首を捻るサァリに、シシュは真意を探る眼差しを向けてきた。お互いの認識の隔たりに、彼女は眉を寄せる。
「え、本当に何処が似てるの? あの人、育ちがよい世間知らずって感じだけど」
アイドは、その対極にあるような人間だったのだ。結びつくところなど何一つない。
けれどシシュはそう言われても、己の意見を勘違いとは思っていないようだった。口ごもることなく返してくる。
「持っている雰囲気が似ていると思った。特に、アイリーデで化生斬りをしていた頃の彼に」
「雰囲気が? 前のアイドに?」
「率直に巫を望むところなどが。少し彼を彷彿とさせる」
言われてサァリは記憶を振り返る。
言葉一つを取れば、確かに似たところがあるかもしれない。
何故自分を選ばないのかと、正面から問いただしてくるようなところなどが特に。
ただ、言葉だけが似ていても、同じように人懐こい笑顔を見せようとも、やはり「違う」のだ。
アイドはもっと、彼女を見ると同時に自分を見つめているようなところがあった。常に全てを唾棄しているが如くうとみながら、傷など一つもないように笑っていた。
―――― 人は、人が思うよりずっと一人一人違っている。
サァリはもしかしたら誰よりもそのことを、直感している存在なのかもしれない。
彼女は宙に彷徨わせた視線をシシュに向けた。
「違うよ、シシュ。アイドには似てないよ」
「……そうか」
「それに、本当に似てたとしても、違う人間なら『違う』んだよ。どんなに似てたって駄目。私には違って見えるから」
言葉も表情も、全て当人のものでなければ意味が無い。たとえ双子と見間違えるほどに同じであったとしても、サァリにとっては違う形の誰かだ。
だから何を思うこともない。「彼」は今頃、自らが選んだ母の胎で眠っているのだろうから。
二人はまたどちらからともなく歩き出す。
歩む先に、石畳の終わりが見えてくる。
黄昏に灯りをともす籠は、夜に咲く花のようだ。人を招き眠りをもたらす一輪の花、アイリーデの数多の店先に掲げられるそれを、サァリは目を細めて見やった。いつの間にか漂って定まらなく思える思考を、こめかみを押さえて留める。
隣を行くシシュの吐く息の音が聞こえた。
「サァリーディ」
「何?」
「触れても平気か?」
「どうぞ、好きなだけ」
当然のことと返して、彼女は隣の青年を見上げる。
しかしシシュは、その即答ぶりにむしろ流されたと思ったらしい。どう言い直そうか眉を顰めているのを見て、サァリは自ら手を伸ばした。正面に回り青年に抱きつく。胸に顔を埋め、きつく腕に力を込めた。
―――― この温かさが、彼女の選んだものだ。
彼が欲しいと願う。だがそう思いながら、死なせないように傍から離そうとも考える。供物を捧げられる立場でありながら、その相手を手放してでも無事でいて欲しいと願う。
この感情が、人とは違う彼女の恋なのかもしれない。
抱きついているサァリに、シシュは困惑しているのかしばらく無言であったが、ややあって遠慮がちな手が彼女の頭を撫でた。その手がそっとサァリの背を抱く。
支えて分かち合う温度に、彼女は吐露したくなる感情を抱いた。更に腕に力を込める。
シシュの声がすぐ傍で聞こえた。
「サァリーディ」
「うん」
「俺と結婚してくれないだろうか」
「……それはさすがに予想外だよ」
「すまない」
胸の奥がさざめく。
未知であるはずの熱が、既知のものであるかのように揺らめく。
どうして彼はこうなのか。いつも予想しないところで予想できないことを言ってくるのだ。
サァリは自分の指先が震え出したことに気づくと、恐る恐る腕を緩めて面を上げた。
見上げた青年の顔は、ひどく真摯で目を逸らさないものだ。その真っ直ぐな視線に何も言えなくなった彼女は、慌てて彼に抱きつき直す。どういう顔をすればいいのか分からずに、困惑のまま全力で彼を締め上げた。
それでもびくともしない青年は、しばらくサァリの髪を撫でていたが、何かに気づいたらしく手を離す。その手でシシュは玄関の先を指した。
「サァリーディ、鈴とはあれか」
「え? うん、そう」
答えながら腕をほどいた彼女は、だが指された方を振り返って無言になった。
風呂敷に包んで棚の上に置いたはずの鈴は、いつの間にか上がり口から三和土の上にまで広く散乱し、鈍い輝きを放っていたのだ。
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