第98話 変色
たとえ外が戦の真っ最中であり、アイリーデにまでその余波が及んでいても、いつも通り店を開けることには変わりない。
サァリは火の落ちかけた夕暮れ時、慣れた手つきで灯り籠へと火を入れた。浮かび上がる半月を確認して館の中を振り返る。彼女は、床の拭き掃除を終えた下女に命じた。
「花の間を開けてきておいて」
「はい」
いつもなら自分で火入れした後に開けるところだが、最近は火入れと同時にやって来る客もちらほらいるのだ。彼女が主を継いだ当初は、誰も来ない日もままあったのに対し、今は来客の人数自体二割ほど増えている。
もっともだからといって、娼妓たちが勤勉になるわけでもない。彼女たちは火入れの後、ようやく花の間に集まり、自らの選んだ客だけを取る。その人数は以前から変わらないのだから、結論としては娼妓を買えずに帰る客が増えただけのことだ。
そのうちの一人である男が早速門をくぐって現れたのを見て、サァリは笑顔を作る。
「いらっしゃいませ」
現れた若い男は、照れくさそうに頭の後ろを掻いた。
王都の商人である彼は、売り込みに来た先の月白で娼妓の一人に一目惚れしたらしい。だが当の娼妓は彼にまったく興味を持たず、通ってくる彼を袖にしている真っ最中だ。
サァリは来訪頻度だけなら常連とも言える男に頭を下げた。
「花の間でお待ち下さいな。すぐに皆参りますから」
「それが、今日は一人ではないのです。友人を連れてきておりまして」
男は振り返り門の外へと声をかける。
何だか懐かしい眺めに、サァリが微笑したまま待っていると、門の影から長身の青年が姿を見せた。
癖のある金髪に淡い碧眼、彫りの深い顔立ちはこの街では珍しいものだ。
深緑の洋装に華やかな空気を漂わせる彼は、サァリを見つけて大きく目を瞠る。そのまま足を止めてしまった青年を、商人の男が手招いた。
「そんなところにいないで来いよ。主嬢に紹介するから」
「……ああ」
気の抜けた返事の割に、青年は迷いない足取りでサァリの前にやって来る。
主である女は膝を折って挨拶した。
「ようこそいらっしゃいました。北の館、月白の主でございます」
「北の館とは、聖娼の……?」
「正確には少し違うのですが、アイリーデの正統であることは確かです。今、女たちのところへご案内いたしますわ」
サァリは音をさせずに踵を返す。
だがすぐに、当の男がついてきてこないことに気づいて振り返った。
金髪の青年は、その場に立ったままサァリをじっと見ている。商人の男が困惑気味に友人の肩を叩いた。
「どうしたんだよ、行くぞ」
「貴女は娼妓じゃないのか?」
その問いは、サァリがしばしば向けられるものだ。彼女は微笑して疑問に返す。
「わたくしは主でございますから。普通の娼妓とは異なります。ただ娼妓には変わりがありませんので、客を取ることもございます」
「そうなんですか」
驚いたように聞き返してきたのは、前からの客である男の方だ。尋ねた当の青年はじっとサァリを見ている。
その視線に、ちりちりとした熱を覚えて彼女は居心地の悪さを感じた。しかし表面上は変わりなく微笑む。
「取るといっても、一生に一人だけではありますが。そうして次の主を産むのですわ」
「ああ、なるほど……」
月白の主の話は、アイリーデでは常識と言ってもいい話だが、余所から来た客にとっては話の種ともなるものだ。感心する商人の男に笑いかけて、サァリは再び玄関へと向かおうとした。だがそれを、青年の声が留める。
「貴女の客は、もう決まっているのか?」
「いいえ」
珍しいことではない。
十七を過ぎた辺りから、彼女を買いたいと願う客はちらほら現れるようになった。
かつてはそんなことを言い出すのは、幼馴染みだった男一人しかいなかったが、今は違う。
街を行く男たちの目から見ても、サァリは充分に娼妓として通るようになったのだろう。
期待を含んだ視線に、彼女は微苦笑した。
「わたくしの客となられる方には自然面倒事が舞い込みますので。中々決めることが出来ないのですわ」
「面倒事?」
「ええ。花代か命のどちらかを見返りとして頂くのなら、まだいいのかもしれませんが―――― わたくしに限っては両方を頂戴することもございますので」
サァリは艶やかに笑う。
余所の人間には理解しがたいであろう正統の重みが、大輪の花のようにその場の空気を圧した。商人の男が息を飲む。
―――― 神に捧げられる男とは、つまりはそれだけの犠牲を覚悟せねばならない。
彼女の客となる男は、人間たちの中から選ばれた供物であるのだから。
サァリは今度こそ二人を先導して歩き出しながら、小声でぼやく。
「……それにしても私の代だけ、状況が厳しすぎる気がするんだけど」
どうしてこうなったのか、振り返ってみても原因がよく分からない。おそらく単に運が悪い、といったようなものなのだろう。
彼女はそうして花の間まで二人を案内すると、別の仕事に移った。
どの女も選ばずに帰った青年が、しかし再び月白にやって来たのは翌日のことだ。
※ ※ ※ ※
「名前を聞かなかったからな」
人懐こい笑顔でそう言われ、サァリは微苦笑した。三和土の上に降りると金髪の青年を見上げる。
「それは不作法をいたしました。わたくし、月白のサァリと申します」
「サァリ」
