第80話 二柱
ディスティーラ。
それは、王の巫より伝えられた名だ。シシュ自身が将来呼ぶであろうと言われた名。
事実彼は、金の狼を前にしてその名を呼んだのだ。そして現れた彼女のおかげで命を拾った。
何処かサァリに似た、透き通る体を持つ少女。「次はお前を迎えに来る」などと言われたが、その言葉について真剣には考えていなかった。
一応トーマやサァリにはその名を伝えたが、サァリは首を傾げ、トーマは面のような無表情になってしまった。特に兄の方の反応に詳しいことを聞くのも憚られ、結果として日が経つごとに彼女の存在は曖昧な幻として、シシュの中で薄らぎつつあったのだ。
ひんやりと冷たい水の腕が、彼の体を捕らえる。
人ならざるそれを唖然として見ていた青年は、だが後ろから思いきり服を引っ張られて上半身をのけぞらせた。サァリの声がすぐ横で聞こえる。
「意識保って! 連れてかれるよ!」
「連れて行かれる?」
「邪魔をするな、小娘」
目の前で白い火花が散る。
二人の力が衝突したと思しきそれは、宙を舞いシシュの体に降り注ぎかけたが、彼は咄嗟に軍刀で飛沫を払った。
刃はついでのようにディスティーラの腕を掠めて通り過ぎ、半透明の少女は舌打ちして手を離す。その間にサァリが二人の間に割り込んだ。
「シシュ、下がって!」
見下ろせばすぐそこにサァリの小さな頭がある。普段月の光で艶やかに見える銀髪は、今はそれ自体うっすらと発光していた。
冷気を纏う指先が、宙に浮かぶディスティーラを指す。
「名を呼ばれて縛を逃れたか。過去の亡霊が」
「亡霊? 異な事を言う。吾らは存在する限り神だ。おぬしがそうであるのと同じようにな」
からからと笑う少女は、降り注ぐ月の光に輪郭を照らされ、細い体自体が燐光であるかのように見えた。
亡霊でないと言う割に亡霊にしか見えないディスティーラを、シシュはサァリの肩越しに注視する。
「サァリーディ、あれは……」
「気をつけて。あれ、私と同格だから」
ということは、予想はしていたが人の力で敵う相手ではないということだ。
否が応でも緊張を覚える彼を、ディスティーラは艶然と目を細めて見下ろしてくる。
「そう畏れずともよい。おぬしは神供になる為の男であろう。その小娘の力が染み込んでいる」
「それは……」
かつて同じことをネレイにも言われた。
神である者たちからすると、よくサァリと共に化生を追っているシシュは、そのような状態に感じられるのだろう。
だが、だからと言って、他の神の供物に連れ去られる筋合いはない。青年は軍刀の柄を固く握り治した。
サァリが左手で彼を制したまま吐き捨てる。
「あなたにどうして神供が必要か。何の役目も持たない残響に、どうして人が神供を捧がねばならない?」
「神供を得られるなら役目は果たそう。元より吾はそのつもりだった。吾を拒絶したのは人の方ではないか」
少しの傷が、ディスティーラの瞳によぎる。
サァリもそれに気づいたのか細い肩が僅かに震えた。似て非なる二柱の神。宙に浮かぶ少女は傾いて嗤う。
「吾は拒絶された。だがおぬしは……己の神供を拒絶したのだ。ならばどちらが神供を受け取るにふさわしいかは歴然だろう。捨てたものを誰が拾おうが勝手だ。おぬしに口出しする権利はない」
挑戦的な眼差しが、二人へと突き刺さる。
―――― ぎり、とサァリの歯軋りが聞こえた気がした。
前にいる彼女の表情は見えない。シシュは言われた内容を反芻して聞き返す。
「サァリーディ……俺は捨てられてる扱いなのか?」
「今そこにつっかかられるとややこしくなるから黙ってて!」
「…………分かった」
本当は詳しく聞きたい話だが、それをしている場合ではないということは分かる。
サァリは玉石を鳴らして宙に浮かぶ少女を睨み上げると、白く光る右手を前に構えた。
凝縮された冷気が、背後にいるシシュの体をも冷やしめていく。
人である彼を置いて、サァリは一歩前に出た。
「彼は、月白の客だ。あなたに渡すことは出来ない」
「ならば吾がおぬしに替わろうか? アイリーデも月白も、蛇もまとめて面倒を見てやろう。吾もまた、あの街の主人であるのだからな」
無邪気な自信を窺わせる少女は、そう言うと指だけでシシュを手招く。
冴え冴えとした月光の中、サァリの低い呟きが彼の耳にだけ届いた。
「ずるいこと言わないでよ―――― お母さん」
「は?」
聞き返す間に、サァリは砂利道を蹴って宙へと跳ぶ。
笑い声を上げるディスティーラと彼女との間で激しく火花が飛び散り、広がる夜の森を白光で照らした。
膨らんだ月よりも目立つ神同士の衝突を仰ぎながら、シシュは聞いたばかりの言葉を反芻する。
「……母親? サァリーディの?」
サァリの母親ということは、トーマの母でもあるということだ。そしてその人物は、現在王都でラディ家当主の妻となっている。間違ってもこんなところで半透明な少女をしているはずがない。
だがそこで、青年は微かな引っかかりを覚えた。
「いや、確か……」
