第81話 泡沫



 白い砂利道に、鮮やかな血溜まりが出来ている。

 空を染め上げる閃光と爆音に、屋敷を出て様子を見に来たテセド・ザラスは、周囲の部下たちを振り返った。

 見回りをしていた彼らの中に怪我をした者でもいるのかと思ったが、男たちは揃って首を横に振る。

 ―――― ということは、私有地であるここに誰かが侵入していたのだろうか。

 獣の血、という可能性も考えながら、老人は砂利道の上に屈みこむと、まだ固まりきっていない血に触れた。

 そして、唖然とする。

 艶めかしく揺らいでいる赤い血液。それは、氷水のような温度を持ち、触れた指先を痺れさせる、「何か」であったのだ。




 ※ ※ ※ ※




「私にとってシシュはね、あの硝子の青い鳥と同じだったんだよ」

 少女の声が聞こえる。

 頭の中に直接響くその言葉は、けれど彼に語りかけているものではないのだろう。誰に聞かせる気も無いぽつぽつとした述懐に思えた。

 シシュは、染み入るような哀切の感情に痛ましさを覚える。

「すごく綺麗だった。だから焦がれた。でも手は届かないの。私とは違うものだから」

 ゆっくりと滴る囁きには、一つ一つに詰めるだけの思いが詰められている。

 声音こそ平坦であったが、それは内に溜まった思いを言葉として、外に零しているがゆえのものに感じられた。彼女はそうして、我慢を我慢とも思わず毅然と生きてきたのだ。己の役目を十全に果たそうと努力してきた。

 自嘲に似た気配が伝わってくる。

「あの鳥はトーマがくれたけど、シシュは飾り物じゃないから……」

 少しの間が開く。最後の一滴を絞り出すように、涙に似た呟きが落ちた。

「だから―――― もういいの」

 長い溜息。それを聞いて、シシュの体は縛から解かれる。ようやく息を吸い込んだ。

 自分が何処に立っているかは判然としない。

 はっきりとした視界もないのだ。だがシシュはそこを「石室だ」と思った。

 ゆらゆらと定まらない世界の中、彼は周囲を見回す。

 離れたところに、一際明るい光が感じられた。

「サァリーディ」

 その名を呼ぶ。光に向かって手を伸ばす。

 彼女の姿は見えない。声が届いているのかどうかも。

 ただ静かに輝く光へと、シシュは少しずつ近づいていく。

 畏れはない。

 身を溶かす白光の中へ彼は足を踏み入れた。少女の名を呼ぶ。

「サァリーディ、そこにいるのか?」

 呼んで、また手を伸ばす。彼女に一歩近づく。

 その直後、彼の体は何の前触れもなく、遥か後方に引きずられた。



「―――― お前、何してる!?」

 鼓膜を破りかねない程の怒声に、シシュは遅れて現実へと引き戻された。床の上に投げられた自分の体を見、ついで自分の襟首を掴んでいる友人を見上げる。おかしな起こされ方をした為か、頭がすぐには回らない。彼は寝台に視線を移し、そこで眠っている少女に気づいた。血まみれではあるが半裸の彼女を見て、ようやく自分が何を言われているのか理解する。

「待て、違う、誤解だ……」

 この状況で妹を溺愛する兄に見咎められては、問答無用に斬り捨てられる可能性さえある。

 シシュははっきりしない意識で弁明を試みた。

「いや本当に何もしてない……」

 疚しいところが皆無かと問い詰められたら自分でも怪しく思うが、問題になるような一線は少なくとも越えていない。そんな弁解の仕方でいいのか分からないが、弁解しようとしたところでシシュはまた、上から叱りつけられた。

「そういうことを言ってるんじゃない! 死ぬ気か、この馬鹿!」

「……は?」

「これ以上生気吸われたら昏睡するぞ! いいから安静にして体温戻せ、俺が代わる!」

 床に座ったままのシシュの肩に、後ろから女の手が触れる。膝をついたイーシアのその手は、シシュにとって熱湯のように温度差のあるものに感じられた。自身の体が異常に冷えていることをそれで自覚した青年は、眠ったままの少女に視線を戻す。

