第90話 羨望



 両足が浸された小さな池には、赤い月が映っていた。

 真円に限りなく近い月は、静止した水面で変わることがない。夜の池に立ち尽くすシシュは、光のない目でただ目の前の月影を見つめていた

 少女の声がどこからともなく聞こえてくる。

「他の人間ももう落ちた。神殺しを試みた代償は大きかったな」

 言われた言葉は、意味は分かるのだがどうしても頭に入ってこない。シシュは膝上まで水に浸かった自分の足を見下ろす。

 冷たいとは思わない。むしろ生温いそれは人の体液を思わせる。眠りを誘う温度の中で、彼の意識は無に溶けかけたまま漂い続けていた。


 ディスティーラの影が水面の月から頭をもたげる。半身を現した少女は、赤い月に頬杖をついて虚ろなシシュの眼を見上げた。

「気分はどうだ? 何も感じられないか」

 少女の声は、彼の意識の上を滑っていくだけだ。問われても何も感じない。

 ただ少しだけ、澄んだ声に違和感を覚える。よく似て、だが違う懐かしい声に叫びだしたような渇きを感じるのだ。



 動かない青年をディスティーラはじっと注視する。自身が作る世界で、神は微かに溜息をついた。

「人は、弱い」

 赤い月が、さざなみだつ。

「愚かで移り気だ。ひたむきで、それでいて卑怯。だが温かい。その温かさが吾は欲しかった」

 少女は目を伏せた。シシュはそれを見ていながら、何一つ考えることが出来ない。ただぼんやりと池の中に立つだけの亡霊だ。

 そしてそれが、今までディスティーラの置かれていた境遇だった。彼女は楕円形の池を見回す。

「繋がれていないと、自分が溶け消えてしまいそうな気がするのだ。糸の切れた凧のように自分でないものになってしまう気がする。吾にはアイリーデという座も、そこに繋ぎ止めてくれる神供もないからな。―――― ずっと独りだ」

 ぽつりと吐き出された言葉は、シシュの精神を僅かに揺り動かした。

 いつか誰かと、似た会話をした気がする。その時彼は思ったのだ。「彼女に孤独を味わわせたくない」と。

 シシュは掠れた声を落とす。

「独りで、いることはない……」

 ―――― 望んで孤独になることはない。

 手を伸ばすなら、いつでもその手を取る気はあるのだ。シシュはおぼろげな意識の中で、それだけを手放してはならぬ糸として口にする。

 彼が返事をしたことに、ディスティーラは大きく瞠目してその顔を覗きこんだ。

「まだ話せるのか。吾らの力に慣れているからか?」

 問われた意味は、やはりよく分からなかった。足下を見たままのシシュに、ディスティーラは腕を伸ばす。月の影からしなやかな体を現した少女は、透き通る掌を彼の頬に触れさせた。焦点の合わぬ眼差しを己の目で受け止める。

「……壊れてしまうくらいなら、最初から吾に応えていればよかったのだ。そうすればお前は神の力を手に入れられた。貪欲に神をも飲もうとする人の性と、望むままに戦うことが出来たのだ」

 淋しげに微笑む少女の貌は、やはり何処か懐かしい。

 失われてしまったもの。だが忘れることの出来ないもの。その名を呼びたいとシシュは思う。ディスティーラの指が優しく彼の瞼に触れた。

 閉ざされようとする視界の中で、少女は小さく頷く。

「もう眠れ。何も言うな」

 疲れ果てた精神を寝かしつけようとするディスティーラは「何も言うな」と言う割には、何かの言葉を待っているようにも見えた。微笑したまなじりから涙が零れる。

 それを見たシシュはまた、心にさざなみを感じた。「彼女」に言わなければならない。その引っかかりだけを頼りに彼は手を上げる。指先を少し動かすだけで耐えがたい倦怠が全身にのし掛かってきた。

