第88話 駆引
向けられた切っ先を見てもなお、ディスティーラは動かなかった。
ただ傷ついた目をシシュに注いでいる。その目を見上げている時間は、彼にとってとても長いものに感じられた。
草の上を踏み込んできたトーマが細身の刀を振るうのが見える。シシュの体は自然に、その巻き添えにならぬよう一歩退いた。銀の刃が、浮いているディスティーラの胴を薙ぐ。
―――― 直後、二人はその場から弾き飛ばされた。
「……っ!」
声にならない息を吐いて跳ね起きた時、シシュの傍にはヴァスが立っていて、倒れた彼を覗きこんでいた。
突剣を手にした青年は何ということのないように「おや、生きてましたか」などと言ってくる。シシュは自分が軍刀を持ったままであることに安堵すると、体を起こした。
「俺は気絶してたのか?」
「気絶というほどの時間は経ってませんよ。ほんの数秒です、ほら」
ヴァスが指し示す方を見ると、ちょうど反対側に弾かれたトーマが草の上から立ち上がるところだった。少し離れたところではアイドがうんざりとした顔で空を見上げている。そこでようやくシシュは、ディスティーラが四人の中央、手の届かぬ空に浮いていることに気づいた。
透き通る少女は、斬られたはずの胴もそのままで体に巻き付けられた薄銀の布にも裂け目はない。
シシュは立ち上がりながら、隣の青年に苦情を呈した。
「神殺しの刀じゃなかったのか?」
「効いてますよ。ちょっと薄くなった気がしますし。ただ肉体がないってことは普通の痛手を与えられるわけじゃないみたいですね。少しずつ存在を削っていくしかないんでしょう。あといくつか誤算も発見しましたし」
「誤算?」
聞きたくないが、聞かないわけにはいかない。
シシュがディスティーラを見上げたまま問うと、隣のヴァスも視線を動かさぬまま頷いた。
「一つはああやって手の届かないところにいられると、どうしようもないということと―――― 」
「いやそれは分かってただろう」
「あとは、攻撃の手段は考えてきましたが、相手の力をどう防ぐかは考えていなかったことですね」
「考えても対策はなかったと思う」
生産性のないやりとりを、ディスティーラが聞いていたなら怒り狂っただろうが、彼女の注意はもっぱらトーマに向いているようだ。立ち上がった男を少女は射殺さんばかりに睨む。
「貴様……あの男の息子か。よく似ておる」
「お察しの通り。俺も父の逃げ腰には腹が立つけどな」
「ならば、吾ではなく父を斬ればよかろう。どんな女の腹から生まれたかは知らぬが、今なら見逃してやる」
それを聞いた時、トーマの表情は微塵も変わらなかった。
いつもの余裕ある薄い笑顔のままで―――― だから少女の言葉に胸を突かれたのはシシュの方だ。
婚姻前に肉体から切り離されたディスティーラは、元の自分が二人の子供を産んだことを知らない。親子であって親子ではないのだ。
もしサァリーディが己の神性を切り離したなら、彼女の半分もこのように時の流れから孤独に切り離されたのだろうか。誰もいない月下で佇む彼女を想像し、シシュはいたたまれなさと軽い憤りを覚えた。
「……気が知れない」
「何がですか」
心をよぎる言葉をつい口に出していたらしい。ヴァスに聞きとがめられて、シシュは小さくかぶりを振った。
「サァリーディの父親の気が知れない。自分の妻の半分を否定するなど」
月白の巫が人ではないと知った時、確かにシシュも驚いた。普段の彼女とまったく異なる側面に、飲み込みきれないものを感じた。
だが今となってはやはりあの彼女も紛れもなくサァリ自身だと理解している。彼女の彼女たる本質を切り離して捨てていこうとは思わない。自らが選んだ女に永い孤絶を味わわせるような真似が、どうして彼らの父親に可能だったのか、想像することさえ出来なかった。
憤懣を滲ませた渋面の彼に、ヴァスが溜息をつく。
「あなたのそういうところは、そのうち命取りになりますよ。……ま、別に私はどうでもいいですが。それより浮いている方の対策を何とかしないと、トーマが死にますね」
その直後、二人の足下を地響きが伝った。
目に見える何かがあったわけではない。ただ見ると、ディスティーラが形のよい指でトーマを指し示している。涼やかな声が鳴った。
「目障りだ。―――― 地に飲まれていろ」
低い宣言は、それ自体が力を持っていた。
草原の下、広範囲に渡って地面に亀裂が入る。
自身の真下から蜘蛛の巣状に広がっていくそれを、トーマは大きく飛び退いて避けた。根の張った土ごと飲み込まれていく青草を飛び越え、更に距離を取る。同じく地割れの範囲内にいたアイドが外へと走りながら叫んだ。
「オレを巻き込むな!」
「うるさい。お前は飲まれてろ」
言いながら別々の方向に離れる二人の後を、白い光が追っていく。
アイドは途中で振り返ると、借り受けた刀でそれを払った。光は細かい飛沫となって草の上に散っていく。
だがそうして逃れられるのも一時のことだろう。シシュは、サァリが以前に数十の光条を操って無数の黒蛇を打ち払うところを見ている。神たる存在が本気になれば、あの程度では済まないはずだ。
