第79話 月夜
テセド・ザラスに会いに行く―――― と言われて、シシュはその人名を反芻した。
勿論それが誰であるか分からないわけではない。何故そこで隣国にいるはずの老人の名が出てくるかが分からなかったのだ。
怪訝に思って眉を顰める彼に、サァリは底知れない笑顔を向けてくる。
「シシュ? 一人で着替えられないなら脱がしてあげるよ?」
「いや待て分かった着替える」
どの道、この格好では何処にも行けない。
シシュは、据わった目になっている少女をその場に残して部屋に上がると、着替えを取りに箪笥へと向かった。彼に背を向けて戸口に座り込んだサァリが付け足す。
「自警団の制服はやめてね。素性が分からないようにして。顔も隠して」
「……分かった」
最初に「顔を隠せ」と言われた時には何かと思ったが、テセド・ザラスはシシュのことを知っているのだ。本当に彼に会いに行くなら変装は必須だろう。
私服の洋装に着替えながら、シシュは溜息を噛み殺す。
「それにしても、前から突然俺の部屋に現れたりするとは知っていたが、こうやって移動出来るんだな」
「うん。あの頃はやろうと思って出来てたわけじゃないんだけどね。今は大体自由に出来るかな」
「まさか、それで隣国まで行こうと?」
「初めてじゃないから大丈夫。今まで何回も調べ物に行ってるし」
「は?」
言われたシシュは、思わず上着を取り落とす。それを拾い上げながら少女を振り返ると、サァリは戸を見たまま言った。
「それよりシシュ、上着着る前に血を拭いた方がいいよ。新しい服も汚れちゃう」
「……ああ、そうだな」
血は、既に固まりかけているものもあるが、今ならばすぐに落ちそうだ。
彼は先に手布を濡らしに行くと、それで傷口の周りをごしごしと拭った。貫通する程ではなかったが、相当深い傷だったそこには、しかしもはや何の痕も残っていない。
思わず感心して右肩を眺めていたシシュは、しかし先程のことを思い出し、今度は手布を取り落としそうになった。自然と顔が赤くなる気がする。
「何を考えてるんだ、俺は……」
サァリはまったく気にしていない様子だったが、それは彼女が治療を優先してくれた為だろう。にもかかわらず余計な想像をした自分を蹴りつけたくなる。シシュは己を罵りながら手布をきつく握った。
呆れたような声が、壁の柱を蹴り始めた青年へとかかる。
「シシュ、急いで。二時間で帰るって言ってあるんだから」
「ああ、済まない。……いや、本気で隣国に行く気なのか!?」
「本気だってば。早く着替えてくれないと手伝うよ」
「分かった悪かった待ってくれ」
彼女の無謀には苦言を呈したいが、今だけは無闇に触られたくない。
シシュは手早く着替えを済ませると、言われた通り鼻と口を巻き布で覆った。以前、東の地方に行った時、こうして顔を覆う衣装を常とする部族に会ったことがあるのだ。
支度を終えた青年を、振り返った少女は楽しげに見つめた。白い手を伸ばしてくる。
「よし、じゃあ行こう」
美しい手。嬉しそうに笑う巫の少女に、シシュはまた不思議な違和感を抱く。
それは触れた指先が氷と変わらぬ温度であった時に確信に近いものとなり―――― しかし彼は次の瞬間、何処とも知れぬ森の中の小道に立っていた。
左右に広がる森は、鬱蒼として何処までも続いているように見える。
そこに人の手が入った形跡はない。ただ二人の立つ砂利道だけが、雑草の一本もなく白い玉石で整えられていた。
アイリーデよりもじっとりと湿り気がある空気に、シシュは木々の合間から見える夜空を確認する。
「ここは?」
「栽培畑のそば。始末してから行こうと思って」
「―――― ああ」
何の畑かと聞こうとして、シシュはしかしすぐに思い当たった。
テセド・ザラスと言えば、おかしな白い花を持ち込んで王都で事件を起こした人物なのだ。ならば栽培しているのもその花なのだろう。現在、周辺諸国の様子がおかしいとは、シシュも主君からよく聞き及んでいる。
