第参譚

第47話 釣果



 新月の夜、開けられた蔵の中からは、年代そのものを凝縮したような空気が流れ出してきていた。嵌め込みの天窓しかない内部は暗く、夜に慣れた目にもすぐには何があるのか分からない。

 サァリは小さな堤燈を手に、中へと足を踏み入れる。左右に堆く積まれている葛篭には何が入っているのか。去年の記憶は既に判然としないものに成り果てていた。きょろきょろと辺りを見回す彼女の肩に、後ろから手が置かれる。

「邪魔です。下がっていてください」

「邪魔って……」

 仮にも当主なのに邪険にされた。いつものことではあるが、自分が力仕事に向いていないのは事実である。

 サァリはヴァスに場所を譲って庭へと下がった。ウェリローシアに古くから仕える二人の下男を指揮して、従兄の青年は蔵の中の整理を始める。

 次々庭に運び出される葛篭を、サァリとフィーラは邪魔にならぬよう見守った。そのうちに見覚えのある木箱が外に出てくる。

 サァリは待っていたそれに飛び上がると、急いで駆け寄った。

「これ、開けてもいいですか?」

「好きにすればいいわ。この中のものは全部あなたのものなのだから」

 裏返して言えば、当主である巫以外のものではありえない。

 サァリは頷いて木箱を開けると、調べ物をするために中から古い帳面を数冊取り出した。題名はない。一冊一冊手書きで書かれたそれを、彼女はぱらぱらと捲ると腕の中に抱える。

 様子を見ていたフィーラが興味深げな視線を投げてきた。

「何を調べるの?」

「ちょっと、力の使い方について」

 最近、自分の力が巫の領域を逸脱してきているという自覚はある。二つの意識の断絶が薄らぎ、その間をたゆたっているのだという自覚が。

 以前と同じ力しか使わぬのならともかく、自由になる力が増したのなら、その制御についても知らなければならない。

 サァリは歴代の巫たちが書き残した帳面を手に、夜空を見上げる。

 暗い天はいつもと変わらず、ただ何か大事なものを覆い隠しているように見えた。



 ※ ※ ※



 月白の主の間で男二人が食事をするのは、最近すっかり珍しくもない光景になってしまった。王都の祝祭から二週間、ようやく平穏な日常の中に戻ってきた彼らは、館で出された夕の膳に舌鼓を打つ。卓の中央、大皿に姿盛りされた刺身に、シシュは驚きの目を注いだ。

「どうやってこんな活魚を調達したんだ」

「お客さんの持ち込み。釣り帰りなんだって。ほら、東の方に大きな湖があるでしょ」

「ああ……凄いな」

 シシュも地図では知っているが実際見たことはない。確か森の中にある湖で、アイリーデから少し王都よりの地点に位置しているはずだ。

 納得して箸を伸ばす青年に、皿を持ってきたサァリは微笑む。

「食べ終わった頃、お茶持ってくるね」

「サァリ、俺にも」

「トーマは最近意地悪ばっか言うからやだ」

「いやいや、そんなことはないぞ。俺が苛めてるのはシシュの方だ」

「やめろ……」

 刺身を小皿に取りながら、シシュはうんざりと顔を顰める。一方、白々とした表情の兄に舌を出してサァリは腰を上げた。ふらりと視線が奥の間に向く。

 それに気づいたトーマが顔を上げた。

「どうした? 何か心配事か?」

「あ、ううん。最近やってないから、後で神楽舞の練習をしようかと思っただけ」

「ああ」

 細々とした雑事に追われる毎日ではあるが、サァリにはまだまだやらなければならないことが多数あるのだ。

 その一つが芸楽の練習で、他の若い娼妓も三弦や唄、舞の練習をしていることがよくある。裏道を歩いていて聞こえてくる楽の音は、娼妓たちが練習している音であることがほとんどだ。ミディリドスの芸楽師は一人前と認められるまでは、決して外に音を出すことはしない。

 話を聞いていたシシュが頷いた。

「大変そうだな。巫の舞なら俺も見てみたいが」

 がたっと音をさせてサァリが盆を落とす。その隣でトーマが声を殺して笑い出した。

 意味不明な二人の反応に、シシュはいつも通り眉を寄せる。

「なんなんだ、一体……」

「いや、悪い悪い。別にお前のせいじゃない。―――― 単に巫の神楽舞って誰にも見せないものなんだよ。神供を迎えた時に、その男の前だけで踊る儀礼舞だ」

「…………なるほど」

 確かにそれを見たいといったなら、婉曲に口説いているとも取られかねない。

 脱力して項垂れるシシュに、巫の少女は慌てて言い繕った。

「あの、普通の舞もいくつか舞えるから! そっちならいつでも大丈夫だから!」

「お前って本当素で迂闊だよな。これが計算でやってるなら感心するんだが」

「どうして計算しないといけないんだ……」

 どうにもこの兄妹と話していると調子が狂う。そうこうしているうちに、サァリは赤くなった頬を押さえてそそくさと退出してしまった。


 襖の閉まる音で、二人はまた目の前の膳に意識を戻す。

 手酌で酒を飲むトーマが、ふと思い出したように言った。

「そういえば、新しい化生斬りが見つかった」

「そうか」

「っていうか、最近化生斬りの入れ替わりが激しいな。どんどん辞められてそのうち絶えたら困るな」

「さすがに絶えないだろ……。俺の前任者はなんでやめたんだ?」

 アイリーデの化生斬りは、通常五人だ。シシュは王都に要請が来た為それに応えた形になったのだが、自分が呼ばれるにいたった欠員の切っ掛けについて聞いたことはなかった。酒盃を傾けるトーマは、何と言うことはないように返す。

