第86話 晴天
ぼんやりと、全てを遠くに見ている気がする。
たとえば目の前に広がる街並が、精密に出来た子供の玩具に思えるように。
自分だけが小さな作り物の世界に迷い込んでいる―――― そんな歪な感覚に捕らわれてサァリは軽く頭を振った。白日に照らされたアイリーデが揺れて見える。
「大きさは変わらないはずなのにな……なんでだろ」
意識が変容すると、些細なところまで変わって感じられるのだろうか。
それとも日の光に弱くなってしまったのか。サァリは悩みながら人の行き交う大通りを歩いて行った。氷雪と変わらぬ息をそっと零す。たまには外に出なければ、と思い小物の買い出しに来たのだが、やはり下女に任せた方がよかったのかもしれない。
サァリは定まらない視線を賑やかな雑踏に向けた。
その時、ふっと頭上に影が差す。
「―――― え?」
顔を上げかけた彼女は、だがすぐに両腕で自分の頭を庇った。大きな影は、サァリの頭すれすれを掠めていく。羽ばたきの音が聞こえ、生臭い風を感じた。
「痛……っ!」
屈みこみながら右腕を見ると、かぎ爪に引っかかれたらしく深い裂傷が出来ている。髪も乱暴に引き抜かれたようで、ずきずきと頭が痛むのを、サァリは手で押さえた。上空を旋回する影を見上げる。
「何? 鷹?」
大きな鳥だということは分かるのだが、逆光でよく見えない。
周囲の人間たちもざわつく中、鳥は再びサァリを狙って降下してきた。
打ち落とそうかと指を上げかけた彼女は、周囲の人目に気づいて固まる。どうしようかと迷っている間に、彼女の視界は男の背で遮られた。だらしなく着物を着崩した男は、向かってくる鳥を見ながら刀を抜く。
サァリはそこまでを見て、後ろにいたもう一人を振り返った。巨体の化生斬りはサァリの傷を見て険しい顔になる。
「巫よ、傷を洗わねば」
「すみません。タギも……」
「鳥にまで嫌われるとか、お嬢何やったんだ?」
刀を抜いたままの男が振り返る。鳥は逃げたのだろう。何処にも姿が見えなかった。
サァリは乱れてしまった髪に溜息をつくと、改めて鉄刃とタギに頭を下げる。
「何もしていません。ありがとうございます。二人は見回りですか?」
「いや、ちょうど巫の耳にも入れたい話があった。時間を取れるか?」
「大丈夫です」
どうせこの怪我では買い出しを続けるわけにもいかない。サァリは袖の上から傷を押さえると、優美な仕草で踵を返した。
月白に戻ったサァリは二人を花の間に待たせ、血を拭い、治した傷の上から包帯を巻いた。その上で着替えて戻ってみると、彼らは棋板を広げて勝負に興じている。
「お待たせしてすみません」
「構わない。巫の体に痕でも残ったら大変だ」
「お嬢、前も顔に怪我してたしな。月白から出ない方がいいんじゃねえか?」
「そういう訳にもいきません。で、どのようなお話でしょうか」
サァリが椅子を引いて座ると、鉄刃が重く頷く。
「巫よ、外では戦が始まったそうだ」
「……そうですか」
それは、アイリーデが今までに幾度となく経験してきた契機だ。
国同士の争いが始まり、興亡が起きる。「外」とは他国を意味しているのではない。この街以外の国内を意味しているのだ。
波打つ世情を何処か遠くから眺めるようなアイリーデの姿勢に、今の自分と似たものを感じてサァリは微笑んだ。
だがそう言って傍観ばかりをしていられるわけではない。
鉄刃は駒の一つを太い指先で立てる。
「巫も承知のことだろうが、しばらくは客を狙って間諜や刺客が入り込んでくるかもしれない。こちらから率先して探すことしないが、しばらくは注意が必要だろう。匙加減は難しいがよろしく頼む」
「分かりました」
アイリーデには他国からの客が訪れることもあるのだ。勿論国内であれば地方を問わず様々な人間がやって来る。外が戦争ともなれば、彼らに絡んで多くの揉め事もまた持ち込まれることになるだろう。
だが、たとえ大陸中に嵐が吹き荒れようとも、常と変わらぬ顔をし続けるのがアイリーデという街だ。客に違和感や不安を感じさせてはならない。だが、「この街に逃げ込んでいれば無事でいられる」などという風説が広がっても困るのだ。あくまでもアイリーデは一時の安息を得られる場でしかない。この街に居続けられるのは、この街の住人以外はいないのだから。
サァリは、主要な店に伝達される注意を聞き、巫としての打ち合わせをいくつか済ます。
全てが終わると、鉄刃はまだ若い館主をじっと注視してきた。
「巫よ、最近新人とあまり一緒にいないようだが」
「一年いたらもう新人ではない気もしますが、そうですね」
花の間で話をしてから、シシュとは一度も会っていない。
化生の出現はサァリが抑え込んでいる時期だ。要請が来ないのも当たり前と言える。
だがそれだけではなく、彼と自分との間に以前のような繋がりがないこともまた事実だった。
平然とした様子の少女に、タギは冷笑を向け、鉄刃は心配そうな声音になる。
「まだ若いのだから、お互いすれ違うこともあるだろう。だが一生を連れ添う相手だ。よく話し合った方がいい」
「…………」
もう何だか、勘違いを訂正する方が悪いような気分になってきたのはどうしてなのか。
弁解しようとしたサァリを、タギが鼻で笑う。
「あれだけべったりまとわりついておいて、急に捨てたのは昔の女が癪にさわったか?」
「そんなつもりはありません」
「ま、気の利かない男だったしな。お嬢が切りたくなるのも分かる」