 先程よりは顔色がよくなっているだろうか。だが目覚める気配のないサァリを、トーマは寝台に上がって座り込むと膝の上に抱き込んだ。細い体を掛布でくるんで目を閉じる。

「ともかく、話は後で聞くし、こっちから話したいこともある。今は主の間に行って寝てろ。イーシアに薬湯を淹れてもらえ」

「……悪い」

 危ないから触れるなと言われたのに、自分から生気を分けておいて昏睡してはサァリに合わせる顔がない。

 シシュはイーシアの手を借りて立ち上がると、眩暈のする額を押さえた。ぐらりと傾ぎかけた視界に、窓の桟に吊された青い小鳥が入る。

「あれは―――― 」

 夢の中で聞いた言葉は気のせいではなかったのだろうか。

 シシュは、トーマが贈ったというそれを近くで見たいと思ったが、既に目を閉じている兄妹の邪魔は出来ない。彼はそのままイーシアに促され、離れを後にした。随分久しぶりにも思える座敷に通される。

 イーシアは、鉄の急須で薬湯を用意しながら、奥の襖を指さした。

「寝所の用意は出来ております。着替えも用意いたしましたから、どうぞお使い下さい。自警団には連絡を入れておきました」

「ああ……済まない」

 どうにも頭がぼんやりして仕方がない。気を抜けば倒れてしまいそうだ。

 座卓に両肘をついて額を支えたシシュに、イーシアは微苦笑して薬湯の入った湯飲みを差し出す。

「お察ししますわ。かなり体力を持って行かれたのでしょう」

 言われてシシュは、普段サァリが体調を崩した際に、同衾を買って出ているのがイーシアだと思い出した。線の細い彼女を感心の目で眺める。

「あれはきついものだな。サァリーディの助けになればと思ったが」

「深手を負ったせいでございましょう。主を庇って下さってありがとうございます」

 頭を下げる女は、いつも通り柔らかい物腰ではあったが、シシュは言葉にしがたい気まずさを覚えて仕方なかった。

 元を辿ればサァリが隣国へ赴いたのも、そこでディスティーラと衝突したのも、王都の揉め事やシシュ自身が原因なのだ。むしろ「彼女を危険な目に遭わせてすまない」と謝りたいくらいである。

 シシュが苦い薬湯を飲み干すと、イーシアは腰を上げる。

「少し花の間を見て参ります。申し訳ありませんが……」

「いや、手を煩わせて悪かった」

 この時間にサァリもイーシアもいないのでは、さそがし女たちは困っているだろう。むしろ自由を味わっているのかもしれないが、それはそれで客が困りそうだ。

 イーシアは襖の前で両手を揃えると丁寧な礼をする。貴族の血を引く女は、顔を上げると多くを含んだ目でシシュを見つめた。

「シシュ様、後でトーマが色々申し上げるかもしれません」

「……覚悟はしている」

「ですからその前にわたくしから一つだけ。―――― トーマは何故、わたくしを身請けしないのだと思いますか?」

「トーマが?」

 何の関係がある話なのだろう。

 シシュは怪訝に思ったが、イーシアは意味の無い悪戯をしかけてくる人間ではない。彼は少し考えて、理由と思えるものを口にした。

「失礼だが、家の反対にあっている、とかか?」

 ラディ家は王都でも名家の一つなのだ。いくらアイリーデの正統とは言え、娼妓を妻にすることに反対されているのかもしれない。

 しかしそれを聞いたイーシアは苦笑してかぶりを振った。

「ラディ家も神供三家の一つです。月白の娼妓を厭うことはいたしません。ただ単に、この館で一度娼妓を身請けした客は、もう客室には通されなくなるのです。それが理由です」