「老齢で辞めた。最後の半年はほとんど働いてなかったな。そんなだからこっちも四人体制に慣れきってて、お前を呼ぶにも時間かかったわけだ」

「……結構いい加減だな」

「だから今回は早く手配したんじゃないか」

 その由来から、アイリーデではかなりの発言力を持つラディ家の長男は、にやりと笑う。

 しかしシシュはそれに「出来るなら早くやっとけ」とそっけなく言っただけだった。

 そもそも化生斬りは大体が単独行動で、他の化生斬りと顔をあわせることもあまりない。一人増えれば単純には一人当たりの仕事が減るはずなのだろうが、生真面目な性質のシシュは普段から他の化生斬り以上に働いている。ここから増員されたとしても現状に変わりはないだろう。


 黙々と刺身を消費していく青年を、トーマは面白そうに眺める。

「魚好きなのか?」

「割と」

「じゃあ明日釣りにでも行くか」

「はあ?」

 どうしてそのようなことをしなければならないのか。第一明日は休みでも何でもない。

 トーマは大概ふざけた人間だが、何の考えもなく動くことは稀だ。これは到底素直に聞き流せる冗談でもないだろう。釣竿を持ったこともないシシュは、怪しむ目で男を睨んだ。

「一体何を企んでるんだ」

「いやあ、それがな……」

 明るい笑顔で、トーマは言った。

「来るはずだった化生斬りが途中で行方不明になってるようでな。一緒に捜しに行かないか?」

「…………」

 もう四人にすればいいんじゃ、とシシュは思ったが言わなかった。




「大体行方不明ってなんなんだ……」

 関係ない行きたくない、と言えたならよかったのだが、トーマが手を回したのかいつの間にか自警団長にまで捜索任務の話がいっていた。結果として正式に「街外任務」を振られてしまったシシュは、澄んだ青空の下、馬上の人となって王都へ続く街道を下っていた。隣で手綱を取っているトーマは、ご丁寧に釣竿を鞍につけている。

 まさか本当に釣りにも行くつもりなのか。この男なら妹の為に魚を土産にしたいなどと言いかねない。そうなったらさっさと自分だけ帰ろう、とシシュは固く心に決めた。

 トーマはよく晴れた空を仰ぐ。

「それがな、王都を経由してアイリーデに向かってる途中で消息不明になったらしい。最後に目撃されたのが王都の祝祭でだって話だ」

「二週間も前じゃないか……」

「四人に慣れてて対応が遅れた」

「もう増やすのやめろ」

 昨晩は我慢したのに今日は言ってしまった。しかし言わずにはいられない。

 どうしてこんなことに巻き込まれているのか、シシュは今すぐ馬首を返したい衝動に駆られていた。


 それでも人一人行方不明というなら放置しておくわけにもいかない。時折商人の馬車が通っていくだけの街道を、シシュは見渡した。

「それで、まさかこのまま王都まで街道を見て回るんじゃないだろうな」

「いや、あてはあるんだ。そこを見に行っていなかったら諦める」

「あて? ……まさか」

「そのまさかだ」

 トーマは鞍につけた釣竿を示す。

「昨日魚を持ってきた常連がな、湖の近くの森で徘徊している男を見たんだと。その風貌がどうやら件の化生斬りと似ててな」

「…………」

 実に怪しい話になってきた。

 そのようなところで徘徊している人間など、無事見つけられたとしても役に立つのだろうか。もう聞かなかった振りをして帰るのが一番いいのかもしれない。

 しかしシシュの内心を見透かしてかトーマは、前を見たまま笑顔で言った。

「逃げるなよ。逃げたら恥ずかしい目にあわせるからな」

「別に逃げない……」

「ついでに魚を釣ってサァリへの土産にしよう。きっと喜ぶぞ。可愛いぞ」

「二日連続だけどな」

 もう抵抗するよりもさっさと終わらせた方が早そうだ。シシュは手綱を取り直すと、馬足を速める。問題の森までは急げば一時間で着くだろう。その後どれだけ森を見て回るか―――― 願わくば釣りの方が長いなどということにはならぬよう、シシュは祈った。



 問題の湖はアイリーデと同程度の大きさを持っており、絶え間ない湧き水のおかげで透明度が高い。そこから湧き出た水は細い川となって北東に流れ、やがて海に注ぎ込む。

 森の中にある鏡のような湖は風光明媚で知られ、街道から外れて立ち寄る人も多いせいか、水際まで道が通っていた。

 広がる水辺を前に、手綱を近くの木に繋いだシシュは辺りを見回す。

「……いないようだな」

「だなあ。釣り客に目撃されてるんだから、そう奥深くでもないだろうが」

「ちょっと中を回ってくる。道の北側から見てくるから―――― 」

「じゃあ俺は釣りを」

「南側を見ろ」

 さすがにこの広い森をまるまる見て回っては日が暮れてしまうだろうが、道の周辺くらいなら手分けすればすぐに終わるはずだ。

 シシュは「さぼったら巫に言いつける」と釘を刺して、森の中へと足を踏み入れた。湿った草々を踏み分け、周囲に注意しながら人の姿を探していく。葉に残る夜露が服を濡らし、木の幹についた手が手袋越しにささくれだった感触を伝えた。これが着物に素手であったなら、たちまち裂傷だらけになってしまっただろう。シシュはそこまで考えて、ふと探している男の風貌を聞いていないことに気づいた。

「しまったな……」

 一回戻ってトーマに聞いた方がいいだろうか。それともこんなところに他の人間などいないか。

 考えながら一歩を踏み出したシシュはけれど、ぐんにゃりと柔らかい感触に動きを止めた。そっと足下を覗き込む。

 そこには鬱蒼と茂る草に埋もれて、着物姿の若い男が仰向けに倒れていた。


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