第85話 酒肴


 アイリーデにあるラディ家の酒蔵は、街の南西の一角を占める大きなものだ。

 その蔵に付随した屋敷の一室で、シシュは数時間前を再現するようにトーマと向かい合っていた。座卓の上の湯飲みには、相変わらず適当なお茶が湛えられている。

 だがシシュはもはやそれには手をつけず、畳の上で頭を抱えていた。トーマが焼いた油揚げを一切れ摘まむ。

「だからやめとけっつっただろうが」

「…………」

「いや別に変な反省しなくていいからな。お前との繋がりを断つってのは、サァリ自身前から決めてたみたいだったよ。あの女とかお前がどう動いたって関係ない。気にすんな」

「……前にも一度同じことを聞かれてるんだ」

 その時は、いつもの冗談なのだろうと思って何も答えなかった。

 既にあの頃変質は始まっていたのだろうか。後悔を覚えるシシュに、トーマは薄く酒を注いだ盃を差し出す。

「気にすんなって。あのな、サァリはお前のそういうところに惹かれてたんだよ」

「自業自得なところか」

「違う。俺の妹をおかしな趣味にするな」

 金平糖を一粒ぶつけられながら、シシュはまだトーマが彼女を「妹」と言っていることに安堵する。

 たとえ人から遠く離れようとも、彼らの繋がりは断たれることはない。それが肉親であるということだ。

 青年はその関係を羨ましく思って、盃を手に取る。白い盃の底には青い猫の絵が描かれていた。

「サァリは、お前のまっとうなところが好きだったんだよ。融通がきかない堅物で、肝心な時にはちゃんと相手の意思を確認して尊重するような無粋なところがな」

「無粋……そんなことは当たり前のことだろう」

「それを当たり前って言う辺りが、お前ずれてんだよ」

 腹の立つ物言いではあるが、シシュは黙って盃に口をつけた。澄んだ水を思わせる味が体内に染み渡る。

 トーマはまた金平糖を一つ投げてきた。

「アイリーデの気風と正反対のお前だ。だからサァリはお前に惹かれた。自業自得なのはあいつも同じだ。それでお前が無理して変わっちまったら、サァリの方が後悔するだろうよ」


 ―――― すごく綺麗だったから焦がれた。

 夢の中で聞いたあの述懐が真実だというなら、シシュはやはり、同じ問いに同じ答を返すしかないだろう。

 彼女自身が選ぶなら、大人になったのなら、自分はそれに応える。そうなってもいいと思ったのだ。共にいるうちに、彼女個人を助けてやりたいと思うようになった。それが、神との婚姻を意味しているのだとしても。


 シシュは自分の額にぶつかって跳ね返った金平糖を、拾って座卓の上に戻す。青い金平糖は硝子よりも鈍く光を溜め込んで見えた。トーマが自分の酒杯に酒を継ぎ足す。

「たとえばお前が、小さな泥人形をすごく欲しいと思ったとする」

「どうして俺が泥人形を欲しがるんだ」

「黙って聞け、朴念仁」

 ぴしゃりと言われてシシュは盃に口をつけた。トーマは、葱を乗せ軽く炙った油揚げを皿ごと押しやってくる。

「でな? その泥人形は触ると崩れちまうんだ。でもお前はそれが欲しい。じゃあどうする?」

「その条件なら、硝子の器でも被せておくしかないだろうな。下に紙でも差し込めれば移動出来るんだが」

「…………」

「なんだ」

「いや、お前と話してると時々全部ぶん投げたくなる。これを楽しめてたサァリに感心しているところだ」

「……話の要旨を言え」

 なんだが段々脱線している気がする。

 トーマは可哀相なものを見る目を向けて、続きを口にした。

「要はな、手に入れたいと思うものがあって、壊してでもそれを手に入れたいって思うやつと、それなら触らないでおこうって思うやつの二種類がいるってことだ。お前はどっちかよく分からんが、サァリは後者。―――― あいつはお前を殺したくないんだよ」



