第89話 恐怖



 ディスティーラの宣言と同時に発されたものは、圧倒的なまでの存在の威だ。

 いつかも金色の狼を前にして感じたもの、立っていること自体が苦痛なほどの圧力に、シシュは吐き気さえ覚える。

 だがそのままうずくまり、後ずさるような真似は出来なかった。

 それをしては魂から彼女に屈服することになる。人として、神の前に立つことは出来なくなるだろう。

 だから彼は、全身の力をかけて一歩を踏み込んだ。左手で鋼線を引く。

 凍りついていた時間が、それをきっかけに動いた。

「―― っ!」

 吐く息と共にシシュは右手に軍刀を抜き直す。背から引き寄せられたディスティーラが軽く瞠目して彼を見たのが分かった。左手に神殺しの刃を握っていた彼女は、その手をあっさりと離すと自身の背に手を回す。刺さっていた短剣を透き通る手が掴み、鋼線が弾け飛んだ。ディスティーラは抜いた短剣を、追いすがってきたアイドへと投擲する。避けられぬ距離からの攻撃、鎖骨の下へと深く突き刺さった剣に、男は呻き声を上げて体を折った。

 シシュはその間にも更に進んだ。忘れられた神へと刀を向ける。

 ディスティーラは美しく微笑んだ。

「何故、恐れない?」

 その問いを、聞いたと思ったのは気のせいだったのかもしれない。

 次の瞬間シシュが見たものは、自分の頭をもぎ取ろうとする少女の手だ。

 神の手に慈悲はない。彼女たちは何処までも人ではない。

 ほんの刹那で、彼は死を理解する。そして何も思うことはない。

 ディスティーラの愛らしい顔が間近に迫った。水そのもののような手が、彼の前髪をかき上げる。

「―――― 恐れろ」

 触れあう程の距離から覗きこんでくる青い瞳。

 彼の精神はその眼差しで無造作に、底無しの恐怖へと放り込まれた。




 闇の中に立っている。

 何も見えない。見えるのは離れた場所に佇む、首のない幼子だけだ。

 赤い晴れ着を着た子供は、シシュに背を向け立っている。その体だけは不思議なほどくっきりと暗闇の中で浮き立って見えた。童女らしい子供は、ゆっくりと両手を前後に振っている。

 空気はやけに生ぬるい。

 何処か遠くからは、舌っ足らずな声の童歌が聞こえてきていた。音の傾いた歌の出所を探して、シシュは辺りを見回す。

「何だ……?」

 暗い周囲にはだが、やはり何もない。

 視線を戻した彼は、ぎょっとして思わず声を上げそうになった。

 いつの間にか赤い晴れ着の子供が、彼の目の前に立っている。切り取られた断面はぬらぬらと光って蠢き、そこだけまるで別の生き物のようだ。

 愕然と凍りつく彼に、子供は青白い右手を差し伸べてくる。耳のすぐ後ろで大人の男の声が歪んで笑った。

「あそぼう」

 生臭い囁きに、シシュはぞっと戦慄する。

 振り返ることは何故か出来ない。体が動かない。

 ただ背には見られている、という感覚が如実にあった。何者かの吐息が首筋にかかる。

「あ、そぼお」

 いつの間にか調子はずれの童歌が大きくなっている。ぐぁんぐぁんと頭の中に響く音に、シシュはこめかみを押さえた。

 引きつったような笑声が背後から聞こえる。目の前の子供に首はない。だが「笑んでいる」ということは分かった。全ては笑っている。恐れているのは彼だけだ。シシュは声にならない息を嚥下する。その時、ぐにゃりと足下がたわんだ。

 飲み込まれていく感触に彼が地面を見やると、いつの間にか辺りにはおびただしい量の臓物が広がっている。赤黒い腸の隙間には黒い虫が列をなして這っており、その行列は、遠く地平の果てまで広がっているようだった。

 知らぬうちに暗闇は消えている。遠くまで見渡せるようになった異界の景色を、シシュは呆然と眺めた。

「―――― ここは、なんだ」

 空はない。

 見渡す限り広がる臓腑は、遥か果てから壁のように迫り上がって世界全てを包んでいる。その全てはゆっくりと蠕動し、そこかしこに虫が従順な行列を形作っていた。笑い声が、天の襞を震わせ血を滴らせる。