シシュは記憶の糸を手繰り寄せる。以前トーマに聞いたのだ。『母は神としての側面を父に拒絶され、己から切り離して封じた』と。
それが本当ならば「ディスティーラ」とは――――
一際激しい爆音が上がる。
木々が揺れ、森の中が大きくさざめいた。
自身の思考に気を取られていたシシュは、はっとして夜空を見上げる。月の中、弾き飛ばされるようにして落ちてくる少女の影が見えた。それが誰だか分かった彼は、彼女を受け止める為に走り出す。砂利道の上に叩きつけられかけた少女は、青年の手によってその寸前で腕の中に引き取られた。
逃がしきれなかった衝撃によろめきながらシシュはサァリを道に下ろすと、何もない中空へ刃を振るう。
鋭く空を斬る刃。直後、夜の中に、ディスティーラの短い悲鳴が上がった。砂利の上に座り込んでいたサァリが、目を丸くして化生斬りの青年を見上げる。
「何したの?」
「ここにいる気がしたから斬っただけなんだが……」
別段、特別なことをしたつもりはない。
だがそう言った彼はふと、己の軍刀に残る血曇りに気づいた。先程アイリーデで黒衣の男を斬った際についた血を、そのままぬぐい忘れていたのだ。
「これのせいか」
怪我の巧妙とも言える幸運だが、喜んでいられる状況でもない。
シシュは自分の両腕にべったりとついた血を見て、足下の少女を顧みる。
「サァリーディ、怪我を……」
「肉体がないってずるいよね。私ばっかりこうなんだもん」
忌々しげにぼやく彼女の体は、右肩から腹にかけて大きな裂傷が走っていた。かなり深い傷なのだろう。みるみる玉石の上に血溜まりが出来ていくのを見て、シシュは膝をつくと彼女を庇うように抱え込む。
「一旦退こう。月白へ跳べるか?」
「多分」
「なら急ごう」
己の顔を覆っていた巻き布を取って、シシュはサァリの肩口を圧迫する。
その内に周囲の景色は変わり―――― 二人はまた、月白のサァリの部屋に戻ってきた。
出かけた時に血濡れていたのは彼だが、帰ってきた時には巫の少女が血みどろになっている。
訳の分からない状況にシシュは一抹の皮肉を感じないわけではなかったが、それ以上にサァリの負った傷は深刻なものに見えた。
彼は冷たい体を寝台の上に運ぶ。
「医者を呼んでくる。待ってろ」
「駄目。やめて。平気だから」
彼女の声は掠れてはいたが、確かな意思を以てシシュを留めた。戸を開けようとしていた青年は振り返る。
「平気に見えない」
「自分で塞げるから平気。看られる方が不味いの。……それより出来たら止血手伝って。塞ぎきる前に血が足りなくなりそう」
血が染み込んでいく寝床に横たわりながら、サァリは己の手で肩口を押さえた。白い飛沫が指先から上がる。
凍らせることで痛みを封じようとしているのかもしれない。シシュはそれを見て彼女のところに戻ると、近くにあったさらし布を手に取った。荒い息をついている少女に確認する。
「少しきつく縛る。脱がしても平気か?」
「大丈夫……ごめんね」
木綿の服は、既に血を吸って重たくなりつつある。シシュは斬られた部分から大きく布を裂くと、さらし布を使い傷口を縛っていった。最初に見た時よりも腹の傷が浅くなっているようなのは、彼女自身が塞ごうと試みているからかもしれない。
氷と変わらぬ温度の体に、シシュは眉を顰めたまま手当をしていく。それが終わると少しは楽になったのか、サァリは淡い息を吐いた。
「ありがと……ちょっと眠る。出来れば私に触らないでいて。生気吸い取っちゃうから」
「サァリーディ」
「でも近くにいてね、危ないから……」
そこまでを言って、サァリは目を閉じた。
たちまちか細い寝息が漏れ出すのを確認して、シシュは寝台脇の床に座り込む。血の気の薄い顔に、そっと指を伸ばした。
―――― 何が変わったのかと言えば分からない。
あまりにも人の理解を超えたことが起きすぎて、ついていけていないのが実情だ。
だが、それでも。
「サァリーディ」
名を呼んで、冷たい指を握る。
少しだけ不安げに、淋しそうに眠る彼女は、以前の彼女と変わらぬように見えた。頬についた血をシシュは指で拭ってやる。
微かに肩が震えているのは、寒いのか血が足りないのか。或いはその両方かもしれない。
彼は顔を顰めて考え込むと、彼女を起こさないようにその隣に上がった。寄り添って横になりながら、細い体を両腕の中に抱き取る。
「……風邪を引きそうだな」
氷塊同然の少女を抱いて寝るのに加えて、生気を吸い取られるというのだ。まず風邪は免れないだろう。
ただそれくらいで弱り切った彼女が回復するのなら、自分の体調など別に惜しむようなものでもない。シシュは小さな頭を抱き込んで目を閉じた。
「大丈夫だ」
彼女を一人にはしない。逃げるつもりはない。
神が役を負うというなら、人が返すものは誠実だ。
シシュは柔らかな躰を壊さぬように抱きしめる。
閉ざされた意識は揺らいで回り始め、いつしか彼は、冷たい石室への道を一人降りていた。
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