第82話 花代



 ―――― 言われた意味がよく分からない。

 単に「王都に帰れ」と言われただけならともかく、どうしてそこで身請けの話が出てくるのか。

 訝しさが表情に出たらしく、トーマが呆れ顔で補足してくる。

「お前、最近ここで女買ってただろ。旧知だっていう女。そいつのことだ」

「………………忘れてた」

「お前って本当時々最低だな」

「ぐ……」

 何と言われても、忘れていたのは事実なのだ。昨晩から色々なことが重なってすっかりミフィルのことまで気が回らなかった。

 シシュは頭を抱えかけて、だが一応弁明を試みる。

「別に買ってた訳じゃないんだが」

「事情は聞いたけどな、女が選んで一緒に客室に入ってりゃ、そりゃ買ってるのと同じだろ」

「……そうかもな」

 今までサァリの厚意に甘える形になっていたが、はたから見たらそうでしかない。

 シシュはがっくりとうなだれた。理解すると同時に様々なものがのしかかってくる。

「しかし、身請けすると月白に出入り出来なくなるんだろう?」

「お、お前それ知ってたのか。知ってたのか! どうしたんだ、お前!」

「俺が知ってるとそこまで驚くのか……。さっき教えてもらった」

「イーシアか。あいつ、今教えるなら最初に止めろっての」

 がりがりと頭を掻く男は、自分が関わらないでいた一連の出来事を忌々しく思っているようにも見える。

 そこでシシュはようやく、言われた言葉について意識を戻した。

「―――― 王都に戻れと、言ったか」

 それが今までのように一時的な帰郷を意味しているのではないことは、シシュにも分かる。トーマは月白から、アイリーデの全てから彼に手を引けと言っているのだ。

 聞き返された男は苦笑する。

「あのな、意地悪とかで言ってるわけじゃないんだ。その女のことも、鈍いお前に問題はあったが、何も言わないサァリが悪い。月白の流儀を教えないで部屋札を渡したんだからな」

「月白の流儀?」

 ひょっとして身請けについての話を知らなかったように、いつの間にか問題を起こしていたのだろうか。

 シシュが眉を寄せて悩んでいると、トーマが座卓を指で叩いた。

「そう。月白ってのは基本、客に女を変えさせないんだよ。常連ってのは広間に入り浸って客室に入らないか、同じ女を買い続けてるかのどっちかだ。一度一人の女を買えば、他の娼妓はもうそいつを選ばない。だから普通、月白の女は化生斬りも選ばないんだよ。何かって時に中に入れなくなると困るからな」

「それは、まさか……」

 問題の一つは「彼がミフィルの客である扱いになっていた」ということ。そしてもう一つは「巫が神供を迎えるのも娼妓として」ということだ。知らぬうちに自分がどういう立ち位置にいたか、ようやく認識したシシュに、トーマは呆れと哀れみの混ざった眼差しを向ける。

「ま、つまりお前はもう神供になる資格がないってことだ。現に最近、主の間に通されなかっただろ? 人生何が起こるか分からないよな」

「…………」

「だからサァリが悪いんだ。あいつ、新参に不文律教えないのは酷いとか言っといて、いざ自分の領域になったら教えないんだからな。つまらん意地を張るから結局自分に返ってくる」

