第83話 感傷


 呼ばれた気がした。

 自分に近い、だが遠いもの。そんな何かに呼ばれた。

 冷え切った寝台の中で、サァリはゆっくりと頭をもたげる。

 血に汚れた敷布は一度起きた時に捨て、今はまっさらな白い布の上だ。浴衣を背に羽織っただけの彼女は、傷一つない己の躰を見下ろす。

「……誰?」

 辺りを見回すが、部屋には誰もいない。

 サァリは寝台に頬杖をついてしばらく顎を支えていたが、やがて溜息をつくと着替える為に立ち上がった。




 ※ ※ ※ ※




 新参のミフィルの花代でさえかなりの高額だったのだから、サァリの花代となれば家一軒分くらいは飛ぶかもしれない。

 しかしそれでもシシュに、払わないという選択肢はなかった。アイリーデに残るには、この街の流儀で筋を通さなければ交渉地点にさえ立てない。

 その為の要求に、だがトーマは唖然とした顔から一転、シシュを叱りつけてくる。

「阿呆か! そんな筋通らないことが出来るか!」

「出来るだろう。客室に上がっていたことは事実だ。ミフィル・ディエの件と何が違う?」

「だから娼妓の本名呼ぶなっていうか、そんなのが通ったらお前、女を変えたって不文律破りでどっちみち出入り禁止だ」


 ―――― おそらく月白で、二人の娼妓を買ったという客の前例はないのだろう。居合わせた下女が呆然としていることからもそれは明らかだ。


 だがシシュは、無理を承知した上で微塵も退く気がなかった。きっぱりと言い放つ。

「どちらも主が許したことだ。一方が通って一方が通らないはずがない」

 シシュを主の間に通したのも、ミフィルに部屋札を手渡したのも、サァリ自身のしたことだ。そして彼女は最初から己の館の不文律を知っていた。出入りが許されない程の禁忌なら、彼女自身がその時点で留めたはずだ。

 階段を降りながらそう主張したシシュに対し、トーマは珍しく顔を引きつらせる。

「そりゃお前からは金取ってなかったからだろうが。屁理屈こねるな」

「屁理屈をこねているつもりはない。俺は、主の間で支払いをするに充分なもてなしを受けている。当然の対価だ」

「あいつが要らないっていっただろ。特例だ。特例」

「サァリーディが特例だというなら、他の娼妓と彼女を同列に扱う必要もないだろう。巫である彼女が普通の娼妓と同じ制限を受けるのはおかしい。―――― そしてもし特例でないなら、花代を払うのは当然だ。違うか?」

「お前……」

 トーマは詭弁を罵りたそうに顔を歪めたが、それ以上は何も言わない。正確には言えないのだろう。突き詰めれば、サァリの兄とは言え彼は月白の人間ではないのだ。ややこしい問題の是非を決められる権限はない。―――― 館主である彼女本人を連れてこなければ。

 そしてそれこそが、シシュの狙いだ。



 張り詰めた沈黙が月白の玄関に広がる。

 下女はどうすればいいのか分からないらしく、うろたえて二人の男を見やった。

 トーマが大きな溜息をつく。

「あーもー、計算してやれ。計算だけな。で、新参の女の身請け金も一緒に計算してこい。サァリの花代の数分の一だろうけどな」

「は、はい!」

 投げやりにも聞こえる男の指示は、だがシシュに折れてのものではなく、単に下女を立ち去らせる為のものであったらしい。二人だけになると、トーマはシシュに向き直った。普段の韜晦が完全に消え、冷えて静かな目が青年に注がれる。

「あのな……お前はサァリに甘いが、そういうのはもうやめろ」

 冗談でも揶揄でもない言葉は、ある種の重みをもって正統の館に響いた。艶のある木の廊下に、二人の男はまったく異なる影を引いて立つ。

 神の血を引き、神供を継ぐ家の次期当主として育った男は、剥き出しの厳格さをもってシシュに告げた。

「サァリはな、月白の主なんだ。黙ってても欲しがりゃ誰かがくれると思ってる、そんな浅ましい女に、あいつをするんじゃない。俺も祖母も、あいつがそうならないよう厳しく躾てきた」

