第78話 転進


 右肩に突き刺さった刃は刀を振るう上では致命傷であったが、それを見たシシュは「これで相手を逃がさないで済む」と思っただけだった。

 痛みを意識外に追いやる。

 最初の抜き打ちは相手の体を斬り上げたはずだが、黒衣の男は痛手を負った様子もない。まるで布の束を斬りつけたかのようだ。

 だが、だからといって斬れない相手でもないだろう。シシュは半歩踏み込みながら軍刀を左手に持ち替える。そのまま至近から、顔の見えない敵へと刃を走らせた。


 返ってきたのは肉に食い込む鈍い感触だ。

 その直後、シシュの体は軍刀ごと後方へ弾き飛ばされる。危うく水路に落ちそうになって、転がりながら左手で地面を掴んだ。直刃が抜かれた右肩の傷が、激しい痛みを訴えてくる。

「くそ……っ」

 追撃を恐れて青年は跳ね起きたが、既にその時、相手は抜き身の刀を手に身を翻して走り去るところだった。たちまち闇の中に溶け入った敵の向かう方角を見て、シシュはよろめきながらも立ち上がる。

「あいつ、月白に―――― 」


 月白には、巫の少女がいる。

 そして彼女こそが守るべき要であり、相手の目的だ。


 シシュは考えるより早く、敵の後を追って走り出す。

 人ならざる黒衣の姿はもはや何処にも見えない。だが、月白までの道は誰よりもよく知っていた。

 怪我の止血をする間も惜しんで、青年は夕暮れ時の享楽街を駆けていく。人気のない細い路地を選んで、最短で北の妓館へと達した。火の入っていない灯り籠の脇をすり抜け、彼は玄関の戸を押し開く。

 上がり口の拭き掃除をしていた下女が、シシュの姿を見てぎょっと飛び上がった。

「え、あの」

「サァリーディは!?」

「ぬ、主様ならまだ離れに……」

 そこまでを聞いて、シシュは靴のまま板張りの廊下へと上がった。小さな悲鳴を上げる下女を無視して、館の奥へと走る。彼は、普段客が通らぬ渡り廊下を抜け、少女の住居である離れへと向かった。制止の声を遥か遠くに聞きながら、二階へと上がり部屋の戸を乱暴に開ける。