 彼はその手で、少女の腕を掴む。

「……大丈夫だ」

 たとえ、これから自分たちの進む道が分かたれるのだとしても。

「分かっている。巫を否定することはしない」

 彼女の生き方を肯定する。異質だからといって逃げることはしない。

 懸命に進もうとした姿に報いる。自分だけは、そうでありたいと思う。


 シシュは疲れた息を吐き出す。

 その時、何処からともなく飛来した青い鶴が、そっと寄り添うように彼の肩にとまった。




 鶴の羽ばたきが起こす風は、身を切る程に冷たいものだった。

 耐えがたいその冷気は、シシュの意識に正気の橋を渡らせる。虚ろであった双眼が、驚くディスティーラの顔を捉えた。

 彼はその一瞬で、自分の置かれた状況を理解する。少女の腕を掴む手に力を込めた。腰から下が月影に溶けたままの彼女を無理矢理に引きずり出す。

 ディスティーラの支配下にあるこの世界に、彼の軍刀はない。だがその分、実体が無いはずの彼女に触れることが出来た。

 シシュは細い首を左手で掴む。そのまま力を入れれば折ることも出来たかもしれないが、彼はそれをしなかった。呆然としているディスティーラに鋭く告げる。

「これ以上は無駄だ」

「何を……」

「俺は屈しない。あなたも、もう自ら進んで傷つくな」

 人間である彼らを圧倒した少女は、だがそれで少しも気が済んだようには見えない。ただ孤独に苦しんでいるだけだ。そんな不毛をこれ以上続けて何になるというのか。絶句していた少女は、我に返ったのか辛辣な微笑でシシュをねめつけた。

「面白いことを言う。命乞いのつもりか? 第一、こうなっているのもお前のせいだろう。神に捧げられた人間が何故それを拒む」

「神供になることを拒んでいるわけではない」

 シシュは肩にとまる鶴を横目で見やった。

 何故、ここにこのようなものが来ているのかは分からない。だが、誰が寄越したのかは分かる。冴えて冷たいもう一つの月を思って、シシュは続けた。

「ディスティーラ、あなたにとって人間とは酒と変わらぬものなのか? 誰であっても変わらぬ慰めの道具か」

「……何が言いたい。それがどうかしたのか」

「そう思っているのなら、あなたは理解出来ぬだろう。月白の娼妓は客を変えない。ならば客もそれに応えるべきだ。―――― 当然、神供であっても」

 神であるなら誰でもいいわけではない。神供が彼女の一生でただ一人であるように、男にとっても彼女が変わらぬ一人であるべきだ。そうでなくては、神の孤独に見合う心は差し出せない。

 少女の双眸を思わせる青い鶴を、シシュは強く意識する。たとえ彼女が自分を選ぶ気がないのだとしても、少なくとも別の神供が選ばれてしまうまでは待っているつもりだ。背を向け諦めてしまった子供が再び、壊れやすいものを手に取ってみようと思うくらいまでの時間は。


 シシュは顔を顰めたままディスティーラの様子を窺う。

 返答次第では即座に首を折ることも辞さない。そう身構えていた彼に、ディスティーラはだが、気を抜かれたような表情で問うた。

「それは、あの小娘の為か」

 シシュは答えない。

 けれど意思の滲む沈黙は何よりも強い肯定だった。少女の唇が微かに震える。

「捨てられて、どうして殉じられる?」

「そうすべきだと思った。神と正面から向き合うならば人も誠意を尽くさねば」

「裏切られてもか」

「少なくとも、己が納得できるまで」

 ―――― もし彼女が普通の人間で、自分たちがただの化生斬りと巫であったら、答はもっと早く出ていたのかもしれない。

 ただ彼女に惹かれ、自然に人生を共にすることも選べただろう。

 けれど、多くを負う彼女と向かい合うならば、自身も相応の覚悟を真摯に築かねばならないと思う。

 だからディスティーラの手を取るつもりはない。その為に命を賭し敗北することになろうとも。

 神に触れるとは、きっとそういうことだ。




 ディスティーラは、取り残された子供のように瞳をわななかせて彼を見ていた。

 そこに映っているものは、おそらくシシュではない過去の誰かだ。裏切られ、切り捨てられて眠っていた神は、自身と繋がる赤い月に視線を落とす。頼りない述懐が小さな唇から洩れた。