「……普通の娘よりも我慢を強いてきて、周囲がそれに報いることも許さないというのか?」

「欲しけりゃ口に出して言えばいい。それが出来ないで甘ったれてるのは、ただのガキと同じだ」

 軽い軽蔑さえ漂わせて、男は断言する。

 それが、トーマ・ラディの引いた一線なのだろう。月白の主であるならば、堂々と胸を張るべきだと言っている。

 誰に恥じ入ることなく、美しく傲然とした支配者であれ、と。

 ―――― だが、それはアイリーデの人間の意見だ。



 硝子の鳥が欲しいと、幼い少女が素直になれなかったことが、一体どれ程の恥だというのか。

 シシュは友人に反論しようとして―――― けれど人の気配を感じ振り返った。花の間へと続く廊下、黒い柱の影に一人の女が立っている。

 彼女はシシュと目が合うなりうつむいた。トーマが青年につられて廊下を振り返る。

「あ、お前が噂の娼妓か。ちょうどいいから荷物纏めてこい。身請けさせてやる」

「え……あの……」

 青ざめて強ばった顔からして、もっと前から話を聞かれていたのかもしれない。白い割烹着姿なのは掃除でもしていたのだろう。ミフィルは足下に視線をさまよわせると、救いを求めるように再びシシュを見た。その視線に、彼は数年前のことを振り返る。



 何を求められているのか、分からなかったのは事実だ。

 視線さえもない。彼女は肝心な時、いつも顔を覆って泣いていたのだから。

「結婚しなければならなくなった」と、言われた時でさえ彼女の望むことが分からなかった。

 だから終わったのだろう。つまりは、それだけの話だ。



 化生斬りの青年は感傷を退けると、過去の温情を忠告として返す

「……貴女は、娼妓に向いていない。俺はアイリーデに来て長いわけではないが、それでも貴女がこの街に合わないとは分かる。この街の娼妓は、神への返礼として存在する自分たちを誇りに思っているからだ」

 勿論、アイリーデにいる全ての娼妓がそうであるわけではないだろう。同じ面をつけた彼女たちの中身は、普通の人間がそうであるように多様だ。

 だが、この街の根源が神への返礼であることには変わらない。だからアイリーデの住民たちは自ら望んでここに在る。その理念を守る為に、女は自身の子を犠牲にしなければならないことさえあるのだ。

