第40話 捕縛
後ろから迫ってくるならず者たちと、前から近づいてくる化生斬りなら、まず間違いなく化生斬りの方が怖い。
それはサァリに限ったことではなく、アイリーデの人間なら誰しも共通して持っている認識だろう。
挟撃される未来を前に、サァリは従姉の傍に駆け寄る。
「フィーラ、とりあえず一旦離脱して……」
「面白いから、彼を上の部屋に誘導してみたら? あそこにいた人間たちが皆殺しにされたら、大分すっきりするでしょう」
「…………」
「ああ、ついでにこの国が傾いたら言うことなしね。そうしたらウェリローシアを私が復権させるから。エヴェリ、あなたの女王姿が楽しみだわ」
「いや、なんか、もう……」
やっぱりフィーラもいつも以上におかしい。普段の彼女であれば、冗談でこれくらいのことは言うだろうが、今はどう見ても本気で言っている。
憚らない会話が聞こえたのか、シシュが片眉を上げた。
「謀反するつもりか」
「そうね。とっても面白そう。まずはあなたの苦痛に歪む顔を見たいかしら」
「ちょ、あの、仲良くして……」
この二人に平穏への欲求はないのだろうか。
サァリは頭を抱えてじだじだともがいたが、現実逃避をしていられる余裕はない。彼女はならず者たちを振り返ると、先頭の男に向かって手を上げた。しかし力を打ち込もうと意識を集中したところで、男は急に走りだす。
サァリがぎょっと驚いている間に、相手は身を屈めると、倒れている下男の腰から短刀を抜いた。台座の上に飛び上がると、彼女に向けて刃を突き出す。
「……っ!」
意表を突かれたサァリは、何とか跳び下がるとぎりぎりで刃を避けた。
間に割って入ったフィーラが、空を切って金属杖をしならせる。鼻骨の砕ける音に、女の嬉しそうな笑声が重なった。
「ほら、全部の骨を割り砕いて上げるわ」
「フィーラ―― 」
ほどほどに、と言おうとしたサァリは、だが嫌な予感を覚えて横に跳ぶ。
体勢を崩しながら振り返ると、彼女のいた場所にシシュの手が伸びていた。
あのまま気づかずにいたら、襟首を掴まれ引きずられていたかもしれない。サァリは背筋がぞっと冷えるのを感じた。その間にも、台座の方からはフィーラの笑い声が聞こえてくる。
「シシュ、落ち着いて」
「落ち着きがないのはそっちだ」
「それはそうかもしれないけど、刀抜いてるし……」
このまま捕まったら、皮を剥がれて吊るし上げられそうだ。素手であってもシシュの腕力なら、女の首を折るくらいは容易いだろう。
自らの想像に身震いしつつ、サァリは彼から距離を取る。
その間、ならず者が三人、ばらばらとシシュに向かっていったが、青年はサァリを睨んだまま難なく彼らを斬り捨てていった。アイドが「六人くらいではどうにもならない」と言った意味がよく分かる。
自分もああなるかもしれない、と思うとサァリの体は一層冷えていく。
冷たい躰。意識が緩やかにその後を追った。―――― 自分を見据える青年の目に、萎縮ではなく不満が沸いてくる。
「シシュ……そろそろ大人しくした方がいいよ」
「まず自分が大人しくしたらどうだ」
「正気に戻った時に謝っても知らないから」
「巫は自分が悪くないと思っているのか? こんなところで、そんな格好になっておいて」
「これは……!」
すっかり開いてしまっている着物の襟元を押さえながら、サァリは左手の指を弾いた。そこに弾けた光が、宙を蛇行し、フィーラに向かっていた男たちを撃つ。
―――― わざわざ肉眼で見ずとも、広い部屋の中のことはおおよそが把握出来る。
しかしその感覚の拡張を、サァリは当然のものとしてほとんど意識していなかった。檻の中で蹲っている少女たちも、開かれた扉から這い出そうとしている大蛇も、認識出来ているが気にならない。自分たちが入ってきた扉の向こうに誰かが佇んでいるのも分かったが、彼女の注意は今のところ全て、目の前の青年に向いていた。
