第46話 謀叛
あまり子供の頃のことは、はっきりと覚えていない。
物心ついた時から彼女は、盲いた目に多くのものを見てきた。
遠くの、そして今ではない、断片。
本来の視力がない彼女に、それが普通の人間の見る映像と同一かは判断出来ない。
ただ遠くの景色は遠いほど鮮明に感じられ、近くの景色は曖昧になる。
まるで言葉なき声が広大な暗闇をいくつも流れていて、その帯にそっと接触するかのようだ。
彼女は物心ついた時からそういったものを見ていて、後から思えば親に売られたのだと思う。
十になるまでは、旅芸人付きの占い師として過ごした。
それから三年は、ある貴族のもとで幽閉された。
おせじにも幸福だったとは言えない、道具として扱われた日々。
―――― けれど彼女はいつか、自分のその生活が終わることを知っていた。
窓のない黴臭い自室から掴み出され、連れてこられたのは冷たい床の上だ。
痩せこけた両手首を体の後ろで縛られ、左右から兵士に引きずられてその部屋に入った彼女は、まず花の香に気づいた。
淡い上品な花の香りは彼女が触れたこともないもので、触れる肌から変わっていくように思える。肺いっぱいに吸い込むと、清新が初めて実感となって現実を知らしめた。
床に座らされた彼女は、自らの足で立ち上がりたがっている自分に気づく。
しかしそれを試みるより早く、よく通る男の声が彼女にかかった。
「遠視の巫か。随分ひどい扱いを受けていたようだ」
それが彼の声を聞いた最初だった。
男の声は優しく、篤い労わりに満ちていた。
だがそれが装って作られた彼の表面であることを、彼女は知っている。
今まで何度も視てきた未来。彼女は罅割れた唇で微笑んで、彼に頭を垂れた。
「ようやく御前に参りました、陛下。みすぼらしい姿で申し訳ありません」
すらすらと言葉が口から出たのは僥倖であったろう。彼女は実際そのことにほっとした。
今まで余計なことを喋れば鞭打たれることさえあったのだ。今この時において、せめて態度だけでも無様でなくて良かったと思う。
そんなことを考えていた彼女は、彼が考え込む気配を敏感に察した。人払いをする声が聞こえる。
そうして改めて彼女にかけられた声は、先程までとは違い刃のように鋭かった。
「君は、ダンジェ公爵の命で遠視を行っていた。それが謀反の企みであることは知っていたのか?」
「存じ上げておりました」
「君の的中率は七割だったというが、公爵には嘘の答を混ぜていたのか? それとも間違ったか?」
「時折は偽りを。わたくしの遠視は外れませんので」
「それは何故?」
「勿論あなた様にお会いする為にでございます」
遠くは鮮明に、近くは曖昧に見える。
そして先の時間が視える時は―――― いつでもそこに、一人の女が立っているのだ。
容姿や年齢は分からない。ただ「女だ」とだけ分かる存在。
背を向けて佇んでいるだけの女は、彼女にしか視えない。それが現実となった時には何処にもいない。ただ彼女が見る未来にだけ、いつも無言で立っている。
その女がある日、右手を上げて彼を指さした。
「私に会う為に? 面白いことを言う」
「真実でございます。お疑いであるなら昨年の士官学校修了者をお調べください。あなた様の弟君がその中にいらっしゃいます」
「弟? 私の?」
「ええ。いずれあなた様にとってなくてはならぬ存在になる方です」
それが真実であることは、遅くとも数年のうちに分かるだろう。彼女は恭しく顔を上げる。
「わたくしの本分は先視。あなた様にお仕えする巫でございます。やがて王となり、この国をお変えになるお方よ。自ら動くことままならぬ《目》の為に、ここに至るまで多くを利用したことをお許しください」
視えた未来において、分からなかったものはただ一つだ。
彼が愛でる花の香り。それだけはずっと知りたいと願って、だが今叶った。彼女は湧き上がる充足感に微笑む。
ゆっくりと感じられる時間。短い沈黙の後、男は囁き問うた。
「お前の名は?」
「ベルセヴィーナ」
暗い彷徨の終わりで、長い旅の始まり。
そして彼女は、王の巫となった。
―――― やがて訪れるであろう終幕を打ち払う為に。
※ ※ ※
「ベルヴィ、花が枯れてしまったよ……」
「左様でございますね」
「……忠告して欲しかった……」
「あの方に関することはよく視えないのです、とは忠告いたしました」
「これはまた咲くかい?」
まるで子供のような問いに、彼女は笑って答える。
「ええ、王よ。また月が満ちる頃には」
彼がそれを聞いて喜ぶので、いつか枯れる日のことは、あえて言わなかった。
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