第93話 絶氷
月白の門前に辿り着いたシシュが真っ先に感じたものは、肌身に刺さる静かな威圧だ。
人ならざる存在を前にして受ける圧力、今まで幾度も経験してきたそれに、彼は軽く息を止める。
サァリ一人がこの気を発しているのだという可能性もあったが、シシュはそこまで楽観的な性格ではない。彼は二羽の鶴を落ちないよう懐にしまうと、左手に軍刀を抜いた。門をくぐり誰の姿もない石畳を進んでいく。
見たところ下女の姿はない。火入れの時間も迫っているが、誰かが玄関に現れる様子もない。
三和土に足を踏み入れたシシュは靴を脱ごうか迷ったが、花の間から漏れ出す空気にそのまま上がることを決めた。万が一何もなかったら後で自分で床を拭こうと考え、足音を殺す。
進むごとに変わっていくものは、周囲の温度だ。氷山から吹き付けてくるような冷気が足下を撫でていく。
―――― 少しずつ、神の領域に踏み込んでいる。
そんな幻想が頭の中をよぎったが、あながち間違いでもないだろう。シシュは、自分の吐く息さえもが場を汚している気がして口を閉ざした。
だが、進まぬ訳にはいかない。
一歩を踏み出すだけのことに全身の力を使いつつ、彼はついに突き当たりの扉の前へと立つ。
霜がびっしりと張っている扉の合わせ目を見て、シシュは最悪の事態を想像しかけた。
「いや……違うか」
冷気が強いということは、サァリが生きているということだ。それならば少しも最悪の事態ではない。第一ヴァスが本当に乗っ取られているのだとしても、その目的は彼女を連れ帰ることなのだ。彼女を傷つけることが目的ではない。
シシュはそう自身に言い聞かせて扉に手をかけた。軋む音を立てて花の間が開かれる。
流れ出す冷気に、彼は刀を握る左手で顔を庇った。
そしてその手を下ろした時、シシュは絶句する。
―――― 石室にいるのかと思った。
思わずそう錯覚してしまう程、花の間は元の姿を留めていなかった。
天井も床も全てが凍りついて沈黙した部屋は、既に人のいるべきではない場と化している。
立っているだけで肌を切られそうな空気は、だがそれでも澄み切って静かであり、シシュは自分が礼儀を弁えない異物であることを悟った。
広間の中央に立つ青年が、彼に気づいて苦笑する。
「まったくあなたは間が悪いですね。それとも間がいいと言うべきでしょうか。別れの挨拶には間に合ったのですから」
ヴァスはそう言って、向かい合う少女を目で示す。シシュに背を向け立っている彼女は長い銀髪を下ろしており、その髪自体が月光に似た光をうっすらと放っていた。
シシュは目に見えるものを全て飲み込むと、覚悟を決める。
迷っている時間はない。彼は軍刀を鞘に戻すと、自由になる左手を彼女へと差し伸べた。躊躇わず足を踏み出す。
「サァリーディ、迎えに来た」
遠い、と感じる。
だがそれは当たり前のことだ。彼女と自分とは違う存在だ。
そのことを知っている。飲み込んで受け入れている。
だからこそ迎え入れるのだ。初めの神を識った人間がそうしたように。
ただ今のシシュは、それでも嫌な予感がしてならなかった。
少女は首だけで振り返る。青い瞳は月光と同じく淡い燐光を帯びていて、彼は内心息を飲んだ。
サァリは笑いもせず返す。
「そう? ―――― でもいいの」
赤い唇に霜がかかる。
彼女の吐く息は全てを拒絶し、眠らせていくようだ。
そこに感情はない。シシュは月そのものであるかのような美しい女に、それ以上の言葉を失った。薄く光る彼女の双眸を見ただけで分かったのだ。彼女がヴァスの変貌を知っていることと、理解した上で己の道を決めたことを。
彼女の前に立つ青年が、自身の背後へと左手を向けた。冷え切った空間がゆらりと歪む。そこに暗い大きな穴が開くのを、シシュは信じられない思いで見つめた。
神となった青年は、サァリの手を引く。
「では帰りましょうか。忘れ物は……と聞きたいところですが、意味はないですね。肉体さえもなくなりますから」
「っ、待て、サァリーディ!」
呼び止め、駆け出しかけた彼を留めたのは、振り返ったサァリの目だ。
透き通る一瞥で彼を止めた彼女は、溜息が出るほど繊細な造作に、一滴の感情も加えることなく口を開いた。
「無理だよ。私もう、戻り方が分からない」
「戻らなくていい。そのままでいればいい」
それでも構わないのだ。
彼女が選んだ。そして彼女であることには変わりがない。
だから無理をする必要はないのだ。そう言う彼に、虚ろな双眸が向けられた。
言葉なき時間を含んで、彼女は真っ直ぐにシシュへと返す。
「でもね、シシュ。―――― シシュなら分かってくれるよね?」
何のことを指しているのか、言われずとも分かった。
彼は喉奥の苦さを嚥下する。言葉になるかもしれなかったそれは臓腑に落ちて溶け、代わりに肯定だけが言の葉になった。
「……分かる」
いつからだったか。
おそらくは彼女が体温を失った頃だ。
彼女は何処か遠くを見ていて、不安そうで、それでいて全てを飲み込むように諦めていた。
生き辛いと、美しい姿が引く影が嗤っていたのだ。穏やかに主として微笑みながら、人として振る舞うことに倦んでいるようだった。
矜持をもって背を伸ばしながら、だが今の彼女はあまりにも人から遠い。人でいることに疲れているのだ。
そのことが、アイリーデの人間ではない彼にだけは分かった。
余計な期待を彼女に負わせない。
