第84話 決別
店を開けていないにもかかわらず突然入ってきた青年の顔を知らないのは、この場ではミフィルと下女だけだ。
残る三人はそれぞれの表情で、奇妙な提案をしてきたヴァスを見た。
ほぼ無表情のサァリが彼に向き直る。
「それ、思いっきり掟破りだと思うんだけど」
「全員の了承があれば可能なことでしょう。長い歴史を持つ月白で、不文律が破られた記録がないというのは単に、記録自体が糊塗されているだけのことと思いますがね。これだけ癖のある妓館で問題が起きていないなどということはさすがにないでしょう」
「それはそうだろうけど」
サァリがあっさり肯定したことに、シシュは驚く。
生来の性格からして生真面目な彼は、不文律とはもっと確固として動かしがたいものかと思っていたのだ。
もっとも横目でトーマを窺うと、男はこれ以上ないくらいの険しい顔でヴァスをにらんでいた。三者三様の血族たちは、場所がここではなく人目がなかったら、もっと派手な衝突に発展したのかもしれない。
サァリは眠気が残る眼でシシュを見やった。
「あの人はああ言ってるけど、シシュは?」
「……それが可能であるなら、お願いしたい。勿論、彼女の了承が得られるなら、だが」
「キリス様……」
押し殺した声が、彼の名を呼ぶ。
慣れ親しんでいるはずのそれはだが、本当の名前でありながら何処か実を伴わない違和感をもって彼の耳に響いた。
或いはこの街だけでの名を呼ばれることに慣れすぎたのかもしれない。いつの間にか訪れていた変化は、月白でミフィルと会っていた理由が判然としなかったように、ぼんやりとした過去の領域にある感傷として彼の中にたゆたっていた。
サァリがミフィルに問う。
「じゃあ、フィーは? あの人はああ見えて王都の貴族だから、きちんと遇してくれるとは思うけど。ウェリローシアって聞いたことがあります?」
「そ、それは勿論……! ですが……」
首を縦に振りながらも、彼女が窺わせているものは困惑だ。ありがたい話であるとは理解出来ても、そこから先へ思考が続かない。
事態についていけないらしい女へ、サァリは一つ息をつくと口を開いた。
「フィー、一応言っとくけれど、私はあなたが娼妓に向いてないとは思っていません。館に入った女がはじめ慣れないのは皆一緒ですから。―――― 娼妓が娼妓と成るには笑い方を身につけてからですが、それは一朝一夕に出来るものではないのです。最初は己の足下しか見られないのも当然のことでしょう」
青い目が、半歩後ろに控える下女を一瞥した。下働きの少女は恐縮した様子で、だが礼儀正しく一礼する。
気だるげな少女から冷厳とした館主へと空気を変えたサァリは、目線だけで頷いた。
「王都では、娼婦たちの生きる世界を苦界などと称するようですが……アイリーデは違います。自身の境遇を飲み込んでそれに耐え得るというだけでは駄目なのです。この街の聖娼は、人の温かさを、そしてそれに伴う慰めと悦びを生む為のものですから。花が苦しげに萎れていたら、お客様の興は削がれてしまうでしょう?」
だから笑え、と彼女は言う。
笑って咲くのが、娼妓の本分だと。
「フィー、あなたがアイリーデの人間になるというのなら、娼妓であることを、自分を追い込むための道具にしてはなりません。この街の流儀で、きちんと笑えるようにおなりなさい。それまでにどれだけ時間がかかっても構いませんし―――― やはり無理だというなら、それでもいいのです」
サァリがヴァスに視線をやると、彼は目礼する。
それに気づかぬミフィルは、今初めて自分の立つ場を知ったかのように、己の爪先を見ていた。何百年もの間、何千人もの女が歩んだ廊下を注視する。
「……わたくしは」
「自分で決めなさい」
鈴を振るような宣告が落ちる。
ずっと無表情であった神は、そこで初めて淡く微笑んだ。
穏やかな、人の営みを慈しむような微笑。遠くにあって交わらぬそれはシシュの目に、胸を突くほど美しく映る。確かに以前の彼女とは違うのだと、存在を目の当たりにして実感した。
何も言わないミフィルに、ヴァスが乾いた助け船を出す。
「あまり真剣に考え込まない方がいいですよ。この街の人間の考え方は、私たちには理解しがたいものですから。無理して狂人の仲間入りをすることもないでしょう」
「ヴァス、ひどい」
「ろくに面識もないんですから、人の名前を呼び捨てないでください」
立場上サァリとは無関係を装うらしい青年は、主の苦情を一蹴すると続けた。
「勝手ながら、あなたの大叔母上と少しお話しさせて頂きました。今回の件、名目上は借金返済の為ということでしたが、どうやら実際のところは昨今の情勢不安をふまえて、あなたをアイリーデに逃がした、という方が正しいようですね。この街ならば国が滅ぼうとも変わらず残り続けるだろうと」
「そ、そんな……わ、わたくしは……」
「あなたは勿論知らなかったことなのでしょう。ですが大叔母上はそう言っていましたよ。『アイリーデで生きるのに、一番待遇がいい館の伝手を探したが、辛いようなら辞めてもいい』と」
それを聞いて、二人の兄妹は顔を見合わせる。兄の方が先に首を捻った。
「待遇がいいって言えばいいんだろうけどな」
「王都の人間からすると狂人の総本山だよね」
