第37話 痴態



 爛れきった空間においては、全てが人の生臭さに繋がっている。

 あちこちから聞こえてくる嬌声。艶かしい潤んだ吐息や囁きを、サァリは当然のものとして受け止めていた。

 女たちのそれが演技か否かは、アイリーデで育った彼女にはおおよそ判別がつく。だが、このような場としては意外なことに、装って作られた声は極僅かに聞こえた。空気に酔っているのか濁りのある声に、サァリは内心で首を傾げる。

 物知らずな少女娼妓としては、彼女は陶然と目を細めた。

「愉しそう」

「何がしたいかね。賭けに加わりたいのなら私が出そう。肌を見せる遊びがしたいなら……止めはしないが、殿下に怒られるかもしれないね」

「あら。もう関わりのない方ですわ」

 飽きたおもちゃを放り投げるように、サァリは言い捨てた。あからさまな媚びをもって男爵を見上げる。

「そもそもあの方は、娼妓遊びの何たるかも分かっていらっしゃらなかった。無粋な方ですわ。わたくしのような小娘を身請けしたいと仰るなんて」

「誠実な方なのだろう」

「それでも、わたくしはアイリーデで生まれた女。娼妓になる為に育てられている女です。それを途中から持ち去ろうなんて、王都の方は随分と傲慢ですのね」

 唇を尖らす少女に、男爵は苦笑する。

 サァリはその目の奥に、計算する思惟が浮かぶのを見逃さなかった。


 ―――― 少しずつ、端々に未熟さを滲ませる。

 はっきりとは言わない。だが男が「彼女」という人間を把握出来るように。

 アイリーデの見習い娼妓。王都の華やかさに憧れと反感を持っている。

 自分を連れてきた青年には、堅物さへの不満と、しかし少しの恋情を。

 そしてそれらを上回る好奇心。愚かさ。幼い野心。

 全部をはっきり示す必要はない。わざと欠けた部分を作り推測させる。

 そうすることで、相手は容易く己が他よりも上に在ると信じる。―――― この娘のことは大体分かった、と。


 実際には、アイリーデの娼妓は少女であってもそこまで単純な思考はしない。彼女たちは皆が「玄人」で、分かりやすく本心を表に出すことなどほとんどない。

 ただ装った内面を見せれば、相手を動かしやすくなる。そしてそれゆえに、多くの客は間違った印象を娼妓たちに抱いている。

 サァリは先達たちの築いたものを借りつつ、男をゆっくりと誘導していった。気づかれないように、「この女は利用出来る」と思わせて。


 ネドス男爵は彼女を伴ってテーブルの一つに向かうと、そこに並べられていたグラスを手に取った。白い花弁の浮かんだ薄紅色の酒をサァリへと差し出す。

「ほら、飲みたまえ」

「ありがとうございます」

 薬が盛られている可能性も考えたが、舌先で味わう限り、何ら変哲のないただの果実酒だ。

 二人はグラスを手に隣のテーブルを覗く。そこでは洋札を使った賭けが行われていた。

 恰幅のよい男や上品そうな老婦人、派手な中年の貴婦人らが、真剣に黒服の胴元の手つきに見入っている。絵の種類をあわせて、決められた手のうちのどれかを完成し、得点で勝負するというそれを、サァリは興味深げに眺めた。隣の男爵が微笑んで卓を指し示す。

