第95話 青白の夢
終わってしまってから悔いることを、人は何度繰り返すのだろう。
まだ若いサァリはそれを知らない。だからただ夢を見る。
「アイド、大丈夫だった?」
サァリが旧知の男にそんなことを聞けたのは、ネレイと金の狼の一件が片付いてしばらく立ってからのことだ。
件の事件に巻き込まれ怪我を負った男はだが、サァリが寝込んでいる間にさっさと王都に戻ってしまったのだという。復調し事後処理を終えてから王都を訪ねた彼女は、寝付いたままの従兄を見舞った後、幼馴染みがどうしているか気になって探してみたのだ。
もっとも探したといっても、連絡を受けたレセンテがアイドを待ち合わせ場所の茶屋に追いやってきただけだ。なんと言いくるめて送り出されてきたのか、指定された個室に入るなり彼は嫌な顔をして回れ右しようとする。それを慌てて追おうとしたサァリは、椅子の脚にぶつかって転んだ。床の上に四つ這いになる。
「いた……」
「何をやってるんだ、お前は!」
男の手が乱暴にサァリの腕を引き上げる。元の通りに座らせられた彼女は、改めてアイドを見上げた。
苦々しい表情の男は、まだ怪我が治っていないのかもしれないが着物の上からはよく分からない。サァリはじっとその全身を検分した。
「怪我、治った?」
「どうしてお前が王都にいるんだ」
会話がまったく噛み合っていない。
それでもサァリが返事を待っていると、アイドは舌打ちして向かいに座った。
「放っておけば治る。お前には関係ない」
「でも、半分くらいトーマのせいでしょ?」
「あの兄貴は隔離しろ。存在が迷惑だ」
「…………」
昔から仲の良くない二人ではあったが、アイドがアイリーデを出てから関係はますます悪化の一途を辿っている。
だがしかし、「仲良くして」などと言える立場でもなく意味もない。サァリは沈黙を保ってお茶を啜った。
無言の時間、立ち上る香りが時間を少しだけ巻き戻していく気がする。
「ごめんね、アイド」
「謝られる筋合いはない。悪いと思うならこんな風に呼び出すな」
「私が訪ねるつもりだったんだけど」
「娼館になど来るな。ここはアイリーデじゃない」
「私だって娼妓なのに」
かつてと同じ、何も出来ない子供のように言われ、サァリは不満の声を上げた。
今の彼女は門前で座り込んでいた幼子ではない。主で、巫だ。そして月白の娼妓でもある。
力不足かもしれないが、神としても二度と今回のような失態はしたくないと思っているのだ。どのような相手であっても屈することがないように―――― 周りの人間を傷つけさせぬようにと、思う。
強い意思を表すサァリに、だがアイドは冷たい視線を向けただけだった。
「馬鹿馬鹿しい。今のお前は自分の役割に振り回されてるだけだ。いい加減目を覚ませ」
「そんなことないもの」
「どうだか。お前はアイリーデに拘っているが、つまりあの街は単なるお前への捧げ物なんだろう? 人間が作ったしきたりに捕らわれてどうする。お前のものならば、捨てることも容易いはずだ。その上で新しい何かが欲しいなら好きに作ればいい」
「……無茶言わないで」
今回のことで彼女の正体を知った男は、今まで以上にアイリーデという街の在り方に冷ややかだ。
伝統全てを捨て去れと言わんばかりの幼馴染みに、サァリは苦い顔でかぶりを振った。何処か疲れたようなその様子に、アイドはお茶を飲み干すと立ち上がる。
「ともかく、自分一人で何でもしようとするな。力があっても使うのがお前じゃたかが知れてる。周りがかえって迷惑する」
「もう迷惑かけないようにするもの」
「出来ないことを言うな。それよりアイリーデを出ろ」
「出ない」
頬を膨らませて、サァリはアイドと睨み合う。
だがすぐに彼女はどうして自分が王都に来たのか思い出し、頭を下げ直した。
「……ごめんなさい。次は巻き込まないようにするから」
彼は、アイリーデを出て行った人間なのだ。
名目としては「追放された」のだが、実際のところアイドはアイリーデを捨てた。サァリはそう思っている。
小さく頭を下げる彼女を、男は険相のまま見下ろした。溜息がテーブルに落ちる。
「いいか、サァリ、お前は娼妓じゃない。街の奴隷でもない。お前は―――― 」
そこで、彼女は目を覚ました。
見開かれた目には部屋の天井が映っている。
いつもの、離れの自分の部屋だ。その現実が、彼女に失われたものを思い出させた。
サァリは仰向けのまま、涙で濡れた頬を拭う。そのまま起き上がれないでいた彼女の額に、不意にひんやりとした感触がもたらされた。
彼女は泣き顔のまま微笑む。
「おはよう、アイド」
硝子の青い鳥に、サァリは指を差し伸べた。白い指先にとまった小鳥は、心配するように彼女の顔を覗きこんでくる。
少しだけ険しくも見える鳥の目元に、幼馴染みの嫌そうな顔を重ねて彼女は奥歯を噛みしめる。ひとりでに溢れてくる涙に、サァリは腕で自分の目元を覆った。声を殺そうとしても小さな嗚咽が漏れる。そんな朝を、もう何度も繰り返していた。
硝子の鳥は、サァリの頬の上に移動すると白い腕に寄り添う。
冷たい感触が、熱を持つ顔に心地よかった。
―――― あの時、言われたことを覚えている。
王都の茶屋で二人で話した時の、別れの言葉を。
彼が誰に聞いたのかは分からない。可能性があるとしたらヴァスかフィーラだろうか。
けれど彼らも本当のところは知らないはずだ。だから彼女はその呼び名を二度目に聞いて驚いたのだ。
「白月の姫って……あなたが呼ぶんだったんだね」
かつて王に呼ばれたものと同じ、古き神の名。
先視で知ったというその言葉を、誰が口にするのだろうとは思っていた。或いはそれは将来の神供ではないのかとも。サァリは泣き腫らした目で微苦笑する。
青い鳥は、じっと窪んだ目で彼女を見つめた。
終わってしまってから悔いることを、人は何度繰り返すのだろう。
サァリはそれを知らない。それでも彼女は振り返る。
彼の死は、他でもない自分に捧げられたものだからだ。
「―――― アイド、ごめんね。行こう」
顔を拭い、身支度を整え、主である女は館に立つ。凜とした佇まいで客たちを迎える。
その肩にとまる鳥は、ほんのつかの間、彼女を慰める為だけに留まる存在だ。涙で目覚める朝が終わる日まで。かつて子供だった彼女の傍にいてくれたように。
「もうすぐ、大丈夫になるから」
サァリは微笑んで、小さな鳥に指を差し伸べる。
隣り合い、離れて歩んできた二人の終わり。別れの朝はそう遠くない日に迫っていた。
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