「サァリーディ!」

「え?」

 部屋の中には、少女一人の姿しかなかった。

 振り返ったサァリは沐浴でもしていたのか、下ろした長い銀髪から水を滴らせている。

 柔らかな肢体もまた水気を帯びており、羽織られた薄い襦袢が濡れて、下の白い肌がほぼ透けて見えていた。

 何も着ていないのと大差ない彼女は、突然入ってきたシシュをきょとんとして見上げる。

「どうしたの、シシュ。何かすごい大発見でもした?」

「…………いや」

 青い双眸を見るだに、操作を受けているようには見えない。

 見えないのだが、それ以上に不味い事態であることは確かだ。艶めかしい女の姿に見入りかけていた青年は、我に返ると回れ右をしようとする。

 そこに、すかさずサァリの白い手が伸びてきた。

「怪我してる。どうしたの」

「どうもしない。土足で悪かった」

「土足は別にいいんだけど。血も垂れてるし」

 拭き掃除をする手間は同じだと暗に示して、サァリは彼を振り向かせる。

 シシュはすかさず視線を天井へと向けたが、彼女はおかまいなしに右肩の傷を至近からまじまじと検分した。

「これ、刺し傷だよね。誰にやられたの?」

「後で話す。後で話すから服を着てくれ」

「後でって、すごく痛いでしょ。治すからちょっと我慢して」

「治すと言われても」

 止血ぐらいは自分でするから離して欲しい。そう断りかけた彼は、しかし口を開いたまま言葉を失った。

 眩暈を呼び起こす感触。

 背伸びをして彼の傷口に顔を埋めた巫は、ぴちゃり、と音をさせ、血の溢れるそこに舌を這わせる。

 濡れた肌に息がかかり、ぞっとするような戦慄が首筋を走った。

 シシュはあまりのことに、そのままの姿勢で凍りつく。もたれかかってくる躰の冷たさも、意識の俎上には上がってこなかった。

「……サァリーディ」

「我慢して」

 短い言葉は、反論を許さないものだ。

 細い指が彼の服を掴んでいる。目を閉じた少女の頬に、みるみる返り血が移っていった。

 美しい顔や襦袢が汚れるのも構わず、サァリは丁寧に傷口の血を舐め取っていく。子猫が甘えるに似たその音は、夕闇時の部屋に忌まわしいほど響いて、聞く者の本能を強く刺激した。気が遠くなり、御しがたい熱が沸き起こる。

 ―――― たとえば今、心臓の痛みを覚悟するなら。

 触れあう体を我知らず抱き取ろうとしたシシュは、けれどふっと顔を上げた少女と目が合って硬直し直した。

 サァリは唇の血を拭いながら首を傾ける。

「どう?」

「どう、と言われても……」

 今迂闊に何かを言ったら、とんでもないことを口にしてしまいそうだ。

 そうおののいている自分に気づいて、化生斬りの青年は少しだけ冷静になる。彼女の示す右肩を確かめた。

「……塞がってる」

「中は? 痛くない? ちゃんと動く?」

「多分……大丈夫みたいだ。術をかけてくれたのか?」

 以前の彼女であれば、このようなことは出来なかったはずだ。

 驚くシシュに、サァリは薄い微笑で返した。

「今の私の体液には力があるから。血だと強すぎるけど、これくらいならちょうどいいでしょ。シシュなら慣れてるだろうし」

「慣れてるのか?」

「力にね」

 少女は細い指を鳴らす。彼の傍を離れ鏡台へ向かったサァリは、手についた血を布で拭った。

 その姿を目で追ったシシュは、滑らかな背から腰までが襦袢越しにくっきりと浮き上がっているのを見て、急いで視線を逸らす。そのまま音をさせず部屋を出て行こうとしたシシュを、部屋の主は鏡越しに見咎めて呼び止めた。

「あ、待って。誰にやられたの? それ聞いてない」

「……ネレイの代わりに。さっきそこで会った」

「え!?」

 後で話す、とねばりたいのは山々だが、「あれ」が戻ってきたことについては早く教えた方がいい。

 半分はそう判断して、もう半分は諦めて、彼は廊下を見たまま事実を告げた。サァリはそれを聞いて軽い唸り声を上げる。

「ええ……もう戻って来ちゃったの? あっちを調べてる間にこっちもとか、どっちが本命の原因なんだろ」

「あっち? 本命?」

「うー、これじゃ目を離した隙に死なれそう……」

「誰が」

「あなたが」

 物騒な言葉にシシュは苦言を呈したくなったが、少女は本気で悩んでいるらしい。

 ともかく仕切り直す必要性を感じて、彼は相変わらず廊下を見つめたまま謝罪した。

「死ぬつもりはないが、先走って悪かった。仕留められなかったから巫のところに来ているかと思った。不作法をしてすまない」

「そう簡単に仕留められたら私も吃驚だから大丈夫。ここも客室じゃないから気にしないで。あなたが無事でよかった」

 淡々としたサァリの声音は、最初の頃の少女とは大分違って聞こえる。

 そこに、ただ成長したというわけではない不思議な温度のなさを感じ取って、シシュは一抹の訝しさを覚えた。着替えをしているのか衣擦れの音が重なる。彼女はそっと出て行こうとする青年を、またもや「ちょっと待って」と制止した。