サァリはぱちぱちと指を鳴らす。
「私のことを言う前に、己が状況を省みたらどうだ。そんな風に物騒な有様でどうする。本当に鏖殺をするつもりなら手伝ってやろうか」
「それよりも、巫を野放しには出来ない」
「私をどうにか出来ると思っているのか? 人の身でどうやって?」
「サァリーディ」
呼ばれた名に、サァリはぴょんと飛び上がる。
意識した訳ではない反射の動作に、遅れて気づいた彼女は真っ赤になった。恥辱と怒りが胸の中で渦を巻く。
「この……」
顔の熱が、全身へと伝播していくようだ。何か言い返したいが、上手い言葉が見つからない。子供の喧嘩のような悪言を返しかけて、サァリは何とかそれを歯先で留めた。
赤面して歯軋りしている少女に、シシュは左手を差し出す。
「こっちに来い」
「……皮を剥ぐつもりだろう」
「皮は剥がない。いいから来い」
再三の手招きに、サァリは頑としてかぶりを振った。シシュの眉間の皺がより一層深くなる。
凶相と言っていいその表情が、サァリに向けられるのは初めてのことだ。彼女は内心萎縮して顔をひきつらせた。
だが、正気の自分がどうして折れなければならないのか、という思いもある。
サァリは意を決すると、左手の腕輪を外した。
「お前の癇癪につきあうのも飽きた。少し眠っていろ。後で地上の池にでも放り込んでおいてやる」
少し強く撃って、気絶させてしまえばいい。
左手を上げながら、サァリは台座の方を一瞥した。その上に立つフィーラが、這い寄る大蛇に向けて男を蹴り落としている。大概ひどい光景だが、特に何の感慨が沸く訳でもない。視線を戻したサァリはしかし―――― 唐突に目の前に広がる床に、悲鳴を上げた。
「きゃああ!」
「喋るな」
ばたばたと足が空を斬る。ほんの一瞬目を離した隙に、シシュに捕まってしまったのだ。小脇に抱えられたサァリは、飛びかかってくるならず者に青年が刀を上げるのを見て、慌てて巻き添えにならぬよう縮こまった。床の上に飛び散る鮮血だけが見える。
斬られた男が倒れると、とても神に対するものとは思えない行いに、サァリは必死の抗議をした。
「は、離せ! 怒るぞ!」
「俺の方が怒ってる。このままお仕置きをされたいのか?」
「…………」
想像してしまったのは、子供のようにお尻を叩かれる図だ。幼かった頃にもそのような目にあったことのないサァリは、すっかり顔から血の気が引いてしまった。
いくらなんでもそんな目にあった巫など、今まで一人もいないだろう。サァリは唇を噛むと、より大きな屈辱を避ける為、小さな屈辱を飲むことにした。消え入りそうな声で言う。
「ご……ごめんなさい」
「本気で言ってるのか?」
「本気……」
頷くとサァリは床に下ろされた。
けれどほっとしたのも束の間、シシュは彼女を肩の上に担ぎ直す。先程よりも高い位置から床を見落とすことになったサァリは、とっさに青年の背に両手をついて体勢を保った。シシュが部屋を見回すのと連動して、視界が動く。
「よ、酔いそう」
「檻を開けられるか? 捕まっている人間を逃がす」
「多分開けられる。けど、ちゃんと逃げてくれるか分からないよ。花の香に侵されてるから。さっきの女の子もおかしかった」
―――― あなたもおかしい、と言いたかったが、言ったらまたどんな目にあうか分からない。
体の冷たさが何処かにいってしまったサァリは、さすがにそろそろ疲れてきているらしい従姉を見やった。
「もうちょっと人手があれば……」
「なら手伝ってあげようか?」
軽い声と共に、入り口の扉が開かれる。
そこに立っているのは、赤い髪の娼妓だ。上の遊び場でも見た彼女に、サァリは目を丸くした。後ろからフィーラの声がかかる。
「レセンテ」
「や、来たよ。楽しそうだねえ」