「いや……俺が悪い」


 彼女の様子がおかしいと、思うことはあったのだ。

 月白にミフィルが来た時から、或いはその以前からも。

 だが結局、突っ込んで問い詰めることはしなかった。

 自分は、鬱陶しい程細やかに世話を焼く兄とも、彼女に大人になるよう急いた幼馴染みとも違う、彼女自身が選びたいようにする余地を保ってやりたいと、思っていたのだ。


 しかし結果としてそれは、彼女への無関心と同義になっていたのだろう。

 ミフィルのことも、その性格を知っているからこそサァリに迷惑をかけないよう制止していたつもりだが、逆に思いきり迷惑をかけていた。

 事情を知って自身の行動を客観視した青年は、座卓に額を打ち付ける。

「……悪かった」

「凹みすぎだろ、お前。サァリが悪いって言ってるだろうに」

「…………」

 何と言われても返す言葉がない。最近アイリーデに慣れてきたという密かな安堵が、迂闊な行動に繋がったのかもしれない。

 とりあえずサァリに謝罪しようと心に決めた青年は、だが「続きを聞け」と言われて顔を上げた。見るとトーマは、珍しく真面目な顔で彼を見ている。

「いいか? お前は確かに鈍感だけどな、問題はサァリの方なんだよ」

「意地を張ることなど誰にだってあるだろう……。ましてやサァリーディはこの館の主だ」

「すぐ庇うなこら。じゃなくて、あいつ自身がもうおかしいんだ」

 男の端正な顔が苦渋に歪む。

 それは、言うことを躊躇っているようにも、起きてしまったことを後悔しているようにも見えた。

 自然と緊張を抱くシシュに、少女の兄である男は重い息をつく。

 聞かされた言葉は、シシュが予想もしなかったものだった。

「サァリはな、思考からして完全に人じゃなくなってる。―――― お前の知ってるあいつはもういないんだ」



 人ではないと、聞いた時にまず思ったのは「何を今更」というものだった。

 彼女が人間ではないことくらい分かっている。だがそう言い返そうとしたシシュは、彼女の体の異様な冷たさを思い出した。それを問い質した時、サァリの様子がおかしかったことも。

 思わずシシュが押し黙ると、トーマは立ち上がり、お茶のお代わりを淹れ始めた。

「お前も心当たりあるだろ? ってか抱いて寝たんだから気づくよな」

「あれは……力を使いすぎてああなってるんじゃないのか?」

「違う違う。今はあっちが平熱だ。熱ないけどな。変な意地を張り通したのも、その変質が影響してるかもしれない。人への執着が異常に薄くなってる」

 ―――― 思考からして人ではない、とはつまりそういうことなのだろうか。

 シシュは、冷め切った湯が茶葉に注がれていくのをぼんやりと眺める。

「ディスティーラは、そういう感じに見えなかったが」

「あ、こら馬鹿。名前呼ぶな。ってか、あれは交合前に切り離されちまった神性だからな。どうしても幼いんだよ。サァリとは逆だ」

「逆というと」

「サァリは交合を経ずに一人で神性を合一させた。いつか言っただろ? 擦り寄せしてるって。まさかそれであんなになるとは思わなかったけどな」


 明確な切っ掛けがあったわけではないだろう、とトーマは言う。

 ただサァリは、兄神から操作を受けたことに対して強い危機感を持ち、「力をつけねば」と思ったらしい。

 そして術の訓練や力の統御に集中し、おそらくは彼女の意識自体も引きずられて、少しずつ変質していった。人への執着や子供らしい率直さが薄らぎ、そうして自ら人を遠ざけた彼女は、緩やかに孤独に慣れていったのだ。


「で、孤独を当然と飲み込めば、より人から遠くなるわけだ。いい悪循環だな。お前のことに関しても、最初はなんとなくで遠ざけたんだろうが、お前がそれに乗ったら疎外感で余計人から遠ざかった。昔っからあいつ、そういう変な意地を張ることがあったんだが、ここまで突き抜けちまうとな。まだ普通に駄々を捏ねられた方が始末がよかった」

 舌打ちしながらトーマは、新しい茶をシシュの湯飲みに注ぐ。お湯がぬるすぎるのに加えて浸出もまったくされていない、ほぼお茶風味の水だ。

 シシュは黙ってそれを飲む。

「変わったとは、それほど前と違うのか」

「違う。大雑把に言っちまうと無関心の塊だ。情動が薄くて冷え切ってる。今までは散々お前を煽ったけど、さすがにあれの面倒を見てくれとは言えん」

「だが、昨日はそこまでじゃなかった」

「そりゃ頭は普通に働くからな。今まで通り振る舞うことも出来る。でも、感情がついてこないんじゃ駄目だろ。俺も一応お前の友人のつもりだからな。氷人形を押しつける気はないさ」

