第94話 結


「誰も遊んでくれないのか?」

 ぶっきらぼうな声が頭上から降ってくる。

 覚えのあるその声に、月白の門前で石遊びをしていたサァリは顔を上げた。

 傷だらけの手足に寸足らずの着物、アイリーデでは手に負えない悪餓鬼で知られる少年に、彼女は目を輝かせる。「一緒に遊んで」とねだりかけて、だが慌てて首を横に振った。

「違うの。遊びたいわけじゃないの」

「なら何をやってるんだ」

「石、かたづけてただけ。お客さまがつまづくと困るから」

 ―――― 自分は、この妓館の主になる人間なのだ。まだ十にならぬ年とは言え、きちんとしていなくてはならない。

 そうである限りにおいて、彼女は我儘を許されている。サァリは周囲の大人の様子から早々にそのことを理解していた。

 だから普通の子供のように「遊んで欲しい」などと駄々をこねてはいけない。

 子供なりに、つんと澄ました娼妓の真似をするサァリに、アイドは呆れ顔になる。

「馬鹿か。そんなもの下女がやるだろ」

「わたしだってやるもの」

「じゃあ休憩しろ。これから釣りに行くからな」

「釣り!?」

 やったことのない遊びの名を出され、サァリは飛び上がる。

 だがすぐに彼女は館を振り返り、逡巡した。祖母がなんと言うか考えたのだ。

 しかしそれには構わず、アイドは小さな少女の手を掴む。

「ほら、行くぞ。釣った魚を運ぶやつが要るんだ。手伝え」

「おてつだい?」

「火入れまでには終わる。お前がぐずぐずしなければな」

 少年は小さな手を引いてさっさと歩き出す。サァリはあわててその隣を駆け出した。月白の門がみるみるうちに遠ざかる。

 繋いだ手は温かい。それは、彼女にとって長らく当たり前のものだった。




 ※ ※ ※ ※




 サァリの絶叫は、半ば以上が声にさえならない力の波となって響きわたった。床を覆う氷が、そして厚く壁に伝った霜が、次々に音を立て砕け散る。

 それは彼女の背後に開いていた穴もを掻き消し、愕然と固まっていたヴァスは我に返ったのかようやく表情を変えた。狂乱しているサァリへと手を伸ばす。

 しかしその手を、シシュの投擲した短剣が防いだ。

 間をおかず駆けだしていた彼は、ぎりぎりで短剣を避けたヴァスを更に軍刀で払おうとする。

 その刃に金の目を返す青年は後ろに飛び退きかけて―――― だが次の瞬間、二人とも横合いからの力に吹き飛ばされた。

 中庭に面した窓近く、亀裂の入った床に叩きつけられたシシュは、全身の苦痛を無視して起きあがる。広間の中央で、サァリが男の体に取りすがって叫んでいるのが見えた。

「どうして……どうして!! なんで、馬鹿!」

 乱暴に肩を掴んで揺さぶられ、だがアイドは目を開けない。サァリの涙が血に濡れた頬の上にぽたぽたと落ちる。

「こんなの! アイド……!」

 彼女は幼い子供のように、しつこくアイドの体を揺すった。言葉にならない嗚咽が洩れる。

 そこには先程までの冷厳さは微塵も残っていない。覆らない現実を前に必死で抗おうとする彼女の姿はただ憐れで、痛ましいだけだった。



 近づくことさえ躊躇われる女の様子に、シシュは思わず絶句する。

 すぐ背後から疲れたような声が聞こえた。

「まったく、参りましたね……。まぁ今は彼に免じて、あなたに預けておくとしますか」

「―― っ、待て!」

 振り向きざまシシュは振り返ったが、そこには誰の姿もない。ただ皮肉げな声だけが返る。

「また、伺いますので」

 不吉な挨拶を残し、人ならざる気配は消え去った。

 シシュはなおも険しい表情で辺りを窺ったが、それ以上声が聞こえる様子もない。

 彼が部屋の中央に視線を戻すと、サァリは男の肩に顔を埋めて伏していた。すすり泣く声が彼の耳にまで届く。

「ひどい……いかないで……」

 かぼそい、迷子に似た呟き。

 無理を知って乞うサァリの顔は、血と涙に汚れきっていた。細い五指が男の肩を掴んで震えている。


 ―――― それは、我儘というには憐れな嘆願だ。口にした時には遅すぎるものだ。


 叶えることは出来ない願いに、けれど応えようとしてか、青白い光が男の体の中からゆっくりと浮かび上がる。両手に収まる程の小さな光の球は、サァリの眼前で留まりその存在を主張した。蛍火のように灯る光を、彼女は顔を上げ、じっと見つめる。消え入りそうな声で問うた。

