第39話 白刃


 広い部屋に染み付いている花の香りは、その正体を意識した途端、吐き気を伴ってサァリを圧した。

 早く地上に出たいと思いつつ、この状況ではそれも叶わない。彼女は縋りついたままの娼妓を見下ろす。

 必死になっている少女の顔は、やはり何処か精神が麻痺しているように視えた。中毒患者のように虚ろな目で、しかしサァリを離すまいと食いついてくる彼女は、「自分を助けて欲しい」という欲だけで動いているようである。


 男爵が、緊張顔のサァリを見て微笑んだ。

「君のいたアイリーデはどうか知らないが、王都の若い娼婦はね、強い依存心を芯に宿していることが多いのだよ。彼女たちは、暗くて深い穴の縁にいるからこそ、いつか誰かが自分を救ってくれないだろうかと願っている。……そんなだから、上で客の相手をさせるにも、ここで食べさせるにも、実に使い勝手がいい訳だ」

「使い勝手って……」

 だから娼妓を狙って攫ったのだと言われても、胸の悪さが増すだけだ。

 彼女は心の中で少女に詫びると、薄い身体に力を打ち込む。娼妓の少女は声もなく台座の上に倒れ込んだ。


 体が自由になったサァリは、そうして改めてネドス男爵と―――― その隣のシシュに向き直る。

 青年は、魂が抜けたように扉の前に立ち尽くしているままだ。

 男爵は彼の様子を一瞥すると、サァリに微笑してみせた。

「堅物で有名な王弟殿下だ。最初は君を人質にして、ここにご招待しようと思っていたのだよ」

「私を攫わせたのはその為?」

「ああ。あの時は失敗に終わったが……。君は結局、人質としてうまく働いてくれた。何も問題はない」

「……それは」

 サァリが地下にいると聞けば、シシュは後を追わない訳にはいかなかったのだろう。

 彼女からすると「放っておいてよかったのに」と言いたいところだが、彼がそう思えないのは分かる。結果として人質の立場が逆転してしまった状況で、サァリは言葉に出来ない申し訳なさを抱いた。「やはり離れるべきではなかった」と、記憶の奥底で声が囁く。




 しかし、起こってしまったことを今更後悔しても無駄だ。サァリはサァリで、この状況を切り抜けなければならない。彼女は恐る恐る青年の様子を窺った。

「ね、シシュ……。シシュは大丈夫だよね?」

「さて、君の知っている殿下はもういないのではないかな。どんな人間にも、隠された欲はある。それを表に出せば、別の人間に見えることもあるだろう。……もっとも私としては、それが人間本来の姿であるとも思っているが」

 したり顔で笑う男爵は、黙ったままの青年を振り返った。端正な横顔に語りかける。

「そうでしょう、殿下。あなた様にもずっと押し殺していた望みはあるはずだ。たとえば―――― 横暴が過ぎる現王を退けて、この国をよりよいものにしたい、とか」

「……っ」


 ―――― それが狙いだったのか、と、サァリは得心する。

 古きものに次々改革の手を入れていく王を廃し、自らの息がかかった傀儡を王座に据える。

 それに加えて、この酒宴に集まっている貴族や豪族たちを取り込んでしまえば、王都の半分は掌握したも同然だろう。


 サァリは、先程から落ちつかなげなガラク侯に視線を移した。

 屋敷の地下にこのような場所を隠し持っていたということは、彼もまた主犯の一人のはずだ。

 ちらちらとフィーラに視線を送っていた男は、張り詰めた空気に耐え切れなくなったのか、シシュの傍に駆け寄る。

「で、殿下、即位なされたあかつきには、ウェリローシアは是非私に……」

「ウェリローシア?」

 どうしてここで自分たちの家名が出てくるのか。

 サァリは驚いて従姉を見たが、彼女は冷笑を浮かべて気絶した男を見下ろしているままだ。

 怪訝な声を上げたサァリに、男爵が親切にも付け足す。

「新たな国の礎は固いものとしておきたいからね。たとえば古き国ウェリローシアには、神と交信し、その加護を得る術が伝えられていたという」

「神の加護、って」

 つい自分の顔を指しそうになったサァリは、何とかそれを堪え、大きな目をまたたかせるに留めた。男爵は彼女の様子にも気づかず、余裕を滲ませた演説を続けている。

「私たちも己の国にその加護が欲しいのだ。ウェリローシアの蔵にはかつての遺産が多数死蔵されている。それらを手に入れればより一層の力となるだろう。―― ただガラク侯は、そこの彼女にも興味があるようだが」

「そこの彼女?」

 サァリがフィーラを振り返ると、家の話が聞こえていたのか、彼女はようやく顔を上げた。蛇が獲物を見る目でガラク侯を注視する。

「あら、わたしを欲しいなんて物好きね。でも生憎と好みじゃないわ。顔も中身もつまらないもの」

「わあ……」

 身も蓋もない両断に、サァリはつい胃の上を押さえたが、言われた当の本人は、そこまで打ちのめされなかったらしい。むしろ後押しされたように、シシュの右肩に手をかけた。期待と焦りを滲ませた声音で懇願する。

