第伍譚

第97話 月光



 遠くから聞こえてくるものは妙なる楽の音だ。

 夜の街を彩る弦と笛。人の行き交うさざめきと混ざりあうそれらは、暗い路地にまで密やかに響いて届く。

 だが、月の光の差し込まぬ道を走る男には、その音もまるで異世界のことのように遠く感じられていた。ほどけかけた帯にも構わずにまろびつつ走っていく男は、肉付きのよさのせいかもう呼吸も限界だ。倒れ込むように小さな物置の影へと座り込む。

 男はそのまま膝を抱えて小さくうずくまった。

 ―――― このままやりすごせばいいだけだ。

 追っ手が遠ざかれば、人のいる方へ向かい助けを求めることも出来る。不慣れな街のせいか逃げれば逃げるほど、どんどん人気のない方へと来てしまったが、まだそれほど致命的な状況ではないはずだ。ここは数カ国がぶつかりあう戦場ではなく、いつの時代も泰然と変わらぬ享楽街であるのだから。

「……大丈夫だ」

 己に言い聞かせる声が、つい口から滑りでる。

 男はあわてて口を押さえたが、耳を澄ませても他に声は聞こえなかった。ただ先ほどから聞こえる弦の音が微かに聞き取れるだけである。

 彼はほっと息をつきかけて―――― だがその時、目の前に白刃が現れた。

 頭上から音もなく下りてきたその刃は、彼の鼻先でぴたりと止まる。暗がりからくぐもった声が問うた。

「ザニオアラのタドナス卿だな」

 端的な確認の言葉は、殺す相手を間違えぬようにとのものだ。

 それは楽観的でいたかった男にもすぐ分かり、彼はどう言い逃れれば助かるか、落ち着かなく左右を見回した。

 答えない男に、刃がじわりと触れるほどに近づく。

「異論がなければ―――― 」

「お待ちを」

 制止の声は、鈴の音のように透き通る女のものだ。硬直していた男は目だけを動かしてその姿を探す。姿の見えぬ刺客も同様に動いたのか、刃が僅かに引かれて、男は小さく息をついた。


 女はいつからそこにいたのか、細い路地の先に立っている。

 月光の届かぬ路地裏で、だが彼女の姿は光を内に溜め込んでいるかのようにぼんやりと明るい。

 結い上げられた銀髪に白い着物姿、赤い紅を刷いた美貌は凄艶で、街の空気をそのまま人の形に成したかのように見えた。


 若い女は、青い瞳で二人を睥睨する。涼やかな声が響いた。

「この街でそのような真似はおやめください。外での争いを持ち込んで血を流すとは、いささかに無粋が過ぎましょう」

 刺客を前にしても何ら怯むところのない女の声音は、うずくまる彼の心胆をも寒からしめた。

 おそらくは娼妓なのであろうが、そんなことを言って何とかなる相手ではない。むしろ目撃者として共に殺されるのが落ちだ。


 しかし女は、自分へと向けられる白刃を前にしても、恐れる素振りさえ見せなかった。ただ袖を上げ、白い指先を刺客へと向ける。

「この街から出てお行きなさい。そして雇い主に伝えるといい。―――― アイリーデは、余所の争いには関わらぬと」

 細い指から光る飛沫が飛んだように見えた。

 女に向かって踏みこみかけた刺客は、その光を前にしてたたらを踏む。

 そうして生まれた僅かな隙に、新たな気配が夜の闇の中から現れた。

 白い女を庇うようにその前に立った青年は、抜いた軍刀を右手に提げている。構えずとも、相手を斬り捨てるだけの自信があるのだろう。端正な顔立ちの青年は、刺客と座り込んだままの男を一瞥した。

「何もせず立ち去るのなら、こちらも退こう。ただし巫に刃を向けるつもりなら容赦はしない」

 冷たい声音は、月光を跳ね返す刃によく似ている。

 黒ずくめの刺客はほんの数秒、探るような空気を漂わせて二人の男女を見ていたが、不意に身を翻すと闇の中に溶け消えた。その気配も完全になくなると、男は軍刀を鞘に戻す。

 着物姿の娼妓が、座り込んだままの彼に言った。

「あなた様も、早急にお屋敷へとお戻りになるのがよろしいでしょう。次は止められるとは限りませぬから」

「っ……待ってくれ! 金なら払う! わたしの用心棒に……」

「駄目です。彼は私の化生斬りですから」

 さらりと言い放って、女は踵を返す。

 その隣に並んだ青年は、狼狽する男から遠ざかると、苦い顔を彼女に見せた。

「サァリーディ、あの言い方は誤解を招く……」

「あれ。何か間違った?」

 アイリーデの主人たる女は、頬に手を当て大きく首を傾ぐ。

 無意識での発言なのか、心当たりのなさそうなサァリに、シシュは溜息を一つ落とした。




 ※ ※ ※ ※




 大陸の主要な数カ国を巻き込んだ戦争は、既に始まって半年に及ぼうとしている。

 その間、情勢の波はあれども戦争自体は収まる気配がない。

 この国、トルロニアも王の巧みな采配によって、衝突の渦中からは一歩退いた位置を保っているが、そうしていられるのも時間の問題なのだろう。アイリーデにも、嗜好品の欠品や揉め事の多発など様々な形で戦争の余波が届きつつあった。


 要請を受けた後、月白までシシュに送ってもらったサァリは、夜の庭から細い月を見上げる。客室からは死角になる離れの裏には、昔から朽ちかけた四阿があったのだが、サァリはそれに手を入れて、客未満の青年を招けるようにしたのだ。