月光に浮き上がる砂利道を、サァリは一人先に歩き始める。道は途中で二手に分かれており、そのうち砂利がない土の道を彼女は選んで進んでいった。
淡い銀に光る髪を見ながら、シシュはその後についていく。森の切れ目が見えたところで、彼は少女の隣に並んだ。
「誰かいるかもしれない。巫は後ろにいてくれ」
「あ、駄目だよ。シシュは黙って見てて。アイリーデに放っておくのが危ないから連れてきてるんだし」
「だから何なんだそれは」
いくら深手を負ってしまったとは言え、五つも年下の少女に心配されるほど自分が弱いとは思いたくない。後ろに庇われる子供と大差ないようでは困るのだ。
しかしサァリは何も言わず道の先へと駆けだした。脇目も振らず走って行く彼女をシシュは呼び止めかけたが、誰が聞いているか分からない。結果彼は、一拍遅れて彼女の後を追うことになった。少女の長い銀髪が暗い道に輝く軌跡を作る。
サァリはそのまま、森の向こうに広がる一面の花畑へと飛び込んだ。小さな背を追ってきたシシュは、圧倒的な眺めに直面して言葉を失くす。
白い海と見まがう程の景色―――― 森に囲まれたその花畑は、小さな村ならば丸々入りそうなくらい広大なものだ。青白い夜の光の下で咲き誇る大輪の花は、ひたすらに華麗で、その異様な特性を知らなければまるで宝玉のように見える。或いは特性を知っている者にとっては、別の意味で宝玉であるのかもしれない。
シシュは美しい分、不吉に思える白花の平原を見渡す。呆然としていた彼は、けれどすぐに花をかき分けて進む少女を追いかけようとした。
その気配に気づいたのか、サァリは振り返って彼を留める。
「そこにいて。あと香りに気をつけて。あの時みたいになっても困るし」
「ぐ……」
思い出したくない、というか正確には記憶がない過去のことを引き合いに出されて、シシュは巻き布の上から鼻と口を押さえた。
サァリは人でないせいか影響を受けないようだが、彼に効き目があることは実証済みである。おまけに今、花の香りの影響を受けたら、自分が何をしでかすか想像したくないが想像がつく気もした。
言われた通りシシュが花畑の手前で止まると、サァリは微笑ってまた奥へと進み出す。
見渡す限り他に人の姿はない。彼女は月に向けて白い右手を上げた。月光が、その掌に引き寄せられるようにして集まってくる。
彼女は燐光を纏った右手を一瞥すると、大きく横へと振った。夜の中、輝く飛沫が上がり、白い花弁へと降り注ぐ。―――― その直後、変化は始まった。
飛沫に触れた花弁が、みるみる凍り付いていく。
透明な霜が茎から葉へ、そして根へと到達し、地面をも凍らせながら更に別の花を絡み取っていった。
少女を中心に加速度的に広がっていく飛沫の連鎖が、咲き乱れる花々を浸していく。あちこちで花弁の砕け散る音が重なり、あたかも無数の小さな鈴が振られているような錯覚を青年に与えた。
非現実めいた眺めに、シシュは彼女の帯びる光が月光ではないとようやく気づく。
「あれは……冷気か」
神としての力が強くなる時、体温が極端に下がるサァリだ。それを操って草木を枯らすことも可能なのだろう。土までも凍らされては根が残ることもない。彼女はそうして、これらの花を全て処分しようとしているのだ。
月の明るい夜だ。
白い光を振りまいて、少女は花の中を舞っている。
舞台を思わせるその姿はだが、何処か悠久の孤絶を感じさせて―――― シシュは目の前の花が崩れ落ちていくのを見ながら、整った顔を険しく顰めた。
※ ※ ※ ※
広大な畑全てを凍らせて、サァリが戻ってきたのは十数分後のことだ。
あれだけの力を振るったにもかかわらず、彼女は何でもない顔でシシュの腕を叩く。
「よし行こ。テセド・ザラスのいる屋敷が近くにあるの」
