第100話 夜歌
シシュの方にこなかった二人の刺客は、やはりタギと衝突していたらしい。
幸いそちらには鉄刃が駆けつけたため大事にはならなかったが、逃がしてしまった刺客は鉤爪の少女と合わせて三人になった。
慌ただしく後始末がされた後の真夜中、離れの自室に戻ったサァリは溜息をつく。
「何か……疲れたかも」
「無理もない。早めに休んだ方がいい」
「うん」
頷いて青年を見上げると、彼は予想通り非常に居心地が悪そうな顔をしていた。
今までに何度か彼女の自室に入ったことがある彼でも、こうして改めて招かれるのは苦手らしい。
サァリは簪を引き抜きながら軽く頬を膨らませる。
「だって、外で出来るような話じゃないでしょ」
「確かに……」
それに、主の間にも彼を通すことは出来ない。数ヶ月前の一件で学習したサァリは、シシュを自分の客室に入れることをやめたのだ。
普段勤勉実直に見えて、いざという時何を言い出すか分からない彼だ。子供だった頃のように迂闊なことは出来ない。客室よりも自室の方が問題ないと考えているサァリは、解いた銀髪をかき上げながら鏡台の前に立った。
「今、お茶淹れるから適当に座ってて」
「構わなくていい。楽にしてくれ」
「じゃあ着替えていい?」
「それはちょっと」
サァリの私室である部屋の二階は、人が入ることを想定していない為、着替用の衝立などは置いてない。
青年の苦言に、彼女は首を捻った。
「先にお風呂に入るとか」
「別に構わないが……きちんと着てから出て来てくれ」
「一緒に入る? 背中流すよ」
「入らない」
きっぱりと苦虫を噛みつぶしたような返答は予想の範囲内だ。
サァリはころころと笑うと、鏡台の椅子を引き出してシシュに勧めた。自分は向かいの寝台に座る。
「さっきの刺客だけど、多分言った通り私の血を取り込んでるんだと思う」
「取り込んでいるとはどういうことだ」
「飲んだか、直接自分の血管に私の血を送り込んだか。体液の中でも血には特に力があるから。と言っても波はあるんだけど」
鉄刃から知らせを聞いてシシュを追った時、サァリは近づくにつれちりちりとした違和感を覚えたのだ。
実際に刺客に直面してその違和感はいや増したが、シシュが自分に似てると言った時、違和感は確信に変わった。
鉤爪をつけた少女は、別段顔立ちがサァリに似ていたわけではない。ただサァリに近しい青年は直感的にその類似性を嗅ぎ取ったのだ。
自身の存在を掠め取ろうとする不遜に、サァリは不快を覚えて口元を曲げる。
「何だろあれ。ディスティーラの差し金だと思う?」
「いや、違うだろう。逃がした子供はディスティーラを見て驚いていた」
「あれ」
だとしたらディスティーラは、サァリの敵になりそうな刺客を庇っただけだろうか。
サァリが眉を寄せていると、向かいで青年が声を上げた。
「ああ……いや、そうか」
「何?」
「隣国でディスティーラと戦った時に、深手を負っただろう」
「え? ……あ」
言われてサァリは薄れかけていた記憶を思い出す。
確かにあの時、大量の出血を伴う怪我を負ったのだ。
「でも、あの時に汚れた着物とか敷布は全部焼いちゃったはずだけど」
「怪我をした場所には血溜まりが出来ていた。閃光で戦闘に気づいた人間もいただろうし、様子を見に来た人間にあれを使われた可能性がある。それか、他に出血した記憶はあるか?」
「出血は定期的にしてるけど、ちゃんと処分してるから人の手には渡らないはず」
考え込みながらサァリが答えると、シシュは一拍置いて言われたことを理解したらしい。俯いて「すまない」と言ってきた。何故謝られるのか分からないので、サァリは生返事で「大丈夫」とだけ返す。
「……あの時の血を使われたんだとしたら、犯人は絞られるよね」
「テセド・ザラスか」
あの場所はテセド・ザラスの私有地で、近くには彼の屋敷しかない。彼女とディスティーラの衝突に気づいて様子を見に来るとしたら、彼かその手の者かのどちらかだろう。
―――― 非常に面倒な相手だ。
サァリは顎に細い指をかける。
「私あの時、どれくらい出血してた?」
「……小さな水溜まりくらいだな」
「じゃあ一人あたりどれくらい血を与えれば、あれくらいに変質するかな」
「分からない。最低でも五等分以下だろう」
冷静な返答にサァリは頷く。
シシュの指摘はもっともだが、それではあとどれくらいあのような刺客がいるのか分からない。サァリからすれば、まるで出来の悪い泥人形だ。神である彼女を、そして彼らが人間であること自体を冒涜している。
不機嫌な顔で考え込むサァリに、シシュは宥める声をかけた。
「気分の悪い話だが、あの血の量では限度があるだろう。今いる分の刺客を倒してしまえば済む」
「そうかもしれないけど」
「肝心なのは、巫の存在を向こうに知られないことだ。テセド・ザラスが巫の血を使ったのだとすれば、あれだけの血溜まりでその特異性に気づいたということだろう。油断ならない洞察力だ。加えて、きっと向こうは血を流した主を探している」
「あ、そっか。使っちゃった分を補充したいもんね」
黒幕が確定した訳ではないが、向こうとすればこの動乱の時期だ。強力な手駒は出来るだけ多く手に入れたいはずだ。
サァリは自分が血の一滴まで搾り取られるところを想像し、失笑した。その反応にシシュは顔を顰める。
「冗談ではない、サァリーディ。先程の者たちがアイリーデにいたのも、偶然ならいいが、そうでない可能性もある。ディスティーラとあわせて用心すべきだ」