 硝子の器に入れられた冷茶を、シシュはいつも通りの難しい顔で手に取る。

「中々状況は芳しくないようだ。他国の信用がおける筋を探して連携を取ってはいるそうだが」

「別の国と? 敵国以外で?」

「違う。その敵国とだ」

「ええ?」

 おかしな話にサァリは目を丸くした。

 戦っている当の敵と連携を取るとはどういうことなのか。混乱顔の彼女にシシュは説明してくれる。

「今回の戦争、巫も把握しているとは思うが、かなり不審なんだ。テセド・ザラスをはじめとして、各国の宮廷内に入り込んで影響力を持っている人間が何人かいるようだ」

「あ、ひょっとして、他の国がそれぞれ違う風潮に染まってるのって、それが原因?」

「おそらくは。あの白い花もその為に使われていたらしい」



 サァリは半年以上前、レセンテからはじめて聞いた話を思い出す。

 隣国の不審を調べようとした際に、他の国々も各々変わった気風に支配されつつあると聞いたのだ。

 その時、いずれ大きな戦乱にまで発展するのでは無いかとサァリは懸念を抱いたのだが、嫌な予感は現実になってしまっている。そこに何者かの作為があると知って、彼女は薄ら寒さを覚えた。



 シシュの手が硝子の器を取る。

「こちらも色々調べてはいるが、どうやら外洋国がこの件には関わっているのではないかという話だ。向こうの人間が手駒をこちらに送り込んで、いいように国を操っているのではないかと」

「外洋国が……?」

 海を隔てた向こうにあるという国は、サァリにとってまさしく遠い世界でしかない。

 王都などには外洋国から入ってきた文化が多数散見されるが、サァリ自身は貴族の間で知られる教養以上の知識は持っていないのだ。

 船でも数ヶ月かかるという遠い国が、何を思ってこちらに働きかけているのか。不可解を面に出す彼女に、シシュは溜息で返した。

「向こうの意図は分からない。こちらも色々調べているが、読めないことも多い。先視や遠視も届かないことがある」

「それって、純粋に遠いから? それとも私みたいな理由?」

「前者であって欲しいと思うが、後者の可能性も否定できない。外洋国からの要人がこちらの大陸に入り込んでいるそうだが、その人物に関してもほとんど見えないそうだ」

「ええ……」

 それは相手も人外を擁しているということだろうか。

 人外絡みでは厄介な懸案を抱えたままのサァリは、他人事ではない気分で硝子の器をくるくると回す。

 シシュの抑えられた声が、石のテーブルに落ちた。

「そういう状況だから、それぞれの国にも自国の異変を憂いて動く人間がいるわけだ」

「あ、その人たちと連携取ってるの?」

「そう。少しずつ状況は改善しつつあるが、まだひっくり返すには足らないと、そういうところだな」

「王様も大変だね……」

 辣腕の若き王に飛び抜けた巫がついているのだから、この苦境にも対応出来ているのだと思うが、それでも厳しい状況であることは確かだ。

 サァリはぼんやりと己の白い指先を見つめた。

「私が何か手伝えたらいいんだろうけど」

「巫が手を出すことじゃない。アイリーデに火の粉が飛んでいること自体申し訳ないくらいだ」

「その辺りはお互い様だと思うんだけど」

 そもそも王弟である彼を傍に借り受けていること自体、サァリは王に申し訳ないと思うのだが、シシュはその性質からいって諜報戦ではまったく役に立たない。嘘をつくのも下手な彼は、ここでサァリを半分守り半分制止しているくらいが丁度いいのかもしれなかった。


 だが、だからと言って彼に関する不吉な先視が拭われたわけではない。

 冷茶を飲み干したサァリは、テーブルに頬杖をついて向かいの青年を見つめた。シシュがそれに気づいてぎょっとした顔になる。

「……なんだ」

「シシュ、十年くらい男の人しかいないところに閉じこもってみない? 損はさせないから」

「意味が分からない」

「いい案だと思ったのに」



 ―――― 人の世は、先視に左右されて揺れ動くことも最初から含んでいるのだという。

 ならば人ではない自分が動くことは、人の本来の道を逸脱させることもありうるのだろうか。



 サァリは器の下敷きにしていた千代紙を手に取る。

 慣れた手つきで丁寧に鶴を折り、出来上がったそれにそっと息を吹き込んだ。

 小さな鶴はよたよたと浮き上がると、精一杯の風情でシシュの頭の上に降りる。彼は鶴を落とさないように、目線だけを上げた。

「力が戻っているのか?」

「波があるの。調子がいい時はいいみたい。勿論、月の満ち欠けの影響もあるけど」

「気持ちは分かるが、あまり練習しすぎるのもよくないと思う」

「うん」

 自分が、危うい存在であるという自覚はある。サァリは簡単に橋を渡ってしまいそうな自身を、苦笑をもって受け止めた。

 そしてその上で、自分を人の側に引き止める一人を見返す。

「ね、いつか全部終わって、のんびり出来るようになったらいいね」

 その時に彼が、何も失っていなければいいと思う。



 サァリは手を上げて鶴を引き取ろうとし、だがその手を青年に掴まれた。思わずぽかんとする彼女に、ばつの悪い視線が向けられる。

「冷えてるかと思った」

「それは……ありがとう」

 体温の残る指から手を離し、シシュはそそくさと立ち上がった。生真面目な彼はこれからまた見回りに戻るのだろう。

 サァリはそのことに不安を覚えて、腰を上げる。

「鶴、連れて行って」

「分かった」

 かぼそい力の糸が繋がっているだけだが、何かあれば分かるだろう。

 サァリは裏門まで出て行って、化生斬りの青年を見送る。

 彼の去った道筋には、彼女にしか見えぬ薄銀の糸が細く長く続いていた。

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