「氷人形……」

 男のその言い方に、シシュは少なくない衝撃を受ける。

 トーマも好きで突き放したことを言っているのではないだろう。つまりそれだけ、今の彼女が人から遠いということだ。

 お茶の香りだけがかろうじて分かる水を、シシュはじっと見つめる。

「だから王都に帰れと?」

「戻る見込みもないからな。古き国の王に呼ばれた最初の神は、人と交わって人の温度を得た。いわば人に半分歩み寄ったってことだ。けどサァリはその逆を行ってる。これ以上無闇に関わると、国に障るぞ」


 沈黙が落ちる。

 昼の光が差し込む主の間は、シシュの記憶にあるよりも乾いて遠く見えた。

 常に埃の一つもなく磨かれている床の間を、彼は振り返る。

 陶磁の花器は空っぽで、今はもう使われていない部屋のようだった。



 夢の中で聞いた言葉を思い出す。シシュは黙って湯飲みの水を飲み干した。顔を上げ、向かいの男を見据える。

「……サァリーディと話したい」

「やめとけ。というか放っとけ。あいつに関してはもうアイリーデの問題だ。それに、ちょうど余計な神が他にもうろうろしてるしな。サァリの判断は正しいっちゃ正しい」

「だが一対一であれだけの深手を負ったんだ。巫一人を矢面に立たせる訳にはいかないだろう」

「それでも、敵が増えるよりはましだ。王都の問題は王都で、アイリーデはアイリーデで対処した方がいい」

 空になった湯飲みに、トーマはついに水差しから直接水を注ぐ。

「いいから戻れ。王へは神供三家からちゃんと送還の事情を書簡で説明しとく。どっちみち残っても神供になれないって分かれば、王も聞き入れるだろ」

 ―――― 結局は、そこに戻ってくるのだ。

 アイリーデにいても、彼は何者にもなれない。むしろ王都の諸々を持ち込んで事態を悪化させるだけだ。そうしてミフィルと月白で揉めてしまったように。

 トーマはシシュの返事を待たず立ち上がる。

「とにかく、その女の身請け金を下女に計算させるからちょっと待ってろ。新入りだからそう高くはないだろうが、迷惑料として俺が半分出してやる」

「待て。どんどん話を進めるな」

 聞かずに廊下に出て行った男を、シシュは慌てて追う。

 日の高い時間、他の娼妓たちは眠っているのだろう。静まりかえった月白の廊下を、二人は玄関に向かって足早に歩いて行った。

 トーマは自分を留めようとする青年を軽く手で払う。

「どんどん進めるな、って言ったって、お前たちに任せとくと全然進まない上にこじれたりするだろ」

「こじれないよう巫と話し合ってくる」

「やめとけっつの。俺と同じようなことを言われるだけだ。あいつにとってお前はもう他の女の客なんだよ」

「部屋に入るか入らないかが違いか?」

「というか、金払ってるか払ってないか。じゃないとお前、散々主の間に入り浸ってただろ」

「主の間に……」

 ずぶ濡れだった彼に手を差し伸べた時から、サァリは娼妓を苦手とする彼の為に、自分の客室を解放してもてなしてきたのだ。

 いつ来ても当然のように部屋に招いてお茶や膳を出してくれる彼女に、シシュは何度か食事代を払うと言ったが、彼女はそれを固辞した。対価を払うことの本当の意味を、主である彼女は知っていたからだ。

 ―――― つまりそれは。


 シシュは、階段を降りていく友人の背を眺める。上がり口にいた下女が突然現れた男に目を丸くしたが、トーマは気にせず少女を手招いた。

「悪い。ちょっと計算頼む。主の許可は得てるから」

「あ、はい。何を計算しましょう」

「今までの分の対価を」

「は?」

 割り込ませた声にトーマが振り返る。驚いたようなその顔を、シシュはだがあえて無視した。階段の上に立ったまま、月白の三和土を見下ろす。

「サァリーディが、いつ俺を主の間に上げたか記録があるだろう」

 主がまた娼妓というなら、月白の流儀に従わなければいけないのは彼女もだ。

 だからシシュは当然のように続ける。途切れかけた糸を繋ぐ。

「主の花代を計算してくれ。遅くなったが、全て払わせてもらう」

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