「う、また防戦……」
いつ何処から襲ってくるか分からない敵を用心するというのは、中々に辛いものだ。可能であればこちらから打って出たい。
だが、妓館の主という立場がある以上、そうも出来ないのが事実だ。以前のように力がありあまっているなら無理も利くが、今の彼女は使える力に波がある。
サァリは己でさえもままならない状況に、頭を抱える代わりに両手で頬杖をついた。吐く息に冷気が混ざる。
小さな氷粒が舞い落ちていくことに気づいたのか、シシュが椅子から立ち上がった。伸ばされた手を、触れる寸前でサァリが見上げると、青年は気まずげな顔で固まる。彼女は苦笑して自らその手を取った。
「大丈夫。まだ平気だから」
「あまり思い悩まない方がいい。自分の身の周りにだけ用心していれば、あとは他の人間が片付ける」
「私のことだよ」
「だとしてもだ。サァリーディ」
呼ばれた名が、魂の芯で熱を持つ。
巫名にここまでの力を持たせられるのは彼だけだ。本人は知らないであろうその効力に、サァリは痺れる余韻を味わった。指先にまで広がっていく温かさを留めたくて、彼女は青年の手をきつく握る。遠慮がちに握り返されると、いつもと同じ安堵と不安が心の中に広がった。
サァリは渾然とした感情を飲み下して微笑む。
「分かった。気をつけるね」
「一応城に報告しておく。何か分かったら知らせる」
「うん」
話はそれで終わりだと判断したのだろう。シシュは緩んだ指の間から自分の手をそっと引き抜いた。
サァリは離れようとする手をむきになって掴みたい衝動に駆られたが、それをしても彼に困った顔をさせるだけだ。諦めて手を下ろすと、シシュは帰るつもりなのか戸口へ向かう。彼女は慌てて青年の後を追った。
「もう帰るの?」
「ああいう輩が後どれくらい入り込んでいるか分からないからな。軽く見回りしてから宿舎に帰る。巫は早く休んだ方がいい。店の仕事もあるだろう」
「そうなんだけど……」
彼が、目の届かぬところに行くことが不安で仕方ない。
また呆気なく失われてしまうのではないかと思うと、手を放すことが怖いのだ。
シシュは、自分の袖を掴んできた女を目を丸くして見やった。蒼い双眸はうっすらと光を帯びて彼を見つめている。異様とも思えるその眼差しを、だが彼は当然のものとして受け止めていた。そうした上で、彼女の不安を嗅ぎ取る。
「サァリーディ?」
「無理しないで、シシュ。自分の身を大事にしてね」
「分かってる」
「もしあなたに何かあったら、私は全力で暴れるからね」
「…………」
そんなことをされてはこの街がなくなってしまうのではないだろうか。
シシュはどうたしなめるべきか悩んだが、きっと彼女の真意はそこにはないのだ。ただ出征する家族を見送る時と同じく、漠然とした喪失の恐怖に苛まれている。
―――― こんな時、何を言えばいいのか。
命を危うくするようなことはしない、と約束すればいいのかもしれないが、状況によってはどうなるか分からない。守れるか定かではない約束をすることは、余計彼女を不安にさせる気がした。
シシュは王都時代の友人たちが、こういう時どうしていたか振り返る。ぱっと思い出せたのは求婚していた事例だったが、若干間違っている気もするし、娼妓の彼女にそんなことを言っても一笑に付されるに違いない。そうでなくても場違いな申し出で彼女を困らせてしまうだけだ。
彼は無言のまましばらく考えて、結局端的な返答に辿りつく。
「分かった。肝に銘じる」
「うん」
「そう心配しなくてもいい。サァリーディがこうやってついてくれている分、充分に心強い」
彼が偽りのない気持ちを口にすると、サァリは一瞬きょとんとした顔になった。
だがすぐに彼女は赤面して下を向く。迷子のように不安がったことを恥じているのかもしれない。真珠色の小さな歯が、紅の塗られた唇を軽く噛んでいるのが見えた。
気を取り直したのか、サァリはまだうっすらと赤い顔を上げる。
「ね、術をかけた鈴を用意しておくから、明日取りに来て」
「鈴?」
「前に金平糖を撒いて化生を探そうとしたでしょう? ああいう風に、私の血を取り込んだものを触媒を使って探索してみる。探すだけならそんなに力も使わないと思うし」
「ああ、なるほど」
彼女が金平糖を使っていたのは、赤子の姿をした化生を追っていた時だが、化生を探す以外にも応用が利く術のようだ。シシュはあの時の彼女の挙動を思い返して頷く。
「じゃあ俺はその鈴を各所に配置していけばいいのか」
「うん。金平糖だと鳥につつかれちゃうし、鈴だと鳴るように出来るから。私以外にも反応が分かりやすいと思う」
「なら、明日の火入れ頃には取りに来る。それで大丈夫か?」
「大丈夫。ありがとう」
ほっと表情を緩めてサァリは微笑む。
少しだけ不安が和らいだのだろうか。若干憂いが残る眼差しの透明さに、シシュはしばし見惚れた。我に返ると視線を逸らして別れの言葉を述べる。
火を落とした後の月白は、ひたすらに静謐な神の館だ。
裏の鉄門から出たシシュは、主の寝所である離れを振り返って見上げる。
「……やっぱり求婚にすればよかったか?」
そのぼやきに返る答はない。
青年は自分の呟きに呆れて顔を顰めると、月光の差す中を選んで己の寝床へと帰って行った。
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