「参加してみたいかい?」

「あなた様がなさるのならば、お手伝いいたしますわ」

「これは心強い」

 社交辞令の一環であろうが、男爵は胴元に手を振って手元に札を一枚取り寄せた。

 最初の一枚であるそれだけは表を上に向けられており、誰にでも見られるようになっている。あと四枚は、胴元が卓に伏せたものの中から客自身で選ぶ決まりだ。


 サァリは面のような笑顔の胴元をまず見て、次に他の客たちと、彼らが手元においている掛け金の数を確認した。銀貨になっているそれらには、花の飾り彫りが施されている。

 札を全て伏せ終わった胴元が、客たちに手を広げてみせた。

「どうぞ、お選びください」

 その言葉と共に、客たちは一斉に卓の上へと手を伸ばした。ある者は笑顔で、ある者は真剣な目で、伏せた札の一つ一つを吟味する。男爵はサァリを振り返った。

「どれを選んだらいいと思うかね?」

 彼が受け取った最初の一枚は、白の女王だ。サァリは胴元を視界の隅に確認しながら、卓の上を指さした。

「まず……二列目右から三枚目を」

「これかい?」

「ええ。次は……そうですね。その三列下」

 男爵は言われた通り、伏せたままの札の上に自分の銀貨を乗せていく。

 三枚目までを選んだところで、胴元がサァリを一瞥した。彼女は札だけに集中する振りをして、最後の一枚を指さす。

「それで……、ああ、その左隅がよろしいですわ」

「分かった」


 全員が札を選び終わると、胴元が選ばれた順に、各人の札を一枚ずつめくっていった。

 期待と失望の声が次々上がる中、男爵の選んだ札は順に「白の騎士」「白の兵士」「白の僧侶」だ。他の客たちが驚きの目で二人を見る。胴元の手が、全員の視線を受けて最後の一枚にかかった。

 ―――― これが「白の王」なら、勝負は男爵の一人勝ちだ。

 滅多に出来ることのない強い手に、場の空気も緊張に染まる。


 サァリは微笑んで洋札がめくられるのを待った。胴元の手が、隅の一枚を表に返す。

「……赤の騎士です」

「ああ、残念」

 サァリが袖口を握って悔しがると、男爵が笑ってその肩を叩いた。

「幸運の女神になるには、もう一歩のようだ」

「精進しますわ」

 胴元に銀貨を投げて、二人は卓を離れる。サァリは背に研がれた視線を感じて、内心苦笑した。男爵が声を潜めて囁く。

「君は賭けが得意なのかい?」

「いいえ。腕のよい胴元と競うようなことは出来ませんわ。だから代わりに、他の方々に注目したのです」


 ―――― 誰が勝っているか。誰が負けているか。

 卓の空気を読めば、胴元が次に誰を勝たせて誰から銀貨を取ろうとしているか、察しがつく。その上で他の客たちの視線や手ぶりに注意し、彼らが選びやすい位置の札、選ばない札のあたりをつけたのだ。他の客にはちょうど「白」の札が振られていなかったから、見当はつけやすかった。―――― もっともこんなやり方では、単に勝ちやすくなるだけでしかない。賭け全般が得意なトーマであれば、もっと確実に、余裕をもって最終的な勝利者となれるはずだ。


 サァリは軽く片目を瞑ってみせる。

「お客様に勝利を呼び込むのも、娼妓の努めと教えられております」

「そして多くの金を使わせるのも、だね」

 機知を含んだ返答に、サァリはくすくす笑って首肯した。



 男爵は細かく区切られた「遊び場」をいくつか選んでサァリに紹介していった。

 きちんとした着物を着てきたのは幸いだろう。他の客のちょっかいで脱がされなくて済む。

 酒が回っているのか貴族の女の中には、はやし立てられて下着姿になっている者も何人か混ざっていた。サァリはそんな痴態を横に見ながら、空になったグラスを給仕へと返す。

「大丈夫かい?」

 男爵が、小柄な彼女を気遣って覗き込む。ここまで何度かされたように、医者の検診に似た視線が、サァリの顔色を確かめた。彼は壁際の長椅子を指さす。

「そろそろ疲れただろう。少し休むかね」

「ええ……。ありがとうございます」

 今のところ、肝臓を抉られている人間は見当たらない。彼女を抉りに来ようとする人間もいない中、けれどサァリは一つの不審を感じ取っていた。

 ―――― どうにもここに来た時から、空気がおかしいのだ。

 酒と汗と淫水の生臭さというだけでなく、雰囲気がおかしい。皆が皆、そろって酩酊しているような気配があり、それは時間が過ぎるにつれて酷くなってきている。

 サァリは得体の知れない空気の正体が何であるのか、訝しさを隠して辺りを見回した。遠くの天井近くに黒い影を見つける。

「……化生?」

 赤子程もあろう蜘蛛の形をしたそれは、しかし実体のないただの影だ。そのままですぐ何かを引き起こすという訳ではない。むしろここの淀んだ空気に引き寄せられただけだろう。