「殿下、どうか」

 背を丸めてシシュを見上げる男は、次の瞬間、そのままの姿勢で弾き飛ばされた。



 ―――― どうにもさっきから、理解が事態に追いつかなくて困る。

 地下に来て何度目か分からない呆然を味わったサァリは、我に返ると今の状況を再確認した。

 まずネドス男爵は、先程と同じ位置でサァリと同様唖然としている。

 金属杖を持った従姉は、口笛を吹きたそうな顔でシシュを見ていた。

 そのシシュは、床に叩きつけたガラク侯を感情のない目で見下ろしている。手袋を嵌めた手が、音もなく飾り刀を抜いた。低い声が静止した部屋に響き渡る。

「片付けても片付けても、こういう輩が次々出てくるのが腹立たしい」

「……シシュ?」

「陛下は秘密主義の上、こういう者たちを泳がせたがるが……。その都度処分していった方がいいに決まっている。存在自体が許しがたい」

 黒い両眼が、居合わせた者たちを睥睨する。

 普段の青年とは違う冷徹な眼差しは、鋼鉄の刃そのものに似て、敵を吟味する鋭さに溢れていた。

 床に伏したまま動かないガラク侯を見て、男爵もようやくシシュの「欲」が何か感づいたのだろう。顔を強張らせて後ずさる。

「殿下……誤解があるようですが」

「誤解?」

「私どもはただ―――― 」

 そこまで言うなり男爵は身を翻した。

 男は意外な程の俊敏さでサァリに飛び掛ると、細い喉元に短剣の刃を押し付ける。

 シシュの変化に気を取られていた少女は、無遠慮な力に締め付けられて苦痛の声を上げた。

「ちょっ……と!」

「殿下、落ち着いて話を聞いて頂きましょう。この娘の為にも」

「話?」

「ええ」

 男爵は頷きながら、近くに転がっていた下男を蹴った。軽く気絶していただけの男が目を開けると、その鼻先に鍵束を放る。

「開けて来い」

 短い指示が何を意味しているのか、下男はぎょっと顔を引きつらせたが、すぐに鍵束を掴んで檻の方へと走っていった。

 視界から消えた下男が何処に向かったのか、サァリには角度的に見えないが、シシュとフィーラには分かるだろう。金属杖を構えたフィーラが、下男の姿を追って片目を細めた。一方シシュは、何を気にした風もなく男爵を見返している。

「話など聞くまでもない。お前も上の奴らも同様に処分するだけだ」

「っ、いいえ、殿下。お待ちください。この娘は聞いて欲しいと思うでしょう」

「私は別に……」

「サァリーディ」


 ―――― 呼ばれた巫名は、強い力を持っていた。


 魂までも打ち抜く程の力。反射的に息を呑むサァリを、シシュは正面から見据える。

「話があるのはこっちだ。人の話を聞かずに余計なことに関わって、この有様か?」

「シ、シシュ、私は」

「陛下も陛下だ。巫をわざと巻き込んで……俺の話を聞き流しているとしか思えない。どういう神経をなさってるのか、そろそろ真剣に分かっていただかなければ気が済まない」

「…………」


 ―――― どうやら彼は、全方位に怒っているらしい。

 白い花が呼び覚ます「人の欲」とやらが、どのような範囲を持っているのかは分からないが、シシュの持つそれは「周囲の理不尽への怒り」なのだろう。自分もその対象になっていると分かったサァリは、血の気が失われた唇をぱくぱくさせた。喉に押し付けられた刃よりも正直、今のシシュの方が怖い。名を呼ばれた時に脈打った心臓が、まだ余波に喘いでいる。


 サァリは目だけを動かして、従姉を見た。

「ど、どうしよう」

「とりあえず、そこの張り付いている男を殺してから考えたらどうかしら」

「って言っても」

 背後から取り付かれている為、力を打ち込もうにも角度が悪い。男の腕を引き剥がすことも出来ないサァリは、シシュが自分たちに近づいてくるのを見て、飛び上がりそうになった。

「ま、まずい。離して。一緒に斬られるかも」

「そんなはずが……」

「だって絶対私のこと怒ってる……!」

 サァリからすれば、花に囚われたシシュこそが敵の罠にかかっているのだが、彼にしてみれば、忠告して遠ざけたにもかかわらず、こんなところで人質になっている彼女の方が問題だ。

 何とか短剣を掴んで逃れようとするサァリに、男爵は全身を戦慄かせた。

「馬鹿な。そんな訳がない。あの王弟を傀儡にさえすれば、全て。すべてきっと……」

 ぶつぶつと呟かれる言葉は、次第にろれつが回らなくなってきている。

 サァリは震える男の手に、婦人の狂乱を思い出した。少し緩んだ腕の中で身を捩ると、男爵を仰ぎ見る。

 ついさっきまで普通であったはずの男の顔は、今はぶるぶると瞳孔を震わせて、あらぬ方を見ていた。

 これだけ花の香が濃い地下である。おそらくネドス男爵も最初からその影響を受けていたのだ。或いはシシュを利用しようとした彼の権勢欲も、本来ならば理性に押し込められて表に出ないはずのものだったのかもしれない。


 サァリは近づいてくるシシュを確認すると、フィーラに目配せした。従姉が小さく頷いたのにあわせて機をはかると―――― すっとその場に腰を落とす。

「な……っ」

 手の中をすり抜けた人質に、男爵は一瞬だけ正気に戻ったように見えた。

 しかしその顔を、フィーラが振るった杖が強打する。悲鳴を上げて蹲る男を振り向きもせず、サァリはシシュに向かって左手を上げた。

「―― 縛!」

 不可視の力が、青年の胸へと走る。

 だがそれを受けたシシュは顔を軽く顰めただけで、何ら歩みを止めることはなかった。サァリは己の失策に気づいて青褪める。

「あ、シシュは慣れてるんだっけ……」

「ねえ、エヴェリ。面倒が増しているみたいだけど」

 近づいてくる青年から後ずさりつつ、サァリは金属杖が指し示す先を振り返った。

 そしてぎょっと足を止める。

 数ある檻のうち、もっとも奥にある一つの扉が、いつの間にか大きく開け放たれている。

 そこから出てきた屈強な男たちが、胡乱な目で自分たちに近づいてくるのを見て、サァリは何だか泣きたい気持ちになったのだった。

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