「あそぼぉ」

 期待に満ちた荒い息が肩にかかる。首のない子供が、晴れ着の袖を上げた。膨らんで青白い手がシシュの服の裾を掴む。

 鮮やかな赤に埋め尽くされた視界。切り落された首から湧く虫が、死した子の手を伝ってシシュの体を上り始める。



 歌が聞こえる。

 シシュは目を閉じる。

 ゆっくりと、体が臓物に沈んでいく。首筋を這う虫が次々耳の中に入ってきて、内耳で細かく羽を震わせた。ぶよぶよと弾力のない指が、彼の手を取り指を絡める。

 何も考えられない。

 息が出来ない。

 重みのままに落ちていった先―――― そこには、人ならざる深淵が広がっていた。




 ※ ※ ※ ※




「……シシュ?」

 ぽつりと呟いた名は、彼女自身の意思によるものではなかった。

 まるで自然に滑り落ちた言葉に、サァリーディは首を傾げる。三和土に下りていた彼女はぐるりと辺りを見回した。外で掃き掃除をしていた下女と目が合う。

「主様? 如何なさいました?」

「……何だろう」

 一瞬、おかしな気がしたのだ。耳元で存在しない虫の羽音が聞こえた気がした。

 サァリは右耳に手を当てて頭を振る。入り込んでしまった何かを振り落とすような素振りは、けれど彼女に何の確信も与えなかった。サァリは生けられた花に視線を止める。

「ね、シシュが近くにいる?」

「見て参ります」

 竹箒を手に門へと向かった少女は、道に顔を出し道の左右を確かめた。

「―― いらっしゃらないようですが」

「そう。ならいいの」

 ぼんやりとする頭を振って、サァリは上がり口に戻る。

 今日は火入れ前に来客の予定があるのだ。いつまでも白昼夢に似た錯覚に煩わされてはいられない。彼女はかぶりを振ると、自分と下女以外誰もいない景色を視界に入れた。少し前に建て直した門を眺める。


 ―――― 何か大事なことを、忘れてしまった気がする。


 それが何なのかは分からない。変質したとは言え、記憶が失われているわけではないのだ。

 ただ「失った」という感覚だけがある。郷愁に似たそれは、おそらく気のせいなのだろうが、ふと振り返ると目の前に空いている穴を思わせた。

 サァリは冷たい息を吐き出す。

「そういえば……」

「いかがいたしましたか、主様」

「いえ。私も子を産まねばならないのは変わりないと思って」

 合一の為の神供が不要となったとはいえ、後を継ぐ巫は必要なのだ。

 その為には彼女も客を取らなければならない。人の営みが遠く感じられるせいか、すっかり失念していたことを思い出し、サァリは首を捻った。人の体温ではない指を眺める。

「でもどうしようかな」

 今のこの体では、客になる男を驚かせてしまうだろう。一人しか選べないのにその一人に逃げられてしまったら困る。まるで母親の二の舞だ。


 ディスティーラという巫名を持っていた母について、祖母はサァリに詳しいことを教えなかった。

 その名を初めて聞いたのはシシュの口からだ。更に後からトーマが、神性を切り捨てた母のことを話してくれた。聞くまではまさかそんなことが可能だとは思っていなかったが、母はそれ程までに父に執着していたらしい。サァリはその思いの強さに素直に感心し、また「理解しがたい」とも思った。そんな彼女から生まれた自分が人を拒絶し独りで合一したことに、運命の皮肉を覚える。

 ―――― ならば自分は、これからどのような運命を辿るのか。


 竹箒を抱えた下女は、頬をうっすらと染めてはにかんだ。

「主様ならば、どのような方でもお好きに選ぶことができましょう」

「それが誰を選んでも逃げられそうなんだけど……」

「シシュ様がいらっしゃいます」

 即答されたのは、おそらく先日の一件のせいだ。あの時青年の啖呵を目の当たりにした下女は、彼の愚直さにいたく感じ入ったらしい。この街では無粋とも言われる彼の性質だが、その誠実さが全てを貫いて女の心を捕らえることもあるのだ。自身もそうだったサァリは微苦笑した。

「シシュは駄目」

 神供になってもいいと言ってくれた彼ならば、この体であっても飲み込んで抱いてくれるだろう。

 だがそれでは駄目なのだ。彼を死なせたくない。

 以前からずっとそう思っていた。―――― だが、彼を死においやるのは、結局のところ自分自身だったのかもしれない。

 サァリは、不思議そうな顔をする下女に軽く手を振ってみせる。

「まぁ、何とかなるでしょう」

 いざとなったら血族であるヴァスに頼めばいいのだ。さぞかし嫌な顔をされるだろうが、あれだけウェリローシアを捨てた母に批判的だった彼だ。役目となれば譲ってくれるだろう。

 そして、シシュに付きまとうディスティーラも近いうちに打ち倒さねばならない。

 完全に人から断たれたにもかかわらず人に執着する気持ちはサァリには分からないが、自分と同じものが何にも繋がれず自由にしているなど放っておけるはずがない。もう一柱と重ならないように片付けていく必要がある。実体を持たぬ彼女を殺しても、人となった母に影響はないだろうという話だが、障りが出ると言われてもサァリはディスティーラを殺すつもりだった。

 一筋縄ではいかなそうな問題たちに、彼女は溜息をつきたくなる。

「もう……なんで、こんなに人外がいるんだろ。帰ればいいのに」

 問題を解決する為に召喚された神が、今になって問題を起こしている。まるで本末転倒だ。今の世の人間にとってはいい迷惑に違いない。


 ぼやきながら中に戻ろうとしたサァリは草履を脱ぎかけて、だがふと気を変えると玄関脇の造戸棚を開けた。中から千代紙を一枚取り出すと、それを折り始める。

 そうして出来あがった小さな空色の鶴に、彼女は顔を寄せてそっと息を吹き込んだ。途端鶴は、うっすらと青く輝き始める。

「お行き」

 氷の息を吹き込まれた鳥は、命を受けると紙の羽を動かして玄関の外へと消えた。

 相手のもとに届くだけで大した術ではないが、熱を出している時の氷嚢代わりにくらいはなるだろう。

 空耳のような錯覚に対し、それ以上の感情はない。サァリは冷え切って揺らがない情動ごと踵を返す。

 ただ鶴だけが、アイリーデの空を南へと飛んでいった。

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