 だからミフィルは、この街に―――― 正統月白にいるべきではない。


「ミフィル・ディエ。貴女が見ているのは神でも客でもない。自身の不幸だ。そしてそうである限り、貴女はアイリーデの娼妓にはなれない。王都から来た人間のままだ」

 どちらが正しいとも、良いとも言えない。

 ただ違うのだ。

 サァリはそのことを見抜いていた。シシュも自分で分かっている。

 ミフィルも……おそらくは気づいているだろう。

 青ざめて頼りなげ女を、彼は感傷を捨てた目で見つめる。

「もし王都に帰る気があるなら手は貸す。ただ、俺は身請けはしない。王都にも帰らない」

「キ、キリス様……」

「俺はアイリーデの人間ではないが、自分の意志でここにいる。それを曲げてまで貴女を助けることはしない」



 何の為に、と聞かれたら「サァリーディの為」と答えるだろう。

 アイリーデの人間が神の為に生きているように、彼も彼女の為にこの街にいる。

 彼女が孤独に泣かずとも済むように。

 そのような感情をなんというのか、彼は知らない。



 固まってしまったミフィルを見て、トーマは苦い顔になった。腕組みをしてシシュをねめつける。

「お前、そういうのは初回に言え、初回に。変な期待を持たすからややこしくなるんだよ」

「遠回しに言ったつもりだったんだ」

「お前の遠回しって、ずれてるか本当に遠すぎるかのどっちかだからな。それで伝わるはずないだろ」

 シシュの頭を軽く小突いたトーマは、何かに気づいたのかふっと顔を上げた。遅れてシシュも振り返る。

 離れから続く渡り廊下の出口、玄関へと続く通路を一人の女が下女を連れて歩いてくる

 白い浴衣をしどけなく羽織り、帯を締めただけのサァリは、おかしな空気を漂わせる三人を見て首を捻った。

「どうしたの? 皆で朝の掃除?」

「違う。サァリ、清算の話は聞いたか?」

「聞いたけど。よく意味が分からなかった」

 そう言ってじっとシシュを見てくる青い目は、透き通る硝子球のようだ。そこには何もなく、見通すべきものも存在しない。

 造作は同じでありながら人形のように変わってしまった表情に、青年は内心緊張する。

 トーマが妹の疑問に答えた。

「こいつに新人を身請けさせようとしたら、それは嫌なんだと。代わりに何故かお前の花代払うって言ってる」

「え。それ、月白はすごく儲かるけど、シシュ破産しちゃわない?」

「……どうせ他に使い道もない」

 金額の膨大さをさらりと告げてくる言葉に、嫌な予感を覚えないわけではなかったが、使うあてのない財産よりも、今は彼女との繋がりを切らないことの方が肝心だ。人ならざる女は蒼白な顔色のミフィルに視線を転じる。

「でもなぁ。シシュは彼女のお客さんだし。私が花代貰っちゃったら二重取りになっちゃう」

「サァリーディは、それが月白では禁忌なのだと説明しなかっただろう」

「しなかった。ごめんなさい」

「説明不足での契約は無効だというのが、王都では普通なんだが。譲ってくれないか?」

 サァリは感情のない青い双眸を彼に向けたまま、小首を傾いだ。

 何を考えているのか、その表情からは分からない。まるで無限の虚のようだ。

 月白の主は三人の顔を順に見回す。

「譲って、何か変わる? 私は彼女を身請けする方をお勧めするけど」

 澄んで細い声は、不思議な程に余分なものが何もなかった。

 執着のない氷人形―――― そんな単語を瞬間連想し、シシュは自分を叱り付けたくなる。

 サァリは震えているミフィルを見やった。

「フィーは王都に戻りたいよね? この街はやっぱり貴女の思っていたのとは違うから。それとも、もうちょっと不幸を味わってたい?」

「ぬ、主様……」

「別にいいよ。余所から来た人は、みんな最初そうだから。ずっといれば染まってくるけど」

 どうでもいいことのように放り投げられた言葉は、ミフィルをぞっと強張らせた。

 サァリは下ろしたままの銀髪を無造作にかき上げる。その白い首筋から開かれた胸元までは傷一つ見えない。シシュはそのことに気づいて、安堵と若干の落ち着かなさを味わった。

 彼女は三人に手を振って踵を返す。

「なんでもいいよ。決まったら教えて。ある程度は融通利かせるから」

「―――― なら、こういうのはどうですか」


 新たな声は、玄関の戸が開くと同時にその場にもたらされた。

 覚えのある声音にシシュは振り返る。隣にいたトーマが思いきり渋面になった。

 足を止めたサァリが珍しい来訪者を見て、目を丸くする。

「何? 言ってみて」

「そこの気の利かない化生斬りがミフィル・ディエに対し持っていた権利を、私に書き換えてください。そして私が彼女を身請けして、王都に送り届けましょう」

 彼はそう言うと一同を見渡す。

 痩身に似合う洋装と棘のある皮肉げな表情。

 王都貴族の青年、ヴァス・エルト・ウェリローシアは、思い出したように左目だけを軽く細めた。

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