第92話 一滴
刀傷のある服と聞いて引っかかりを覚えたのは、それがシシュ自身の記憶を刺激したからだ。
ある晩襲ってきた黒衣の男、ネレイの次の傀儡である誰かは、シシュと斬り合って以来姿を見せなかった。そのことがどこかで気になっていたのだ。
「キリス様、いかがなさいました?」
完全に足を止めてしまった彼を、ミフィルが覗きこむ。
その声で我に返ったシシュは、事態の不味さに青ざめると顔を上げた。一瞬迷ったが彼女に言付けを頼む。
「アイドに……隻眼で着物の化生斬りを見かけたら、ヴァスに注意するよう伝えてくれ」
「え? ええ……分かりました」
「俺は月白に戻る」
肩にとまる二羽の鶴が落ちないように押さえて、シシュは踵を返した。ミフィルの返事を待たず走り出す。
頭の中を多くの疑問が駆け巡ったが、それらの大半は空回りするだけでシシュ自身にも認識出来ない。ただ「いつからそうであったのか」という強い焦りだけが何度も意識の中央に去来した。シシュは来た道を戻りながら、ここ数ヶ月の記憶を辿る。
―――― いつから変わってしまったのか。
少なくとも顔を隠して襲ってきた時は既に、ヴァスは神の影響下にあったのだろう。
ならばと遡って考えたシシュは、けれどすぐ答に突き当たった。
「……あの時か」
前回二人で金色の狼に相対した時、ヴァスはシシュを庇って狼に食らいつかれたのだ。
体に外傷はなかったが、あの後長い間彼は伏せっていた。その間少しずつ存在が侵食されていったのかもしれない。サァリも気づいていないようだったところを見ると、相当慎重に、そして周到に動いていたのだろう。
シシュは気づかなかった自分を心中で罵り―――― それ以上に、ヴァスが取り込まれてしまったかもしれない現実に歯噛みした。
ウェリローシアの青年は、いわばシシュの身代わりになったようなものなのだ。あの時噛まれたのが自分であったら、今の立場も逆転していただろう。
「まずサァリーディに相談して……」
彼を元に戻せるか、対策を練らねばならない。
シシュはけれど、その先までも考えて渋面になる。
ネレイの時は戻せなかったから殺した。だがヴァスが同様の状態であった時どうすればいいのか。
明らかな答を否定するようにシシュは走る速度を上げる。
夕暮れに近づきつつある空は雲一つなく、明るさを失い澄んで深い青へと変わりつつあった。
※ ※ ※ ※
―――― 従兄の変質に気づけなかったのは、自分の願望が影響していたからだろうか。
金色の双眸を見ながら、サァリはふとそんなことを考える。
本当なら、真っ先に疑っていてもよい可能性だったのだ。だが彼女はそれを考えなかった。無意識の内に避けていたのかもしれない。サァリは冷たい息を細く長く吐き出す。
「さすがに驚きますし……落ち込みますね。むざむざ血族をあなたの手に渡してしまうとは」
「おや、私がまるで別の人間になってしまったかのように言うのですね」
「違うのですか?」
彼を見る目に、期待がなかったわけではない。
だがサァリはすぐにその期待を放棄した。小さく首を横に振る女にヴァスは苦笑する。
「ともかく、話の要旨は理解したのでしょう? 以前はとんだ決裂に終わりましたからね。今回はあなたの意に出来るだけ添えるように調整しましたよ」
「ディスティーラのことですか」
「それ以外のことも。欲しい情報に困ったことはないでしょう」
「ええ」
テセド・ザラスについても、彼は充分過ぎるくらいの情報を回してくれていた。サァリの考えることを先回りしているかのように細やかに手を回してくれたのだ。それがけれど、どういう力と意図によって為されたものなのか彼女は知らないままだった。
―――― 今となっては、ただ愚かなだけだ。
取り戻せなくなってから気づく。いつもいつもそうだ。
サァリはうっすらと微笑む。
「他の人間に操作を?」
「していません。不要のものでしょうし、あなたを怒らせたいわけではないですから」
「怒るなんて」
そんな感情は、とうに摩耗してしまった。
以前の自分がこんな時、どのような反応を示していたかもう分からないのだ。
サァリは曖昧に笑って、だがその表情をもすぐに消す。虚飾が必要な相手ではない。一人の時と同じく無為でいられるのは、存外楽だった。
彼女は結い上げてある銀髪に手をやると、黒柘植の簪を引き抜く。人の振りをする為の装いを剥がして、息が軽くなるのを感じた。
サァリは頬にかかる髪をかき上げる。
「それで? 私の意を汲むというのなら、私がここから離れられない理由も知っているでしょう」
「地に眠る蛇ですか。勿論考えていますよ。その為にディスティーラの力を削りましたから」
青年は血濡れた左肩を一瞥する。深手を負ったように見えるが、今の彼なら傷を治すことも容易いはずだ。服の下は既に元通りになっているのかもしれない。
ヴァスはまだ、いつもの彼自身であるかのように淡々と説明した。
「彼女を削った力が地に染み込みましたからね。しばらくは蛇を押さえられるでしょうし、彼女自身もあれだけ弱ればやがて溶け消えます。そうなれば存在の残滓が蛇と相殺しあって数百年は持つでしょう」
「数百年? その後はどうなるのです」
「徐々に戻るかもしれませんし、蛇はいなくなったままかもしれませんね。ただ人間がいる限り、いつでも蛇のようなものが生まれる可能性はあるのですよ」