「吾も……」

 少女は俯く。水面にぽたりと滴が落ちる。

 微かな波紋、悠久となるはずだった絆の残骸と影、それだけの残されたものを見つめて、ディスティーラは力なく微笑った。

「吾は……おぬしたちが羨ましい」

 その言葉を残して、神の体は全て小さな池へと流れ落ちた。




 ※ ※ ※ ※




 戻ってきた世界において、真っ先に見えたものは広がる青空だ。

 続いて濃い血臭に、シシュは自身の体がまだ動くか不安になる。指先から確認しようとして、けれど意識がはっきりするにつれ右腕に激痛が走った。幸い左腕は無事なようで、体を起こしながら確認してみると、右肘から先がおかしな方向にねじ曲がっている。

 半分以上は痛覚が麻痺しているのか、おびただしく背を濡らす冷や汗を自覚しながらも動けない程ではない。シシュは歯を食いしばって立ち上がった。

 ―――― 草原にはその時、無事でいる者が一人もいなかった。

 トーマの体は草の中に血塗れで打ち捨てられており、生きているか死んでいるか分からない。その傍で膝をついているアイドは鎖骨に短剣を刺したままで、虚ろな目は何処も見ていないかのようだ。

 シシュに背を向けて立っているヴァスは、まだ右手に突剣を握っている。だが左肩から下は血だらけで、足下の草にぽたぽたと赤い滴がしたたっていた。

「無事か?」

 思わず口にした言葉に、ヴァスは肩越しに振り返る。その目には昏い影があり、シシュは状況の不味さを実感した。

 しかしウェリローシアの青年は、何ということのないように返してくる。

「無事と言えば無事ですね。あなたたちが向こうで彼女を引きつけてくれてたおかげで、こちらも何とかなっていましたし」

 突剣が指し示す神、ディスティーラは、もはや少女とは言えない外見になっていた。十にも届かない程の子供の姿で草の上に浮いており、その両眼は固く閉じられている。

 ヴァスは右手に持ったものをシシュに見せながら言った。

「これくらい削れば十分でしょう。一時はどうなることかと思いましたが」

「それは……サァリーディの腕輪か」

「正確にはエヴェリの母の、ですね。適当なことを言って借り受けてきました」

 青年が突剣と合わせて持っているのは、サァリがいつもつけていた銀の腕輪だ。巫の力を抑えるというそれが、彼が自分の為に用意した対策だったのだろう。シシュは小さく息をつくと、離れたところに落ちていた軍刀を見つけて拾いに行く。その間もディスティーラはまったく動く気配がなかった。

 ヴァスが溜息をついて彼女へと歩き出す。

「ともかく、そろそろ終わらせてあの二人を回収しましょう。もう死んでるかもしれませんが」

 否定出来ないだけに縁起でもない発言に、シシュは一瞬異議を呈そうか迷ったが、それをしている場合ではないと思い直した。拾った柄を強く握り、痛みを意識外に追いやる。



 その時、ディスティーラが不意に目を開けた。青い目が正面にいるヴァスを捉える。

「貴様……」

「手を焼かせないでください。あなたにとっても、いつまでもここにいるのはよくないのですよ」

 温度のない声で返す青年に、ディスティーラは怒りと恐れの混じった目を向ける。

 彼女は視線をさまよわせシシュを一瞥すると、小さくなった右手を上げた。そこには青い鶴が乗せられている。

 途端、光を帯び始める鶴に、ヴァスは舌打ちして地面を蹴った。投げられた腕輪が、鶴を少女の手から弾き飛ばす。

 しかしそれは一瞬遅く―――― 波紋に似て広がった光は、シシュたちもろとも草原を一気に飲み込んだのだった。

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