噛んで味わうような反芻の声に、サァリは頷いた。
「この街に同名の娼妓はおりませぬから。わたくしの名を出せば月白の主と分かります」
「オレはベントという」
「ベント様、ご愛顧のほどお願いいたしますわ」
婀娜めいて笑いかけると、青年は嬉しそうな顔になる。表裏のないあけすけな感情は、彼より数歳下であろうサァリから見ても、子供のようなものにしか思えない。彼女は内心の苦笑を押し隠して、廊下の奥を掌で指し示した。
「ご案内いたしますわ。お茶をお出ししましょう」
「お茶はいい。貴女を買いたい」
「申し訳ありませんが、昨日も申し上げました通り、わたくしは他の娼妓とは性質を異にしているのです」
―――― さて、どう断ろうかと考える。
昨日の今日とあって予想はしていたが、それにしても羨ましいくらいに率直だ。
そして素面でこのように率直な男は、得てして情が強い。館主としては立ち振る舞いを考えなければならない相手だ。
サァリはそんなことを考えながら青年に向き直る。
「ありがたいお言葉、光栄ですわ」
「なら……」
「ですがここは、北の正統です。その意味は既にご存じかと思いますが」
「昨日聞いた。女が客を選ぶ店だ」
「ええ」
ここまで言えば、アイリーデで遊び慣れた普通の男なら「断られた」と察する。
だがベントは残念ながらそれが通用する相手ではないようだ。サァリは彼の流儀にならって率直に返した。
「わたくしは、あなた様を客としてお迎えするつもりがございません」
「……それはオレが新顔だから?」
「それだけが理由ではございませんが。何ゆえ一人しか客を取らぬ身でございますれば、身軽になれぬのも事実でございます」
事実としては、彼女の客となる男はほぼ決まっていると言っていい。
ただ皆が皆、薄々それを察しながら、事態は一歩手前で止まっている。
それは不安定な世情が原因かもしれないし、サァリ以外の二柱が原因かもしれない。
だが、彼女としては他の男を選ぶ気がないのは確かだ。
たとえ彼の無事を買う為に傍から離すことになったとしても、感情自体は変わることがない。
そしてサァリは、必要とあれば一生でも自分の心を隠して微笑む自信があった。
今もそうして微笑む女に、青年は考え込む目を向ける。
じっと見据えてくる視線を、サァリは物怖じせず受けた。年齢に似合わぬ年月がその細い躰には潜んでいる。
ベントはしばらく直線的に彼女を見つめていたが、サァリの笑顔が揺るがないと分かったのか、ふっと相好を崩した。
「分かった。ならまた来る」
「次は花の間にお越し下さい」
深々と頭を提げて、サァリは足音が遠ざかるのを待つ。
次に顔を上げた彼女が迎えた者は、客ではなく化生斬りの男だった。
現在アイリーデが擁する化生斬りは四人、いずれも癖のある男たちだ。
そのうち最年長である鉄刃は寡黙で実直、自然と化生斬りの代表となりがちで、何か問題があった際、店々に連絡をして回ることもある。
火入れからまもなく、そうしてやって来た男を門前で迎えたサァリは、申し伝えの内容を聞いて唖然となった。
「え……? 何でしょう、それは。化生?」
「いや。違うのではないかと思う。目が赤くなかった。身体能力は人とは思えぬ異様なものだったが。―――― 相手は複数でダナイが重傷を負った」
化生斬りの一人である男の名を挙げられ、さすがにサァリは青ざめた。
鉄刃が持ち込んで来た話は、最近数が多くなっている余所での揉め事絡みのものだ。
お忍びで来ていた他国の貴族を刺客が集団で追ってきた。それにたまたま居合わせた化生斬りたちが割って入ったらしい。その結果、街ではひどい騒ぎになったという。
サァリは形の良い眉を憂慮を込めて寄せた。
「重傷とは。無事なので?」
「命はある。が、あれでは治っても化生斬りに戻れるかどうか。逃げた敵は残る二人が追っている」
「ならば私も―― 」
「巫は外に出ない方がいい。それを言いに来た」
念押しするように鉄刃は重く頷く。そのまま歩き出そうとしかけた男は、しかしサァリの視線を慮ってか穏やかな声音で付け足した。
「あまりにも状況が悪いようであれば新入りは退かせる。巫が身籠もってもいないのに、夫たる客を失わせるようなことはしない」
「あの、誤解があるようなのですが……」
身籠もるどころか、彼とは同衾したことさえない。
半ば恒例に近くなっている誤解をサァリは一応正そうとはしてみたが、実情としては大差ないのだ。
彼が失われることなど、あってはならない。しかしだからと言って、壊れ物のように危険から隔離していい人間でも、それを飲み込んでくれる性格でも彼はなかった。
サァリは一秒の半分ほど考えた。考えるまでもなく口を開く。
「私も参ります」
「巫よ、相手は化生ではないのだ」
「だとしても。アイリーデの事ですから」
この街が荒らされているというのに、主人である彼女が見過ごす訳にはいかない。
いつまでも蚊帳の外にいる気はないのだ。サァリは門に掲げられた月白の半月を見上げる。
「ご心配なく。私が出ます」
誰にも、何にも異論は唱えさせない。
神たる彼女は、そうしてようやく己の館から出て、舞台の上へと踏み出した。
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