他の誰が彼女に、責任と毅然を求めようとも、自分だけは彼女のあるがままを受け入れる。そうしたいと思ったのだ。
だからシシュは頷いた。サァリはそれを聞いて、ほんの少しだけ唇の両端を上げる。
「ありがとう、シシュ。ごめんね」
彼女は最後の息を吐いて背を向けた。ヴァスに手を取られ穴へと踏み出す。
その姿に焦燥を覚えるシシュの肩に―――― だが後ろから唐突に手が置かれた。
「状況を説明しろ」
言いながら隣に並んだのは、着物のあちこちを血で染めたアイドだ。
ミフィルに言付けた警告を聞いたのかどうか、シシュは分からないながらも質問に返す。
「ヴァスは……金の狼に飲まれたのだと、思う。サァリーディは完全な神になった。だから彼女は、人の世を去ることを選んだ」
推測が多分に含まれているだろうが、そうとしか言いようがない。
ディスティーラのことも蛇のことも、サァリはきっと考えた上でこの結論に至ったのだ。そして変わってしまった従兄のことも。
考えて飲み込んで、彼女は決めたのだろう。そのことがシシュの胸に杭を打ち、足を止めさせた。
どうして引きとめようとしないのか、きっと呆れられるだろう―――― そう思っていたシシュは、だがアイドが「分かった」とだけ答えたことに驚いた。
怪我のせいか軽く足を引きずって、男はサァリの背へ歩み寄る。
それに気づいた彼女が振り返ると同時に、ヴァスが剣を抜いた。左右に帯びていた鞘のうち、ずっと抜かれないままであった一振り、いつもの突剣ではない直刃の剣がアイドに向けられる。研がれた刃に、いつかシシュが見たものと同じ金色の光が走った。
「あまり近づくと危ないですよ。巻き込まれますから」
接近を警告する刃は、アイドの鎖骨の下、既に負っている深手と同じ場所に向けられた。
アイドはだが、そんなものなど存在していないかのようにサァリを睨む。硝子に似た女の目が彼を見上げた。
時が停滞して思える一秒。男の声が氷室に響く。
「本性に捕らわれるのはやめろ、サァリ」
青い硝子の鳥。
兄がくれたのだと、彼女は言っていた。だがそれは違うのだとシシュは知っている。
素直になれず諦めてしまった彼女に、何も言わず硝子の鳥を贈ったのは彼女を見ていた幼馴染みだったのだ。
アイリーデという神の街で、隣り合いながら違う道を生きた彼らは、自分たちが思うよりずっと相手のことをよく見ている。
だからアイドは聞かずとも分かるのだ。彼女が何を欲しがっているのか、助けを求められずに沈黙している時も。
サァリは少しだけ困ったように首を傾げた。
「アイド、これが私だよ」
「ならそれがお前の望んだことか? 違うだろう。この街に……自分に縛られて生きるのはやめろ。お前の生きたいように生きろ」
男はそう言って一歩踏み出す。向けられた切っ先が心臓のすぐ上、血濡れた着物に食い込んだ。
ヴァスは眉一つ動かさず、剣を引く気配もない。サァリが空洞の目を男に向けた。
「危ないよ、アイド」
「そう思うならさっさと戻れ。これ以上手を焼かせるな」
「戻れない。どうすればいいか分からないし」
淡々と返す彼女はだが、僅かに困惑しているようにも見える。
人としての振る舞い方を失ってしまった彼女は、異種そのものの目でアイドを見上げた。
断絶を思わせる冷気。彼は月光の如く光る双眸と、その背後にあけられた穴を視界に入れる。
溜息はない。
忌々しげな悪態も、そこにはなかった。彼の視線はただ一人の女にだけ向けられている。
アイドは白銀を纏う神へと告げた。
「サァリ……オレがお前の尻拭いをするのは、これが最後だ」
そして彼は、一片の迷いもなく歩を踏み出すと、腕を伸ばし細い体を抱きしめた。
その光景に驚いていなかったのはアイドただ一人だったろう。
シシュは一瞬の予感に止めかけた手を上げたままで、ヴァスもまた愕然とした表情で固まっていた。
男の腕の中にいるサァリは大きな目を見開いている。彼女の白い着物に、直刃の剣から滴る血がぽたぽたと垂れた。
胸から背までを貫通した剣に、けれど男は微塵も表情を変えない。静かな声をサァリに降らせる。
「お前の周りにいる男は、気の利かない人間ばかりだ」
深い息。
薄い背を支える手に霜が走る。サァリは唇をわななかせる。
「だから、ちゃんと言え……欲しがってやれ。飲み込んで泣くような、みじめな真似をお前にさせるな」
男は、顔を寄せると艶やかな銀髪に口付けた。そうして腕を解く。
僅かに離れた体の間で、金の刃がとめどなく溢れる血に濡れているのがシシュの目にも見えた。
みるみる広がる赤に吸い寄せられていた彼女の視線を、アイドは震える手で上向かせる。子供の顔の泥を拭うように、固い指がサァリの頬を撫でた。強い郷愁が彼女を見つめる目に溢れる。
「……サァリ」
失われたものを呼ぶ声。
捧げられた熱が、染み込んで彼女を濡らした。
それ以上はない。
掠れた吐息を残して、アイドの体は崩れ落ちる。
薄氷の上に広がっていく血溜まりを、そして永遠に閉ざされた男の目をサァリは見下ろした。限界まで見開かれた青い眼に、感情の漣が走る。
彼女は震える両手を己の髪の中に差し込んだ。
「あ……」
小さく喘いで、サァリは立ち尽くす。
次の瞬間―――― 神の室には、壊れた絶叫が響き渡った。
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