第43話 別離
もし本当に、このままの状態で城に乗り込まれたらどうしよう。
シシュの肩に担がれたままのサァリはそんなことを心配していたのだが、心配は心配のまま終わった。
レセンテに教えられた通り、使用人たちが使う通路から一階に出た二人は、広間の混乱を遠く聞きながら裏口へ向かう。しかし、開けはなされたままの扉から裏庭へ出てすぐ、着物姿の男がシシュの行く手を遮ったのだ。
アイリーデから出ても服装を変えていないアイドは、残された右目だけで呆れたように二人を見やる。
「そろそろ下ろせ。裏門の外には人目もある」
「断る」
にべもない返答に、サァリは「あうー」と呻いた。体勢的にアイドの姿は見えないが、見えなくてよかったのかもしれない。なんだか周囲の気温が下がったような気もする。
しかし、これに関してはアイドの方が正しい。崩れた着物でこの姿勢で外に出て、不味くないはずがない。サァリはどうお願いして下ろしてもらおうか、いい加減痺れかけてきた頭を振った。
「シシュ、あのね……」
「お前は巫を害する人間だ。そんな人間の前で下ろすことは出来ない」
サァリの体を支える手に、きつく力が篭る。そこにはっきりと窺える敵対姿勢に、彼女はぎょっと青ざめた。
―――― こんなところで戦闘になっては不味い。
いくら表が大混乱でそこに人が集中しているといっても、裏門付近で揉めていては、誰かの目に触れてしまう。
それを差し引いても、この二人が衝突すれば死人が出かねないのだ。
アイドは元々気性が不安定な人間であるし、左目をシシュに潰されてもいる。そこを正面から食って掛かれば、血を見るどころか骨や臓腑も見えることになるだろう。サァリは周囲の暗い草木を見ながら、出来うる限り穏かな声を作って言った。
「ね、シシュ、私なら大丈夫だから、下ろして欲し」
「身に染みていないのか? 誰にでもいい顔をしようとするのは巫の悪癖だ」
「悪癖……」
「怒るべきところはきちんと怒れ。それが出来ないのなら館を出るな」
冷たさよりも憤りを感じる声に、サァリは返す言葉を失くした。
このような状況で言わなくともとは思うが、彼の言わんとすることはもっともなのだ。自分で自分の始末をつけられない人間が、外に出て周囲に迷惑をかけていては仕方ない。率直な説教に、サァリは自分がほんの子供に戻った気がした。
「反省してます……」
「ならじっとしてろ」
刀を握りなおす音が聞こえる。アイドの吐く溜息がそれに重なった。サァリはぎくりと身を固くする。
これはどう止めればいいのか。とりあえず声を上げようと口を開きかけた時―――― 覚えのある声が笑った。
「俺が言うより効くみたいだな、サァリ」
「……え?」
暗闇の中から手が伸びてくる。それは、気配に気づいたシシュが振り返るより先に、彼の首筋へと届いた。
何をしたのか、サァリには分からない。ただぐらりと傾ぐ青年の肩から、彼女は男の手によって抱き上げられる。目を丸くする少女に男は笑った。
「いい勉強になったな。怪我はないか?」
「トーマ!」
「出てくるのが遅い。オレも抜刀するところだった」
草の上に倒れたシシュの様子を、二人の男が慎重に窺う。
裏庭に吹く風に花の香りは混ざっていない。あれ程馴染んでいた血も生臭さも消え失せて、月光の下には倦怠の残滓と静寂だけが漂っていた。
「祝祭の準備で屋敷に戻っていたらヴァスに呼び出されたからな。何かと思った」
「ごめんなさい……」
まさか兄にまで迷惑をかけていたとは思わなかった。シシュの体を担ぎ上げるトーマに、サァリは消え入りそうな声で謝る。
この数時間で一年分謝ったような気もするが、それは日頃無茶ばかりしていたことの裏返しなのだろう。同じ説教をヴァスから聞くであろうこともおそらく決定事項だ。
サァリは兄とアイドと並んで、砂利の小道の上を裏門へと向かった。そうしているとまるで、時間が巻き戻ったかのように思える。苦い後悔が感傷に付随するのも、己の未熟のせいに違いない。感情を整理するサァリに向かって、兄は門の先に泊まっている馬車を指す。
「とりあえずこいつを城に戻さないとな」
「うん」
「でだ、サァリ。―――― 言いたいことがあるなら、今ちゃんと言っとけ」
兄の言葉に、サァリは足を止める。何のことを言っているのかはすぐに分かった。数年もの間共にいた男へ、曖昧な禍根を残すなと忠告しているのだ。
門を前に少女は、隻眼の男を見上げる。
例の事件の後、彼は既にアイリーデにいなかった。昨日会った時には上手く話せなかった。
ならばこれが最後の機会になるかもしれない。
そう思うと、肝も据わった。
シシュを担いだトーマが、少し離れた門の傍で待つ。
声を潜めてしまえば届かない距離。サァリは見慣れているはずの男を見上げた。
左目を覆う眼帯だけが、ここがアイリーデでないことを思い出させる。それだけしか違和感を覚えないことに、サァリの胸は痛んだ。
「助けてくれてありがとう」
「助けたつもりはない。仕事をしてるだけだ」
「じゃあ今少しだけ時間を頂戴」
言いたいことを考えていた訳ではない。けれど、何を言おうとしているのかは分かる。