「早い内に勝負をつけないと、彼女が本気になったら即死させられそうだな」
「その危険性は無ではないですが、案外低いと思いますよ」
落ち着いた訂正は、突剣を手にしたヴァスからのものだ。彼は剣先で足下の草を軽く払う。
「彼女たちは、人に召喚されてこの地に根を下ろした存在ですからね。人間というものに対しあまり大きな力は振るえないんですよ。人外に対しては違いますが」
「そうなのか」
そんな話は初耳だ。サァリからも聞いた記憶がない。
だがウェリローシアの代行者であるヴァスならば、過去の記録を知る事も出来るだろう。そうでなくても、サァリの力を借りたことがある彼だ。神々の性質を知っていてもおかしくない。
若干は希望が持てる話にシシュが顰めた眉を緩めると、隣の青年は淡々と付け足した。
「ま、大きな力が振るえないと言っても、結局は神ですからね。力の差は歴然ですよ。物理的にも手が届きませんし」
「一応予備策はある」
シシュは軍刀を鞘に戻すと、懐から黒い包みを取り出す。そこにしまってあるものは、左手だけの皮手袋と掌ほどの両刃の短剣が五本だ。柄の先は輪になっていて長い鋼線がくくりつけられており、その鋼線の更に先には地に埋め込む為の鉄杭が付随していた。
見慣れない類の道具にヴァスは怪訝な顔になる。
「何ですか、それは」
「空を飛ばれることは分かっていたから、城に頼んで用意した」
白い閃光が走る。
上空から地上へと打ち下ろされる波に、トーマとアイドはまたもやそれぞれ飛び退いた。草原から白い煙が上がる。
サァリの力と似ているのか違うのかは分からないが、一つでも食らったらただでは済まないはずだ。いつまでも傍観はしていられない。
シシュは素早く手袋を嵌めると、包みの中から短剣の一本を手に取った。刃にびっしりと呪が彫り込まれた剣を、駆け出しつつ空中のディスティーラめがけて投擲する。剣は、狙い通り空を切って飛んだ。
「……っあっ!?」
いつかと同じ小さな悲鳴が上がる。
トーマだけに注意を払っていた少女は、左の脹脛に突き刺さった短剣に気づいて顔を歪めた。神殺しの刀でさえも通り過ぎた体に、その刃はうっすらと白く光りながら突き刺さって留まっている。
「何だこれは……」
その疑問に答えていられる時間はない。
シシュは鉄杭を地面に突き刺すと、足で先端を押さえながら左手で鋼線を引いた。ディスティーラの小柄な体がぐらりと傾いで落ち始める。
その青い目が、振り返りざま彼を捉えた。
「っ、おぬし、よくも」
少女の右手に白い光が生まれる。
冷気の塊と思しきそれに、シシュは鋼線を引いたまま左へ跳んだ。引きずられて地面へとぶつかりそうになる少女へ、反転し走り込んできたトーマが刀を振るう。
だが刃が彼女の体にかかる直前で、シシュの引いていた線がふっと手応えを失った。
「気をつけろ!」
―――― 鋼線を切られた。
そう悟って警告を発した時にはもう、ディスティーラはトーマに向かい飛びかかっていた。命を刈り取る激しい冷気が至近から打ち下ろされる。
「トーマ!」
明らかに避けられない距離だ。男の頭を狙って打ち込まれた光が、その場にいた者たちの視界を焼く。
シシュは左目だけを閉じて視力を庇いながら、二本目の短剣を手に取った。最悪の結果さえ予想していたが、光が去った後にトーマはまだ草の上に立っている。彼は咄嗟に刀身を上げて攻撃を受けたようで、無事ではあったが右肩が白い霜に覆われていた。その下からみるみる血が滲んでくる。
紛れもなく深手であろうそれに、だがトーマは動じる様子もなく左手で刀を振り切った。ディスティーラの細い首を銀の刃が通り過ぎていく。
少女は一瞬不愉快そうに顔を顰めたが、水面の月に似て揺らいだ姿はすぐに元へと戻った。残酷な微笑が透ける美貌に浮かぶ。
「それで終わりか?」
触れれば裂けそうな男の肩口に、彼女は改めて細い手を伸ばす。
シシュは息を止めると、少女の背を狙って短剣を投じた。けれどそれは、ディスティーラを止めるには間に合わない。
手遅れを予感しかけた時―――― しかし彼女の腕に、横合いからもう一振りの刀が降りかかった。一対である神殺しの刀、持ち出されたもう一振りに斬り落とされた少女の左腕は、陽炎の如くかき消える。
それを成した男は、ディスティーラを見据えたまま片足でトーマを蹴り除けた。
「邪魔だ。オレは早く帰りたい」
「……このやろ」
隻眼の化生斬りは、刀を振るいながら更に一歩を踏み込む。
ディスティーラはしかし、己の背を振り返り、そこに刺さる短剣を見たままだった。欠損した左腕が白い靄となって戻ってくる。その手が、頭に振りかかるアイドの刀の刃をすんでのところで掴んだ。
もはや悲鳴を上げることさえしない神は、氷の双眸に静かな怒りを湛えて四人を見回す。
「面白い」
月光よりも青い眼が、燐光となって輝いた。
「来い。―――― 全員まとめて相手をしてやる」
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