第96話 願い
全てが終わり、日常に似たものが戻ってきた時、月白を訪ねたシシュが通された場所は、主の間ではなく花の間だった。
まだ火入れ前の他に誰もいない部屋。丸テーブルを挟んで座る彼らは、じっとお互いの顔を窺う。
それを不快とも不安とも思わないのは、あまりにも違いすぎる相手と自分との間に、一定の均衡が築かれているからかもしれない。
シシュは美しい女の視線を捉えた。彼女は相好を崩し微笑む。
だがその微笑には、ゆらめく翳が見て取れた。
シシュは自分から口を開く。
「今回の件、色々と迷惑をかけた」
「全然。ありがとう、シシュ。……ごめんね」
はにかんだ女は、もう初めの時のように少女には見えなかった。
たおやかに笑う娼妓。そして、冷徹な巫。―――― 最後に淋しげな神である彼女は、何度も涙に濡れた睫毛を揺らす。
だが、彼女はもう泣こうとはしない。その肩には青い鳥がいないからだ。
シシュは自分の前にだけ置かれたお茶のカップを手に取る。
よい香り、よい茶葉だということは分かったが、今はそれほど飲みたい気分ではない。
ただ彼女が自分の為に淹れてくれたのだから、冷める前に飲もうと思った。
シシュは一口飲んで続ける。
「あれから、俺も色々考えた」
「うん」
「アイリーデでのことで、巫自身のことだ。どうなろうとも巫の決定を尊重しようと思っていた」
自分は、この街では異端者だ。己の価値観を押し通すことがよいこととは思えない。そして、彼女に自分の願望を照射することも、出来ることならしたくなかった。
だからあの時サァリを止めなかった。あれが彼女の選ぶ最善だと分かったからだ。それ以上に、「生き辛くてもここにいてくれ」とは言えなかった。
―――― だが結局、全てを覆して彼女を人の側に引き戻したのは、自分の感情を最後まで譲らなかった男だ。
サァリは、青年の考えを読んだのか苦笑する。
「何がよかったかなんて決められないよ。あのまま私が帰ったなら、少なくともこれ以上の被害は抑えられたと思う。蛇も……数百年は大丈夫だったろうね。そのまま消えちゃったかもしれない」
「向こうの嘘じゃなくてか」
「嘘じゃないと思う。あの時の私にはそれが分かったし。私がいるから、蛇は私を食らおうと残り続けてる」
―――― 人の欲望が、神を食らいたがる。
サァリが語るその話を、シシュは黙って聞いていた。そして納得する。
神の力が容易く人を殺してしまうということ以上に、神を食らいたいと思う欲望を、彼は理解出来たのだ。対面に座る女をシシュは注視する。
艶のある銀髪に小さな白い顔。稀代の細工物を思わせる容姿は清艶で、着物の上からも分かる瑞々しい肢体は男の意識を引いてやまない。
或いは彼女たちが「聖娼」と呼ばれるようになったのは、そのような蠱惑が影響しているのかもしれないのだ。
夜の褥で人に食らわれる女―――― 神と神供のどちらが「捧げられた」ものなのか、倒錯を抱かせるだけの引力を彼女たちは持ち合わせている。
彼女自身が望むと望まないとにかかわらず、その存在に惹かれる人間はいるのだ。
それを欲望でないと言うことは、シシュには出来なかった。
あの時の最善は何だったのか。
言ってもそれは詮無きことだ。シシュはカップの持ち手を握り直す。
「サァリーディ」
「うん」
「俺は、今でも巫の意思を大事にしたいと思ってる。何か別のものの為に巫に無理をさせたくない」
たとえばそれが、自分の感情であるなら尚更だ。
「ただ、巫の望みと意思が食い違うなら、俺は巫の望みを無視したくない。……巫がそう口に出せなくともだ」
欲しがっても口に出せない。そうであるなら別に構わないのだ。
言え、とは言わない。自分が読み取って考えれば済むだけだ。「彼」のように上手く出来ずとも、試みることは出来る。
けれどサァリは、微笑んでかぶりを振った。
「無理しないで、シシュ」
「……無理はしてない」
「大丈夫だよ、シシュそういうの苦手そうだし。フィーの時だってそうだったでしょ?」
「…………」
「大丈夫だから―――― 私が自分で、ちゃんと言うから」
サァリの青い瞳が、真っ直ぐにシシュを射貫く。
澄んで、ひたむきな目。
それはしなやかな強さを備える、美しい娼妓のものだ。
彼女と向かい合う青年は、喉の渇きに似た熱を覚える。
「自分で言う?」
「うん。だからシシュも言ってね。あなたが何を望んでるか知りたいから」
「……あまり言いたくない」
「ずるいよ、それ」
ころころと笑って、彼女はテーブルの上に左手を差し出す。
その手を取って欲しいのだと理解して、シシュは自分の手を彼女に重ねた。
サァリは嬉しそうに彼の指に自分の指を絡める。込められた力と同じだけの熱をもって、彼女は問うた。
「じゃあ、シシュ。もしまた私があの時みたいになって、やっぱり帰りたいって思ったら……私を止める?」
「止めない」
―――― あの時の彼女は、確かに帰還を望んでいた。
今の彼女とは違う、まったき神としての彼女の願いだ。だが、シシュにとってはどの彼女も同じ「サァリーディ」だ。
そこに区別をつけることはしない。彼女の父と同じ轍は踏まない。
喪失を経験した彼女がもう一度同じ選択をする時が来たなら、そして彼女自身がそれを望むなら、おそらく止めることはしないだろう。
それが自身の感情を裏切ることになってもだ。
サァリは答を聞いて、花のように蕩ける眼差しで笑う。
「あなたの、そういうところが好き」
囁かれる言葉は、彼に熱と眩暈をもたらした。
彼女は音をさせず立ち上がると、シシュの隣に立つ。
嬉しそうな、だが何処となく物憂げな目が、彼に注がれた。繋がれたままの手をシシュは握り返す。
女の赤い唇が笑む。
「私、この街が好き。ここで生きていたい」
「ああ」
「あなたのことも好き。でも一緒にいて死なせちゃうなら、何処か遠くにいて欲しいって思う」
「俺は死なない。巫と俺のどちらかしか、生きられないような状況になるまでは」
「その時は自分を優先して」
「……話し合いで決めよう」
「ずるい、シシュ」
神である女は眼を閉ざす。花弁に似た口元だけが微笑んで、それはまた憂いを帯びていた。
シシュは温かな小さい手を握る。
彼女を守って進む先に何があるのか。
ただ喉を焦がすこの感情が何であるのか、今の彼は知っていたのだ。
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