「アイド?」

 青白い光球は、うっすらと光を強めてまたたく。

 サァリは涙に濡れる目を瞠ると、宙に浮かぶ光へと両手を差し伸べた。かぼそい光は吸い込まれるようにその手の中に収まる。

 彼女は小さな光球を見つめると、大切そうに胸へ抱き込んだ。そっと目を閉じる。

「ごめんなさい……アイド」

 固く食いしばられた口元には、拭えない後悔が詰まっている。

 銀の髪はもう光を帯びていない。

 白い頬を伝う涙は滴となって落ち、音もなく温かい血の中へと溶け消えていった。




 ※ ※ ※ ※




 ※ ※ ※ ※




 鬱蒼とした竹林は日の落ちかけた夕暮れ時、夜に等しい影を細い道に投げかけている。

 いつ通っても静寂を湛えているそこを、シシュは見回りがてら一人歩いていた。月白へと続く道がてら、見舞いで訪ねた友人の言葉を思い出す。


 『俺には出来なかっただろうな』と、トーマは全てを聞いた後に言ったのだ。シシュが彼女の意思を汲んで動けなかったように、トーマは神の決定に逆らえない。だからきっと結果は変わらなかった。そう遠回しに慰められて―――― けれどシシュは、容易く自身を許してしまう気にはなれなかった。

 ヴァスもアイドも、無事だった時を共有していたにもかかわらず、呆気ないほど簡単に失われてしまったのだ。もっと何か出来なかったかと自問せずにはいられない。たとえ自分の性が違う道を選ばせないだろうと、分かっていても。


 ―――― そしてもう一人、後悔の中でもがき続けている女がいる。

 竹林が途切れた頃、月白の門が見える前にシシュは小道を曲がった。雑木林にそって月白の裏門へと回る。

 そこにある小さな鉄門を開けて敷地へと入った彼は、館の中からは見えぬ裏庭にサァリの姿を見つけ、草の生い茂る中を歩み寄った。

 長い銀髪を下ろし白の着物姿の彼女は、シシュに気づくと微笑む。

「いらっしゃい、シシュ」

「ああ」

 何をしていたのか、とは聞かない。

 彼女の足下には、数十羽もの折り鶴が落ちていた。いくら折れども飛ばないそれらは、おそらく単なる手慰みで作られたものなのだろう。

 サァリの肩には一羽だけ、青い鳥がとまっている。

 硝子で出来た小さなその鳥を彼女に贈ったのは誰なのか、シシュは結局話してはいない。言わずともサァリは既に分かっている気がしたからだ。

 彼女が細い指を差し伸べると、硝子の鳥はその上にとまりなおす。うっすらと青く光る鳥を、サァリは目を細めて見つめた。苦みと情愛の混ざり合う声が囁く。

「―――― もう、お行き」

 鳥は、少しだけ頭を傾けて彼女を見つめた。

 培われた時間の重み。サァリは両手で小さな体を包み込む。

「行って。私は大丈夫だから。……ありがとう」

 重ねての言葉に、鳥は僅かに頭を垂れる。その背から浮き出した薄青い光球は、一度サァリの頭上をゆっくりと回ると、夕暮れの空へと舞い昇り始めた。

 彼女はその光を見上げて謳う。

「よき母のところへお行き。あなたの生に、尽きることのない恵みと護りを、私は贈ろう」

 呪は、力となり遠ざかる光を追う。

 光の周囲を巡り導く神の言は、そうして光球を庇うように取り巻くと、共に夕闇の中、南の方角へと遠ざかっていった。

 サァリは光が見えなくなると呟く。

「幸せになって」

 そうして彼女はまた、目を閉じて泣いた。



 後悔の中でもがいている。

 己に出来ることと、出来ないことの間で。

 だがそれでも、覚悟がないわけではないのだ。シシュはそのことを知っている。

 彼女を引き留める為に死を選ぶことは出来ずとも、彼女を守る為ならば命を賭けられる。

 ただ、出来るならこれ以上彼女を悲しませたくないとも、思った。



「サァリーディ」

 涙を拭った彼女が顔を上げるのを待って、シシュは右手を差し出す。

 サァリはそれを見て少し微笑むと、白い手を重ねた。二人は夕闇時の庭を歩き出す。

 かすかに震えている手は、ほっそりと頼りないものだ。女はもう片方の手に硝子の鳥を握りながら囁いた。

「ね、シシュはちゃんと生きてね」

「巫がそれを望むなら」

「いつも望んでる。……望んでたよ、ずっと」

 詰るように、濡れた声でサァリは笑う。

 小さく温かい手。その手を取るシシュは黙って頷いて、ただ彼女を引いた。

 空に浮かぶ月は、いつの間にか失われた形に欠けていた。



 【第肆譚・結】

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