それはずっと知っていたことだからだ。サァリは過去の己の背を振り返る。
「私、あなたのこときっと好きだった。客候補として、って意味とは違うけれど。ずっとあなたに甘えてた」
子供の残酷さをもって、彼に甘え続けていたのだ。トーマに対する態度とは違う。けれどそれでも、彼女にとってアイドは自由に振舞える相手だった。主になり、窮屈さも味わうようになった彼女は、化生斬りである幼馴染の存在に大分救われていたのだ。
そのことを、サァリは全て終わってしまってから自覚した。
「でも私はアイリーデの巫だから。街を憎む人を客には選べない。あの街を出ることもしない」
「……それが刷り込みだとは思わないのか?」
「刷り込みだとしても。アイド、私があの街そのものなの。切り離すことは出来ないよ」
だから、彼がアイリーデを憎んでいるというのなら、それはつまりサァリを憎んでいると同じだ。彼女自身確かに、無知のまま彼をすり減らしていたのだから。
そしてだからアイドはサァリを傷つけた。当然の報いだ。お互いに時間をかけて歩み寄ることが出来なかった。
男は感情を閉ざした目で月白の女を見下ろす。
「オレは、お前もアイリーデに縛られていると思っている」
「それは違うよ」
「ならお前は、オレがあの街を潰したらどうする?」
「そうなる前に受けて立つ」
そして誰にも負ける気はない。サァリの双眸は一瞬、好戦的に輝いた。
子供によく似た、けれどそれよりももっと傲岸な眼差し。多くの娼妓が隠し持っているそれに、アイドは秀麗な顔を歪ませ嫌悪を見せる。繕いのない侮蔑を少女は受け止めた。
「……勝手にしろ」
「うん」
「もうくだらないことにオレを巻き込むな」
そっけない拒絶。男は踵を返し門を出て行く。
夜に吸いこまれていくその背に、サァリは澄んだ声をかけた。
「元気でいて」
聞こえなかったのか、返事はなかった。
それでいいのだと、サァリは飲み込んだ。
馬車に乗り込むなり、向かいに座るトーマは手を伸ばして妹の頭を撫でた。
その温かさにほっとして、サァリはほろ苦く微笑む。
「ごめんなさい。馬鹿ばっかりして」
「みんなそうさ。生きてる限りはな。でもあんまり俺を心配させないでくれ」
「うん」
「アイドのこともな。ああいう男に弱い娼妓もいるけど、俺は勧めないぞ。一緒にいると引きずられて駄目になる」
「……おばあちゃんも同じこと言ってた」
血族からの忠告に、サァリははにかんだ。かつて祖母から言われた時には、その意味はよく分からなかったのだ。
でも今なら少しだけ分かる。互いの翳を見つめあうような間柄になってはいけないと。夜の住人にとっては、どうしてもそちらの方が近しいものなのだから。
揺れる馬車は少しずつ過去から今を旅していくようだ。革張りの席に背を預けて、サァリは目を閉じた。
「本当はでも、何もなかったらアイドを選んでたかも。もうちょっと前向きになってくれてたら」
「前向きなあいつなんてあいつじゃないだろ」
「酷い」
でもそうなのかもしれない。アイドが変われるとしたら、おそらくアイリーデを出た今になってからだ。そうなれば良いと思うのはサァリの我儘だろうが、出来るなら彼に別の生き方があればいいと思った。
トーマの手が、ずり落ちかけたシシュの体を引き戻す。
「ま、何もなかったとしても、お前はシシュを選んだと思うぞ」
「……別に選んでないし」
「そうか? 気にいってるだろ?」
「…………」
猫の子を選ぶように言わないで欲しい。一生を左右する問題、とまでは言わないが、それなりに重要事であるのは確かなのだ。
サァリは馬車の椅子に座らされている青年を睨む。その首筋に黒い痣のようなものが見えるのは、トーマが薬を盛ったせいらしい。最初からトーマとアイドは、シシュを捕獲する為にあそこで待っていたのだ。
すっかり危険物扱いされてしまった彼の姿を、サァリはじっと眺める。初めて会った日のことが今更ながらに思い出された。
「シシュは、まっとう過ぎるよね」
彼は、夜の街にはおおよそ似合わない、まともな人間だ。
誠実で堅物。要領が悪いと言われることもあるが、それは彼に真っ直ぐなところがあるからだ。
まるでアイリーデの気風とは反対の、日の光の下で生きる人間。
―――― そんな彼だからこそ、何処となく惹かれてしまうのかもしれない。
トーマが苦笑して妹に同意する。
「そうだな。よくも悪くも、だけどな」
「アイリーデじゃ浮いちゃうよ」
「何処行ったってこいつは浮く。気にすんな」
「気にしてないし……だから、別に選んでるわけじゃないの!」
膝を打って力説すると、兄は「はいはい」と笑った。子供扱いするつもりなのか違うのか、そろそろ統一して欲しい。
トーマはぽんとシシュの肩を叩く。
「好きに迷えばいいさ。けど変な遠慮はするなよ、サァリ。こいつみたいに絶対手放さないってのも困るけどな」
「何それ」
サァリはふてくされて視線を外すと、馬車の窓から糸のように細い月を見上げた。
良く晴れた夜、蔵開けの新月は、もうすぐそこにまで迫っていた。
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