 サァリは蜘蛛から視線を外し―――― そのせいで突如目の前に現れた女に、ぶつかりそうになった。すんでのところで立ち止まった少女は、相手の女に頭を下げる。

「申し訳ありません。余所見をしておりまして……」

 サァリの進路を塞ぐように立っているのは、豊満な肉体を黒のドレスに包んだ年嵩の女だ。顔に見覚えがあるのは、シシュが最初に挨拶をした時に、ガラク侯の傍にいたからだろう。女は胡乱な目でサァリを見下ろす。

「男爵、殿下の大事な蝶をこんな場所に連れてきてよいのかしら」

「殿下ご自身が手放されたそうだ。彼女とはそりがあわなかったようでね」

「あら、そうなの?」

 女の目が、サァリの全身を舐め回す。

 そこに窺えるものは、ただの欲だ。貴族の女の多くが娼婦に向ける侮蔑でも、興味でもない目。強いていれば底無しの食欲に似た視線に、サァリは本能的な嫌悪を覚える。

 女の太い指が、少女の顎を掴んだ。

「あなた、殿下の手はついているの?」

 直截的な問いは、サァリの待っていたものだ。

 シシュのせいで遠回りしてしまった道程が、これでようやく埋められる。

 サァリは、怒りと苛立ちを混ぜ、更にそれを塗りつぶす勝ち気な表情を作った。

「そういうことをなさる方に、思えますか?」

 ―――― だから厭だったのだ、と、作られたアイリーデの少女は笑う。

 まるで普通の小娘のような憤懣に、女は鼻を鳴らして応えた。

「男を知らないのね。愚かだわ。けれど都合がいい」

「何の都合でしょう」

「男爵、この娘がいいわ」

 女の視線は、サァリを通り越して背後のネドス男爵へと向かう。豊かな胸の上で白い花飾りが揺れるのを、サァリは眉を寄せて見やった。怪訝な顔で男爵を振り返る。

「男爵様?」

「こんなに美しい娘なんですもの。きっと他の娘より効果があるわ。いいでしょう?」

「彼女は……」

 言い淀む男爵は、女の要求をどう断ろうか考えているように思えた。

 それに比べて女の方はまったく相手の様子に頓着していない。興奮しているのか、次第にろれつが回らなくなってくる。

「いいわよね。このこが欲しいの。このこにするわ。だってほら」

「お待ちください、婦人」

「ああ、なんておいしそう」

 ―――― ぞっと背筋が冷えたのは、女の手が襟元を掴んだからではなく、サァリを見るその目が明らかに正気ではなかったからだ。

 右目と左目がそれぞれ別の方向を向いて震えている。だらしなく開けられた口元からは、黄色い歯と垂れてくる唾液が見えた。

 あまりにも奇怪なその顔に、サァリはさすがに唖然としてしまう。

 そうしている間に、女は異様な力を以って着物の襟を強引に割り開いた。少女の白い胸元が露になる。

 サァリはその手を留めようと咄嗟に口を開きかけた。


「醜いわね」


 場に響いたその声は、何処までも澄んで冷ややかだった。

 氷柱を深く差し込まれたかのような響きに、サァリは息を呑む。着物を引き剥がそうとする女の手を、横から別の白い手が掴んでいた。

 しなやかで、だが何処までも高圧的な力。二人の間に割って入ったフィーラは、隠そうともしない軽侮の目で黒ドレスの女を見た。

「身の程を知りなさい?」

 聞き覚えがありすぎる挑発的な声音に、サァリは内心で身を竦めた。

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