「待て、サァリーディ」
青年は、歩きだそうとした彼女の手を取った。振り返った少女の目の前で細い指を握る。
―――― そこから伝わるものは、体温がないどころではない冷たさだ。
冷えている、というだけでは収まらない。氷と大差ない温度にシシュは確信を噛みしめる。
サァリは不思議そうに彼を見上げた。
「どうかしたの? 何か案があるとか?」
「いや、今日はもう帰ろう。巫の体に障る」
神である彼女の力は絶大だ。だがその分、揺り返しも存在する。力を使いすぎると彼女の体は冷え、反動でしばらく伏せってしまうことになるのだ。
サァリ自身は以前、己の体温の低下について「淋しい気分になるから嫌だ」と言っていた。今は花の始末の為に力を使わざるを得なかったのだろうが、これ以上無理をする必要はない。テセド・ザラスに関することならば、秘密裏にではあるが王に頼んで力を借りることも出来るのだ。
シシュは少女の頬に触れ、そこも同じ冷たさであることを確かめると、彼女を促した。
「大変だろうが、もう一度跳べるか? 月白に帰るぞ」
「え。帰らないよ」
「サァリーディ、だが」
「帰らないよ。別に私、平気だし」
怪訝そうに、そして少し煩わしげに青年を見つめる彼女は、強がりを言っているようには見えない。
シシュはその反応にまた違和感を覚えたが、言いくるめられるつもりは微塵もなかった。熱を測るように、自分の掌をサァリの額に当てる。
「自分で気づいていないのか? 相当冷えてる。無理しない方がいい」
「無理なんてしてないよ。私の体が冷たいのなんて、当然のことでしょ? 人間じゃないんだし」
「……サァリーディ?」
―――― 何かがおかしい。
ちりちりと引っかかってくる違和感は焦燥に似て、シシュの内心をざらついて撫でた。
無言になった青年に、サァリは困ったような微苦笑を返す。
「大丈夫だって。ほら、急ごう。あんまりアイリーデを空けてられないし」
「いや。それよりも巫だ。何があった?」
少女の両手を掴んで捕らえる。折れそうな細い手首であることは変わらないが、肌が伝えてくるものは拒絶を模したような冷たさだ。
思えばどうして「出来なかったことが出来るようになった」のか。神としての本質が強く出ているのは分かるが、今までとは明らかに様子が違っている。シシュはそれを、彼女の兄神が戻ってきたことに関連があるのではないかと疑っていた。
サァリは真意の知れない微笑を浮かべる。
可憐な唇が穏やかに言葉を紡いだ。
「何もないよ。心配しないで大丈夫。これが終わったらもう、シシュに迷惑をかけることもないから」
「……サァリーディ?」
巫の少女はそしてまた、嬉しそうに笑う。
何処までも美しい、それはアイリーデの女たちがつける仮面だ。遠く、愛情深く、けれど踏み込むことを許さない貌。大人になった女たちが身につけるそれに、シシュはまた、喉の奥に焦燥を覚える。
彼女の名を呼ぼうとして……だが別の声が、背後からかかった。
「要らぬのか。そうか。ならばこの神供は、吾が貰おう」
「……え?」
サァリが青い目を見開く。
シシュは覚えのある声に振り返った。右手が刀の柄を握る。
だがそれを抜刀するより先に、透けた指が彼の顎にかかった。宙に浮く銀髪の少女―――― ディスティーラは無垢な目でからからと笑う。
「神供の男よ、約束通り迎えに来たぞ」
「っ、待……!」
サァリが右手を上げる。
その体を庇ってシシュは軍刀を抜いた。だが、刀を振るおうとした腕が見えない力に繋がれる。少女の透明な両腕が伸びてきて、そっと彼を抱いた。
ディスティーラの声が耳元で笑う。
「随分待たされたがな……これで良しとしてやる」
それはサァリのものよりもいびつで幼い、神の言葉だった。
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