「お前が言うな、こら」
小突かれて肩を竦める少女は、既に元の気だるげな様相だ。
生粋のアイリーデ人とも言える従兄妹たちを無視して、ヴァスはミフィルに頷いて見せる。
「この街でもう少し様子をみたいというなら、住み込みで働ける茶屋を手配します。王都に戻るなら口添えと援助をしましょう。好きな方を選びなさい」
てきぱきと進めようとする青年は、貴族というより有能な事務方だ。
ややあってミフィルは彼を見つめると、呆然と呟いた。
「どうして、そこまでしてくださるのです……? それともわたくしは、それほどまでに皆様にご迷惑をかけていたのでしょうか……」
「いえ、全然。あなたに問題はありませんよ」
ウェリローシアの青年は、玄関に立つ少女を左目だけで捉える。
「―――― 尻拭いをしてこいと、せっつかれまして」
サァリはそれを聞いた一瞬だけ、大きく目を瞠った。
※ ※ ※ ※
ミフィルは「すぐには決められない」と言って部屋に戻っていった。
ヴァスやトーマも各々の仕事があるらしく、シシュに冷ややかな目や苦言を投げかけて月白を後にする。
残ったサァリは眠たそうにしていたが、シシュが話をしたいと言うとあっさり了承した。
がらんとした花の間で、二人はテーブルを挟んで向かい合う。
お茶を淹れる腕に関して、兄とは雲泥の差を持つサァリは、青年の前に音をさせないよう白いカップを置いた。士官学校時代、よく飲んだ茶の香りにシシュは意表を突かれる。
「月白にもこの茶葉があったのか」
「あったんです。王都の人には懐かしいかと思って」
「確かに懐かしいが……」
何処となく気まずい気分だ。今までのことを思うと、彼女の前で昔を窺わせるような言動はしたくなかった。
シシュはさりげなく話題を転じる。
「怪我は治ったのか」
「うん、もうすっかり。シシュ添い寝してくれてたんだって? ありがとう。危うく殺しちゃうところだった」
「……いや」
元から時々つかみ所がなかったが、今はまったくもってどんな反応が返ってくるか分からない。
シシュは、少女が珍しく白い手袋をはめているのに目を留めた。サァリは視線に気づくと軽く両手を挙げてみせる。
「この手で普通にお茶淹れるとすぐ冷めそうでしょ。誰かに触って気づかれても面倒だし」
そう微笑む少女の唇は、以前と変わらぬ花弁色の紅だ。
血の気が薄いようにも、体温が低いようにも見えない。だが触れればそこは水よりも冷たい温度なのだろう。
シシュは湯気の立つカップの表面を見つめる。
「人ではなくなったと、聞いた」
「元から人じゃなかったけどね。化けの皮が剥がれたみたい」
からりと言う少女には、自嘲も後悔も見られない。ただ自然に自身の変化を受け入れているようで、それが余計にシシュの不安を煽った。青年は無意識にこれまでの記憶を辿りかける。
「もう戻らないのか?」
「さぁ……。少なくとも、私自身どうすれば戻るのか分からないし、戻りたいとも思ってないかな」
「淋しくないのか」
「今は感じない」
サァリは目を閉じると綺麗に笑う。
孤独ではないと、言う彼女は、だが行き着く前は確かに孤独を感じていたのだ。
我慢を見せない彼女がいつそうであったのか。振り返っても明確に心当たりが出せない自分を、彼は忌々しく思った。
サァリはふっと表情を消すと、広い花の間を眺め渡す。
「トーマにね、さっき目が覚めた時、先視の話をしたの」
「先視? 出来るようになったのか」
「ううん。私が見たものじゃないんだけど」
少しだけ沈黙が落ちて、シシュは心当たりに気づく。先視に優れているのは他でもない王の巫だ。ならばサァリが言っているのも、彼女より伝え聞いたことなのではないのか。
少女はカップに触れぬよう、持ち手だけを摘まむ。
「私ね、その先視を避けたいと思ってたの。だから色々動いてた。でもその話をしたら、トーマに『当たるはずないと思ってたから、黙ってたのか?』って言われたんだよね」
「どういうことだ?」
「たかをくくってたから、他の人間に協力を求めなかったのかってこと。私はそんなつもりじゃなかったけど、でも間違ってたのかも。一緒に寝ただけでシシュを殺しかけるんだもん」
「それに関しては俺が悪かった、というか何の関係があるんだ」
「何の関係があるんだろう」
お茶を飲む少女の目は、既に全ての興味を失って見える。
サァリは決して温まらない息を宙に吐いた。真っ直ぐに伸びて交わらない線上で、二人は向かい合う。
「シシュ、どんな話をしたい?」
「巫の話を聞きたい」
彼女に触れて、知っておきたい。
何が最善で、何が飲み込まなければならないことかを。
神である少女は何の感情もない微笑で彼を見上げた。
「じゃあシシュ、私の子供の父親になってくれる?」
「巫がそれを望むなら」
いつかも同じことを聞かれた。
今もあの時と、同じ地点にいるならばよかっただろう。
サァリはころころと笑う。
「なら……望まない。だからきっと生きて、幸せになってね」
手袋に覆われた手が、ほんの一瞬だけシシュの手に重ねられる。
それを最後として彼女は椅子を引くと、振り返らずに花の間を出て行った。
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