「本当困るなぁ……。シシュを何処に置けば安全なのか、分からないのが一番困る」

「そんなことで巫を悩ませるつもりはないんだが。むしろ自分の身を大事にしてくれ」

「私は平気だよ。人間じゃないから」

 放られた言葉には、かつてのように孤独を憂う色はない。

 だがシシュはそれを聞いて眉を寄せると、反射的に巫の少女へと反論した。

「人であるかどうかなど関係ないだろう。巫は巫だ。誰に傷つけさせるつもりもない」


 それは、彼が主君から命じられたことで、そして彼自身も決めていることだ。

 何ものからも彼女を守る―――― 今、自分の剣が果たすべき使命は何よりもこの一つで、交わした約束を違える気もない。

 人でないからといって何を気にする必要もないのだ。少なくとも彼は、とうにそのことを飲み込んでいるのだから。



 シシュは、自分が抜き身の軍刀を下げたままだと思い出すと、その刃を確かめる。

 相手を斬った手応えは得ていたが、幸いそれは錯覚ではなかったようで、軍刀にはうっすらと血曇りがついていた。

 シシュは注意して刀を鞘に戻す。その時、誰かがぱたぱたと階段を上がってくる音がした。先程玄関先で顔をあわせたばかりの下女は、現れるなりシシュを見て顔色をなくす。その後ろから上がってきたミフィルは、血だらけの彼を見て悲鳴を上げた。

「キ、キリス様、その怪我は……」

「見かけだけだから平気だ」

「ですが、それは」

「―――― フィー」

 温度のない声は、部屋の中からのものだ。

 正統妓館の主である少女は、声音だけで女を打ち据える。

「あなたにこの離れへ立ち入る許可を与えた覚えはありません。己の領域を見誤らないように」

「ぬ、主様」

「館に戻っていなさい。あなたの心配するようなことはありませんから」

 凜とした命令は、穏やかではあったが口を挟む隙を与えぬものだ。

 ミフィルはおどおどとうろたえながらシシュを見つめる。彼はもう一度「大丈夫だ」と重ねて頷いた。

 それでも立ち去りがたい気配を漂わせている彼女に、青年は自分もついていって傷跡を見せるべきかと思う。しかしそこで、少女の腕が背後から彼を引いた。

「よし、決めた」

「サァリーディ?」

「アイリーデに置いとくと心配だから、シシュもつれてく」

「連れて行く? 何処に」

「私の後ろにいてくれればいいから」

 それだけを言って、サァリはぐいぐいと彼を部屋の中へ引き入れる。廊下に顔だけ出して、困っている二人を見ると簡単に言い残した。

「少し出てくる……じゃなくて、用事があるから。二時間で終えるわ。それまで離れには入らないように。火入れは頼みます」

「わ、分かりました」

「では後で」

 ぴしゃんと音を立てて戸を閉めると、サァリはシシュに向き直った。

 普段の白い着物姿でなく、王都の町娘のような木綿の上下を着ている少女を、青年は驚いて眺める。

「一体どうしたんだ」

「着物じゃ目立つから。シシュもその格好じゃ不味いね。顔も隠した方がいいか」

「何をするつもりなんだ」

「女装は嫌だよね? 私の服じゃ寸法合わないし」

「…………」

 聞くまでもないことを聞かれると、疲労が増す気がする。

 溜息をつきかけたシシュは、しかし鏡台の上に置かれた硝子の小箱に気づき、目を瞠った。そこには赤い天鵞絨の上に、二つの大粒の真珠が並べてしまわれている。サァリの十七の誕生日に、彼自身がこの部屋を訪ねて贈ったものだ。

 何を言うべきか言葉を探す青年の手を、少女は無造作に取る。

「じゃあ、シシュの部屋に寄ってから行こ。着替えして顔隠してね」

「いやだから何処に……」

 言い切る前に、少女の爪先が床を蹴った。

 ぐらりと視界が歪む。続いて変わった景色に、シシュはさすがに慄然とした。

 見慣れた周囲は彼の住む宿舎の部屋で―――― サァリは驚く青年を見上げて笑う。

「シシュ、今からテセド・ザラスのところに行ってみよう」

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