第45話 摺り寄せ



「―――― というわけで、別にお前の心配するようなことはしてない。安心しろ」

 笑いながらそう締めくくられた話に、シシュは卓の上に突っ伏したくなった。

 王都にあるラディ家の一室、アイリーデ風の座敷にて昼食を取っていた二人は、食後のお茶を手に昨日の事件について話していた。その過程でようやくシシュは、昨晩自分が何をしたのか知ることが出来たのだ。

 とんでもないことをしていたらどうしようかと、戦々恐々していたのだが、そこまでのことではなくてよかった。とは言え、大陸最古の享楽街において、もっとも特別である娼妓を肩に担いで「仕置きするぞ」と脅していたというのだから、十分とんでもないことをしている。だが最悪の予想からは遠く外れていると思っていいだろう。安堵の息をつくシシュを、トーマはにやにやと見やった。

「なんだ。何をしたと思った?」

「別に」

「隠された欲が暴かれるって聞いて、不味いと思ったんだろ? 自分が何をしそうだと思った?」

「殴っていいか?」

「やめろ」

 ―――― どうして自分の周りにはこんな人間ばかり集まっているのか。

 だがトーマは主君とは違い、反撃してもいい人間である。相手もそれを知っているらしく、あっさりと引き下がった。


 シシュは、妹とあまり似ていない兄を眺める。

「そういえば最初に巫が変貌した時、お前は出そうと思っても出せないとか言っていなかったか?」

「言った。それがどうした?」

「最近よく変わってる。人格が二つあるわけではないと言われたが、あれは驚くな」

「……へえ」

 少し目を細めたトーマは、何かを考え込んでいるようだ。だがまもなく、ふっと微笑した。その様子をシシュは見咎める。

「なんだ。間違いだったのか?」

「いや、違う。あいつも中途半端な位置に置かれてるからな。自分で調整しようとしてるんだろ」

「中途半端?」

 不思議に思って聞き返すシシュに、トーマは苦笑した。

「神の力っていうのはやはり、人間の精神には負いがたいものだからな。月白の巫はみんな生まれながら二面性を持ってる。けど、その神としての面が表に出ることは滅多にない。本来なら二つの面は、巫が大人になると同時に一つに統合されるんだ」

「ああ、そうなのか。サァリーディは子供だからああなってるのか?」

「違う違う。本当はサァリのあれだって、ずっと外に出ないままだったよ。何もなければな」

 トーマの茶碗にはまだ、冷めかけたお茶が残っている。シシュはそれを早く飲めばいいのにと思ったが、口に出して言うことはしなかった。

 遡れば神の血を引く男は、座卓を指で叩く。

「月白の巫の二面性は、相反し同一でもある二面だ。それらはだが、やがて交わって一つになる。―――― この交わって一つになる、って何かに似てると思わないか?」

 突然の問いかけにシシュは首を捻った。

 古き神とその約定。今も残る三つの神供。それらを並べて浮かび上がってきたものは一つだ。

「…………神供の男、か?」

「あたり。本来は二面性の統合って、神供を迎えての交合時に起きるんだよ。神供はその時、人として初めて神に直面する。でもサァリは、あの件で無理矢理起こされて神供も捧げられて……でも実際お前は神供になってない。宙ぶらりんな状態なわけだ」


 自分の顔を指されて、シシュは鼻白んだ。

 あの時あの状況で他に人がいなかったとは言え、自ら進んで神供に名乗り出た訳ではない。というか神供に確定したつもりもないのだ。現にサァリはまだ誰も選んでいない。彼女がアイリーデを追放された化生斬りを、未だ気にしていることをシシュは知っている。

 だがそれはそれとして、トーマの話は理解出来た。

「だから神性が表に出てくることがあるのか」

「そう。俺の推測だがおそらくあいつは、自分一人で何とか二面性を統合しようとしてるんだろうな。神供の男ってのはいわば、神であり人である巫を支える唯一の同族で、伴侶そのものだ。それが不在である以上、サァリは呼び起こされた神性を自ら制御しないといけない。両方を行き来しながら、摺り寄せどころを探してるんだろう。……ま、多分そう上手くはいってないだろうけどな。そうだろ?」

「制御出来てるようには見えないな……」

 ただ王の話を聞く限り、二面性の境界はかなり薄くなっているようにも思える。サァリの二つの顔は、以前よりもよほど流動的だ。

 それは、彼女の苦心の成果なのだろうか。複雑な思いで悩んでしまったシシュに、トーマはまた人の悪い笑顔を浮かべる。

「いってしまえば、サァリはお前の為に大人になろうとしてるってとこだ。邪険にするなよ」

「……別に邪険にはしていない」

「お前がそう思ってても、言葉や行動に表れないとだめなんだよ。―――― ああ、出来れば神としてのあいつを拒絶したりするなよ。あとあと面倒なことになる」

 笑ったままの男の目に、微かに翳が落ちる。

 自嘲のような軽侮のような感情。それに気づいたシシュは眉を寄せた。空の茶碗を手で避ける。

「面倒なこととは?」

 他の人間なら、そこで遠慮のない問いをしなかったかもしれない。

 トーマは率直な性質の友人に対し、すぐには答えようとしなかった。無言で笑って軽く肩を竦める。

 ややあって窓に向けて泳がせた視線が、屋敷の離れを一瞥した。

「俺の父は、相手が神であることに耐えられなかった。己のもう一つの側面を拒否された母は、神としての自分を完全に切り離して封じたのさ。そしてウェリローシアを出て父に嫁いだ。……サァリは知らない話だ」

 トーマは離れを見たまま、唇の片端だけを上げる。そこには普段あまり本心を見せない男の、押し殺した怒りが垣間見れた。

 両親のどちらに、何を怒っているのか。簡単には踏み込めぬ他家の事情にシシュは沈黙を保つ。


 外から微かに聞こえてくる笛の音は、祝祭がすぐそこにまで迫っていることを示していた。

 明日は通りで人々に酒を振舞うのだというトーマは、軽く笑いながら腰を上げる。

「ま、サァリは可愛いだろ? よかったな」

「また脈絡がない話を……」

「可愛いよな? 可愛いっていうまでこの部屋から出さないからな」

「脅迫するな!」

 ―――― どうして兄というものは、こんなにも厄介なのだろう。

 そんなことを考えながらシシュは、八つ当たりを込めてトーマを張り倒し、部屋を出たのだった。

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