「そういうことでもありません」
「でもお嬢―――― 今この街にいて、楽しいか?」
タギの皮肉げな問いは、サァリにとって死角から突きつけられたものでありながら、以前から予感していたもののようにも思えた。
巫である女は、青い目を瞠って男を見つめる。タギは何を驚いているのか、とでもいうように両手を広げて見せた。
「どうしてそんな顔になるんだ? それだけ冷めた目で街を歩いてて何の自覚もないのか? 何にも興味ないって顔してたぜ。少なくとも娼妓の目じゃないな」
「それは……」
―――― 全てが遠くに見える、と思った。まるで造り物を見ているようだと。
王都の人間を見て「街の気風と違う」と思っていたサァリだが、その実、彼女自身が変質のあまりこの街からさえも浮き立っていたのかもしれない。
サァリは手袋を嵌めた手で自分の頬を押さえる。
「自覚がありませんでした。ありがとうございます」
「俺に謝る必要はないだろ。嫌ならやめちまえ。辛気くさい」
音を立てて椅子を引くと、タギは花の間を出て行く。奔放な化生斬りの言動に、鉄刃は重く溜息をついた。
「無礼をして済まない。あれはたまに仕事をさせると倍の面倒を生む」
「タギらしいです。彼は間違ったことは言いませんから」
そしていつも、痛いところを突いてくるのだ。
もっとも今のサァリは「痛い」とさえ思えない。彼女は鉄刃の手で積み上げられていく駒を眺める。
丁寧に繊細に重ねられていくそれらは人の営みを思わせ、サァリはじっと男の手元を見つめた。外見に似合わず器用な鉄刃は、小さな駒の塔を作っていく。
「そういえば巫よ、新入りの娼妓は茶屋に移ったそうだな」
「ええ。先日挨拶に行って参りました」
ヴァスの提案を受けたミフィルは、数日前から大通りの茶屋に移っていった。
主であるサァリは、彼女の身の回りの道具一式と金子を用意して挨拶に行ったのだが、客が多く賑やかな茶屋の空気は、商家の娘であるミフィルにとって慣れ親しんだ居心地の良いものであるらしい。店自体も昼の店とあって妓館とは空気が違う。ミフィルはこれから住み込みで働いていくことになるそうだが、サァリは彼女の憂いのない笑顔を初めて見た気がした。
記録上では、ミフィルは客を取らぬ見習いのまま月白を辞めたことになっている。
シシュが彼女に払った花代は、全て支度金として彼女自身に持たせた。サァリはその旨きちんと説明したが、ミフィルは「頂きます」と頭を下げて受け取っただけである。以前のように断ろうとしなかったということは、彼女にも何かしらの変化が訪れたのかもしれない。
―――― ただ、時間をかければいい娼妓になれる可能性もあっただろう。
サァリは冷たい息をそっと吐き出した。
「私は、未熟者ですね」
「誰しもが死ぬまでそうだ。巫に限ったことではない」
「主がそれでは、女たちが困りましょう」
それだけでなく化生斬りたちも迷惑を蒙るに違いない。
サァリは微笑んで目を閉じる。昔の自分であればこのような時どんな表情をするのか、どうしても思い出せなかった。
※ ※ ※ ※
手紙を開いてみると、中には簡単な近況と感謝の言葉が書かれていた。
シシュはミフィルから届いた書簡を二度読み返すと、元通り封をする。馬の鞍を確かめていたトーマが前を見たまま問うてきた。
「何て書いてあった? 何も分かってくれなかった、とか恨み言が書かれてたか?」
「書かれてない。普通の近況だ」
とは言え、似たような批難を受けたことがあるのは事実だ。まるで見ていたかのような友人の言葉を、シシュは不可解に思ったが何も言わなかった。
手紙を懐にしまった青年は、自身も馬に歩み寄る。アイリーデの街外れに位置するラディ家の厩舎には、昼時とあって他に誰の姿も見えなかった。
シシュは轡に触れて手綱を確かめる。
「……今まで、何度か考えていた」
「何をだ?」
「どうして俺は、彼女を訪ねていたのだろうと」
問われても、明確に返すことは出来なかった。
ミフィルに手を貸したいと思いながら、それを拒絶されても通う自分の感情がよく分からないでいたのだ。
だが、今は言葉に出来る。
シシュは、手紙の最後に書かれていたものと同じ文句を口にした。
「―――― 幸せになって欲しいと、思う」
たとえ行く道が分かたれても、その先が安らかであればいいと思う。
彼女が彼女の望むように生きられたらいい。そう願って訪ね続けていたのだ。
サァリも今、同じように思っているのだろうか。
手綱を取る青年にトーマは苦笑する。
「そうだな。お前はそういう奴だな。やり方下手だけどな」
「サァリーディに、俺も同じことを言われたんだ」
「つまり振られたってことだな」
「…………」
これ以上話していても、不利な流れにしかいかない予感がする。
シシュが口を噤むと、トーマもそれに合わせてか無言になった。二人は支度を終え騎乗すると、街の外、南の方角へと馬首を向ける。
トーマが懐中時計を確認した。
「んじゃ行くか。そろそろ時間だ」
「ああ」
まもなく用意も整うはずだ。誰かに気づかれる前に動いた方がいいだろう。
街道に沿って馬を走らせながら、シシュは遠ざかるアイリーデを振り返る。
日の光に照らされた神の街は今日も平穏だ。―――― だが、これから同じ神を殺しに行くのだと思うと、不思議な罪悪感しか沸いてこなかった。
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