「人間がいる限り……?」
それはどういう意味なのか、眉を寄せるサァリに青年は辛辣な微笑を見せた。その指が床を、更にその下を指さす。
「いいですか、化生というものはそもそも人がいるからこそ生じているのです。人が人の器に収まりきらない程抱いた欲望や感情が、宙を漂い、やがて集まって化生となる。―――― 蛇とは、この地に棲まう神が年月をかけ無数の化生に蝕まれた結果の産物です。エヴェリ、人の欲望は……神を食らうのですよ」
かつてこの大陸がただ一つの古き国によって支配されていた頃、北の岩山には一匹の大蛇が棲んでいた。
深い眠りについていた蛇はある日、目を覚ますと天に輝く太陽を飲み込もうとしたのだ。
伝承にある蛇の鱗は蒼色、だがサァリの前に現れたのは影を濃くした黒い蛇だ。その違いを彼女は、一度祖である神によって殺された為だと思っていた。
サァリは初めて聞く話に軽い驚きを覚えて、青年を見返す。
「化生が人の欲望で、蛇はそれに蝕まれたと? 本当の話なのですか」
「ええ。あなたたちは存在は受け継がれても、知識が受け継がれる訳ではありませんからね。しかし今のあなたなら意識を研ぎ澄ませれば分かるはずですよ。蛇とは、この地の神を人の情念が食らった結果だと。そして人はそれに留まらず、蛇を動かし『私』を食らおうとした。もっとも……実際に食らわれたのはあなたの方ですが」
太陽を食らおうとした蛇は、召喚された月の神によって殺された。
そしてそれからというものの、彼女たちは永く人と交ざり生き続けている。それを「食らわれた」と言うのは、外に居続ける彼から見たら無理のないことなのかもしれない。
サァリは物憂げに口の両端を上げた。
「私が人の欲望に食らわれているから、連れ戻そうと?」
「これ以上、人間に付き合う必要もないでしょう。神が容易く人を害するように、人は底無しの欲望をもって神を食らおうとする。不毛な共存をこれ以上続けることに意味はないと、私は思いますが。むしろあなたを必要としているのはこちらの方です。いつまでもあなたという存在が欠落していては、落ち着かないことこの上ないですから」
もう分かっているのだろう、と金の目が問う。
サァリは何も言わない。青い目を閉ざして、彼女は沈黙を保った。
人を殺す神と神を食らう人。
向かい合い、互いを飲み込もうとするそれらは、貪欲な蛇そのものだ。
まるで不毛に絡み合いながら、いつまでも終わることなく続いている。
―――― 神が産む娘もまた、血によって薄められぬ神であるからだ。
花の間に流れる空気は、人の世とは相容れぬ温度のないものだ。
神の室と変わらぬ静謐に、青年の声が二重に響いて聞こえる。
「何か言いたいことがあるなら聞きますよ、エヴェリ」
そのような口ぶりは以前の彼と同じだ。サァリは虚ろに変じかけていた意識を引き戻す。少し顔を傾けて青年を注視した。
「シシュを襲ったのはどうしてです?」
「ちょっとした好奇心です。彼の腕がどれ程のものか試したくなりまして」
ばつが悪そうに肩を竦める青年の目には、けれど悪いと思っている様子は見られない。本当にただの好奇心なのだ。
サァリはその答に憤りを覚え……だが感情そのものが、たどり着くまでに冷え切ってしまうほど遠かった。
―――― おそらくここで声を荒げて怒れない自分はもう、駄目なのだ。
彼女は冷たい指をそっと握り込む。自分に失望している自分を、まるで他人事のように眺めた。
「ヴァスは……あなたの意識に残っているのですか。あなたは変わってしまっただけで、ヴァスのままなのですか」
それとも、人ならざるものが彼に似せてその振りをしているだけなのか。
サァリが問うと、青年は楽しそうに笑う。
「どうでしょう。どちらだと思いますか? 私があなたの従兄であるなら素直に帰る気になりますか?」
「…………」
「それとも逆でしょうか。あなたは『私』を嫌っていたようですから」
棘のある言葉を語る青年の顔は、けれどその内容とは裏腹に曇りのない笑顔だ。
サァリは自身も微笑する。
「ヴァスはこういう時、よく左目だけを細めて私を見るのですよ」
それは、すっかり見慣れてしまった彼の癖だ。険のある表情を懐かしく思い出してサァリは目を閉じる。
おどけたような相手の声が聞こえた。
「ああ、そうだったのですか。失礼しました。記憶は全て引き継いだはずなのですが、不可分な程に取り込んでもまだ違うとは、人間は難しいですね」
「ええ……」
人間は、難しいのだ。人の中で生まれ育った彼女でさえ、上手く出来なかったのだから。
サァリは熱くなる瞼を押さえる。
それは冷えた体の中で唯一熱を持つ部分だ。そして最後の感情が詰まったそれを零してしまったのなら、自分にはもう一滴の熱もなくなる。
だから彼女は涙を飲み込んで顔を上げた。青い燐光を帯びた瞳で、失われてしまった血族を見つめる。
―――― 取り込まれた彼は眠っているのだろうか。それとも溶けて消えてしまったか。
どの道、詫びることはもう出来ない。出来るのは共にいることくらいだ。人ではない兄妹の一対として。
「帰ります。あなたと一緒に」
差し伸べた手を、彼は恭しく取る。
触れた指先は彼女と同じ、何処までも温度のないものだった。
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