「客室に通されなくなる?」

 そんな話は初耳だ。

 だが確かに、それならばトーマが彼女を連れ帰らないのも分かる。客室に通されなくなっては、妹の様子を見るのに不都合になるからだ。加えて姉代わりのイーシアがいなくなれば、ますますサァリが心配になってしまうだろう。

 そう納得したシシュに、イーシアはさらりと付け足す。

「あなた様も今、同じ問題に突き当たっていらっしゃるのですわ」

「……俺が?」

 ―――― 身請けの問題などまったく心当たりがない。それとも何か神供で関係する話があっただろうか。

 思わずシシュが思案顔になると、イーシアは美しい笑顔を見せた。

 娼妓として整えられた貌。だがそこに潜むものは、彼女たちなりの深い情だ。長い睫毛が透明な憂いを含んで伏せられる。

「ええ。ですからどうかお気をつけください。アイリーデの人間は皆……業が深いのです」

「…………」

 それは、サァリもまた負うものなのだろうか。一人になったシシュは、寝所に向かうとあらがえぬ疲労に倒れ込みながら考える。

 落ちていく夢は、もはや石室には繋がっていない。

 彼はそれを少し残念に思って、涙を零す少女の横顔を思い出した。



 どれくらい眠っていたかは分からない。

 目覚めた時、既に外は明るく、シシュはだるさの残る体を引きずって部屋の風呂を借りた。用意されていた着物に着替えたところで、見計らったようにトーマが訪ねてくる。

 やはり妹に生気を明け渡したのか疲労の漂う顔色の男は、座卓を挟んでシシュと向かい合うと、手ずから濃い茶を注いだ。それをぞんざいにシシュへと押し出す。

「まずな、何があったかはサァリから聞いた」

「巫は目を覚ましたのか!?」

「起きた。今はもう寝てるけどな。色々説教はしといた。母親のことも巻き込んで済まない」

「それは……」

 やはりディスティーラは、彼らの母であるらしい。

 言葉に詰まるシシュに、トーマはだが気にした様子もなく続けた。

「あれについてはこっちで何とかする。本当は両親の問題なんだが、あの二人は役に立たないからな。俺とサァリで対処するしかない。ま、少なくともこれ以上、お前に迷惑はかけないから大丈夫だ」

「俺は別に平気だが……。それよりテセド・ザラスのことで巫に迷惑をかけてる」

「それに関しては手を引かせる。悪いがこっちの調べた情報は全部渡すから、王都で対処してくれ」

「分かった」

 元より、アイリーデの巫をそのような問題に関わらせる気はない。

 シシュが二つ返事で頷くと、トーマは「後で文書に起こす」と片付けた。

 とんとん進んでいく話に安心して、シシュは下手な淹れ方のお茶を啜る。飲むといい茶葉であることが分かるだけに、雑な扱いに軽く腹が立った。

「どうして酒蔵の息子が、こんなに茶の味に鈍感なんだ……」

「味は分かるが淹れ方が分からん。文句があるなら酒を飲め」

「酒を飲むと疲れる」

「損な体質だな。お前って本当色々損してるよな」

「放っとけ……別に損と思ってない……」

 むしろトーマとサァリの兄妹さえ手加減してくれたなら、多少疲労感も緩和する気がする。

 しかし当の男は平然と自分の分の茶を飲み干しただけだ。

 そして雑談の続きのように口を開く。

「で、だ。シシュ」

「今度は何だ」

「その女のことな。お前はそいつ身請けしてもう王都に帰れ。今まで迷惑かけて悪かった」


 ―――― ことり、と音を立てて空になった湯飲みが置かれる。

 シシュはそれを見ながら、何を言われたのかすぐには理解出来なかった。

 その女とは誰か、どうして身請けの話が出てくるのかを考えようとする。

 だが、寝耳に水のせいか思考は回らず、思い出せたのはただ「アイリーデの人間は業が深い」という言葉だけだったのだ。

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