 神の力は絶大だ。

 抱いて眠るだけで人の命を奪う。望むと望まないとにかかわらず、それはついてくる。

 だから彼女は手を離すのだ。脆弱な体を持つ人間を、意図せず壊してしまわないようにと。

 青い鳥を見上げる少女は手を伸ばさず、ただ飛び立っていく軌跡を愛しげに目で追うだけだ。



 深手を負った彼女に同衾したことだけが理由ではないのだろう。

 彼女の兄神もディスティーラも、サァリの傍にいるシシュを狙ってきた。人の身で彼女と共にいるとはつまり、そういう災難がついてまわるということだ。

 シシュは空になった盃を座卓に戻す。

「しかし、まさか硝子の鳥と同じ扱いを受けることになるとはな……」

「なんだそりゃ」

「サァリーディに昔やったんだろう? 部屋に飾ってあった青い―――― 」

 その時、何の断りもなく襖が開けられた。洋装の青年が入ってくる。

 片手に何故か酒瓶を持っているヴァスはそれを座卓の真ん中に置くと、二人の間に座した。

「下を通ったら持っていくよう職人に頼まれましたよ」

「お、悪いな。ついでに飲むか」

 内輪の味見用らしい瓶を開けると、トーマは三つの盃に分けて振る舞った。

 酒盃を受け取ったヴァスは、冷たい視線を従兄に向ける。

「暢気なものですね。今回のこれは一体どういうことですか」

「どうせ調べてるんだろ? そういうわけだ」

「全然分かりませんよ。エヴェリの様子がおかしかったようですが」

「自力での神性合一に成功した。ついに例の兄神が戻ってきたからな。他にも問題あるのがうろついてるし、ちょうどいい変質だ。さすが俺の妹」

 白々と言うトーマは先に水を口に含む。それから酒の味見をするつもりなのだろう。

 厚顔極まりない男に、ヴァスは愕然とした顔になった。まだ口をつけていない酒盃を置く。

「どこから苦情を言えばいいのか、分からないんですがね」

「苦情を言う必要があるのか? この状況で力が足りなくて困ることはあっても逆はないだろうが」

「どうしてそういうことになったんですか?」

 トーマに聞いても無駄らしいと判断したヴァスが、シシュに水を向ける。二杯目を手にした青年は大きくうなだれた。

「俺のせいだ……」

「だからそいつに聞くな! 無駄に凹んで鬱陶しいんだよ!」

「何なんですか……ひょっとして酔ってるんですか?」

「いや……」

 さすがに一杯で酔っているとは思いたくないが、頭は充分に痛い。

 シシュの様子を見かねてか、トーマが面倒くさげに説明をしなおした。一通りを聞き終わるとヴァスは従兄を睨む。

「何ですか、それは。どうして途中で止めなかったんです」

「気づけなかったんだよ。あいつ表面を装うからな」

 新たな酒の味見をする男は、普段通りの真意が分からない表情だ。アイリーデの人間である兄妹は、こういうところがよく似ているのかもしれない。

 一方血族でありながら王都の人間であるヴァスは、見るからに苛立たしげな顔で舌打ちした。

「大体、あなたはエヴェリに変なところで厳しすぎるんですよ。意地を張っているだけと分かるなら、譲ってやればいいでしょうに」

「そうやって甘やかすとろくな女にならない。第一お前が言うな。蔵開けの時なんかサァリを軟禁して外に出さないくせに」

「たった数日のことで問題が回避出来るんですから当然でしょう。でも今回の問題は一生のことじゃないですか」

「だから大袈裟に言うなと。こいつが凹む」

「酔っ払いは凹ましとけばいいんですよ」

 黙っているだけで随分な言われ方をして、シシュは大きく息をついた。

 久しぶりに酒を飲んだせいか、頭も体も重くて仕方が無い。―――― それでも、やるべきことは分かっていた。

 無言のままの化生斬りに、ヴァスが水の入った湯飲みを押しやる。

「それで、あなたは王都に帰るんですか? 帰るなら有用な情報の詰め合わせもありますが」

「いや」



 帰った方がいいと、彼女は言う。

 この街から離れ、幸福になって欲しいと。

 だがそれは、自分の選ばない道だ。



 重ねられた手がどれ程冷たくとも、それが彼女の手であることには変わりが無い。

 そして彼女自身が、今の自分に納得しているということも事実だ。

「サァリーディがあの状態でいいというなら、別にそれでいいんだ。俺の意見を押しつけるつもりはない」

 ―――― 意地を張っているわけではなく本当にそう思っているのだ。彼女が悲しくないなら、それでもいいと思う。

 盃を手に取るシシュに、トーマとヴァスは顔を見合わせる。

「な、こいつ変だろ」

「本気で言っているらしい辺りが変ですね」

「当たり前のことだろうが……」

 先程から絶え間なく変人扱いされている気がする。これ以上何を言っても真剣に取り合えってもらえない気がして、シシュは黙って酒を飲むことにした。

 ウェリローシアの青年は、そんな王弟をじっと眺める。

「……この二人は、どういう関係だったんでしょうね」

「どういう関係かって言えないような関係だったから、こういうことになってるんだろ。普通の色恋だったらもっと傲慢になりふり構わなかっただろうからな」

「そうであった方が分かりやすかった気もしますが。こんなことになる前にどうにかなっていて欲しかったです」

「何もなかったらいい夫婦になったさ」

 無責任な血族同士の会話は、放っておくと何処までも流れていきそうだ。

 半ば以上聞いていなかったシシュは、会話が途切れたところで顔を上げる。

「とりあえず、巫の敵を増やしておいてこのまま放置は出来ない。一つずつ片付けていく」

「軽く言うな。テセド・ザラスはともかく、あとは神が二柱だぞ。下手に動くと死ぬ」

「ものはやりようだろう」

 畳の上に置いた軍刀をシシュは引き寄せる。いつもなら丁寧に手入れしている刃は、しかし事情があって昨晩からそのままだった。

 胡座の上に刀を抱え込んだ青年は、二人のどちらに言うとでもなく宣言する。

「まず、彼女の母親を。……ああ、斬っても支障ないか?」

「構わん。あれをうろうろさせているのは、ラディ家としても問題だからな」

「ウェリローシアも同じく、ですね。少し心当たりがあるので手を貸しましょう」

 血族たちの了承を得て、シシュは頷く。

 神を斬る―――― そのような役割を進んで選ぶ自分に眉を寄せて、化生斬りの青年は立ち上がった。

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