軽く手を上げる娼妓の後ろから、更に二人の男が入ってくる。彼らはそれぞれ荷物のように担ぎ上げられているサァリを見て、何とも言えない顔になった。サァリは知己である二人に驚きの声を上げる。
「ヴァス、アイド、どうして」
「今回のことは、あたしの仕切りなんだよねえ。お姫様が乗り気だっていうから止めなかったけど、ごめんねえ」
言いながら赤い髪の女は、アイドに向かって檻を指した。
普段通りの着物姿である彼は、一転してサァリなど存在していないように無視すると、娼妓たちの捕らえられている檻へ向かう。
その時になってサァリはようやく、この娼妓が誰であるのか思い出した。
「あ、レセンテ・ディスラム……フィーラの恋人の……」
王都の館主でもあるという彼女は、以前からネドス男爵のことを怪しんでいたのだ。
アイドを護衛として雇ったのもおそらく彼女で、ここにいるということは、今回の一件を暴く為に自ら酒宴に潜入していたのだろう。
不審げに彼女を睨むシシュに代わって、サァリは一番気になっていることを確かめた。
「あの、あなたは正気?」
「この匂いのこと? 正気だよう。あたしは体質的にこういうの効かないんだよねえ。他の二人は知らないけど」
「早く出ますよ。これだけあれば証拠は充分でしょう」
手布で鼻と口を押さえているヴァスは、手にもった書類の束を示す。
手伝ってくれ、と頼んだ訳ではないが、サァリの知らぬところで色々とやってくれていたのだろう。彼女は従兄に向かって頭を垂れた。
「ありがとう……」
「そこの馬鹿姉の失態がありますから、今回は目を瞑ります。次はやめて頂きたいですが。……その有様は何ですか?」
「聞かないでください……」
まったく役に立っていない上に、ここまで情けない状態となれば、言い訳をする気にもなれない。
サァリは溜息をついてシシュに訴えた。
「シシュ、帰ろう。どうにかなりそうだから」
むっすりと黙り込んでいる青年は、何を考えているのか分からない。いっそ王の名を出すべきか、それとも出したら逆効果になってしまうか。
サァリが迷っていると、部屋の奥の方から男の声が上がった。
「不味い。此処まで来てるぞ」
「此処まで、って?」
身を捩ってアイドの方を見たサァリは、それが何を指しているのかすぐに分かった。
高い天井に、巨大な蜘蛛が張り付いている。大人の背丈程もあるそれは、この場の気に引き寄せられてきた化生だ。
現にレセンテやヴァスには見えていないらしく、彼らはきょろきょろと違う方向を見回している。
サァリは力の入らない態勢ながら左手を上げた。
「縛」
見えぬ力が、まずアイドの胸を、そして蜘蛛を貫く。
衝撃でぼとりと床に落ちてきた蜘蛛を、アイドが慣れた様子で手繰り寄せた。彼ならば心配いらない。ほっと安心しかけたサァリに、ヴァスが問う。
「化生がいるのですか」
「ええ」
「そうですか」
白っとした返答に含みを感じたのは、ひとえに長年の付き合いからだ。
サァリは従兄に疑いの目を向けた。
「なんです。はっきりおっしゃい」
「いえ、大したことではないのですが。―――― 実は、上が少し不味いことになっています」
「不味いこと?」
もしかして、遊び場で誰かが暴れているのだろうか。
そう考えたサァリの予想を少し上回って、ヴァスは告げた。
「花の香が地上まで洩れているのと、化生が人を誑かしているようです。客の半分以上が正気を失って乱闘騒ぎになっています」
「……何それ」
「あら、面白いじゃない」
無責任な従姉の感想に、サァリはげっそりとうなだれる。
こんな状況がどうにかなるのだとしたら、もう全て終わった後の時間に跳んでしまいたい。
続く面倒を思って脱力した彼女は、上体を支えていた両手を離すと、シシュの背にぶらんと逆さにもたれた。
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