第36話 白い花
―――― どうしてこうなってしまったのか。
華やかな酒宴の中でサァリの姿を見失った青年は、呆然とここ数日を振り返った。
「……何を間違ったんだ?」
細かい失敗は多々あれど、その時その時で最善と思える手を打ってきたはずだ。
にもかかわらず、主君の命令は守れず、同伴者である少女は何処かに行ってしまっている。
シシュは、サァリの去り際の態度を思い出し、頭を抱えたくなった。
一見怒っているようには見えない丁寧な物腰ではあったが、世の中には本気で怒っている時程、そう見えない人種というものが存在する。
彼が知る限り、王とその巫が最たる者だが、さっきのサァリも似たようなものだろう。
あれだったら、神としての彼女に嫌味をぶつけられた方が幾分ましだ。本来はましなどと言えないものだろうが、そろそろ慣れてきている。
シシュは何とか少女を捕まえようと周囲を見回し―――― その時、視界の隅によぎる影に気づいた。
「あれは……」
開け放たれたままの扉の外を、大きな黒い鳥が横切っていく。
既に日の落ちた中を、人の頭上を掠めて飛んでいくその鳥に、他の人間は不思議と誰も気づかないようだ。
シシュはすぐに鳥の正体を理解して、足を外へ向ける。
貴族の酒宴に来るとあって普段使いの軍刀は置いてきてしまったが、装飾鞘に収めた刀はきちんと佩いている。
金の細やかな彫刻が施された鞘は、他の人間からは実戦用の武器に見えないだろうが、中は切れ味を重視した鋼刃だ。シシュは腰の柄を意識しながら、鳥を追って庭へと出た。すぐに篝火すれすれを旋回している翼を見つける。
シシュは周囲に人が多いのを見て取ると、装飾鞘に手をやった。そこに仕込んでいた掌程の長さの針を取り出す。
鳥は低い位置をくるりと回ると、人の輪に加わっている若い男の肩にとまった。
しかしそれに驚く者はいない。普通の人間には見えないものなのだ。見えぬままそれらは、人の心を蝕み災いを呼ぶ。
鳥に視線を向けぬよう自然を装いつつ、シシュは若い男に近づいた。後ろを通りすがりざま、針を忍ばせた手を上げる。
黒い鳥の首を掴み取るように素早く動いた手は、次の瞬間、鳥そのものを音もなく掻き消した。青年は夜の闇に四散していく影を確認すると、誰かに見咎められる前にその場を離れる。
「……化生がまぎれているとはな」
大きな街に化生がうろついていることは珍しくもないが、貴族の酒宴にまぎれているとは面倒だ。
こういった場では化生に力を与える悪い気が溜まりやすい上に、人の精神に影響を及ぼされては厄介な揉め事も起きてしまう。
気の利く人間が招待主であるなら、化生斬りを手配しておくこともあるのだが、目の前で刀を振るわれることを嫌がる貴族は多い。
シシュは「自分が気づいてよかった」と思いつつ、他の人間の様子を窺った。
今のところ怪しい動きをしている者はいない。化生に影響を受けたと思しき者も、そしてシシュを狙って来る者も、まだ何処にもその姿が見えなかった。青年は手の中の針を元の鞘に戻す。
―――― はたして今日ここに来ているであろう「敵たち」は、どのような出方で来るのか。
王の命令のもう半分であり、主でもあるのが、その問題だ。もう一度シシュを餌にして、相手の反応を窺うという役目。
危険を伴うであろうこの命令のことを考えるだに、サァリと離れている今の状態はかえってよかったのかもしれない。
共にいてまた攫われでもしたら困る。その点、別行動であるのなら彼女にはウェリローシアの人間もつくだろう。
ほんの一日二日のことではあるが、ウェリローシアの姉弟を見る限り、彼らは彼らなりにサァリを尊重している。ただ彼女自身への対応がいささか屈折して棘があるだけで、他の人間が少女に危害を加えようとすれば容赦ない対処に出るだろう。
―――― だからきっと、自分と一緒にいるよりずっといい。
そう己に言い聞かせたシシュは、けれどまとわりつく気鬱さを減じることが少しも出来なかった。やはり今すぐ彼女を探して一言言おうかとも思う。
だが、サァリを見つけられたとしても、一言で彼女の機嫌を取り戻す言葉など思いつかない。こんな時に彼女の兄がいたなら、多少の余計なお世話を含みつつも上手く取り成してくれるのだろうが、ここが月白の館ではない以上、甘い希望を持つことも出来なかった。
考え込むうちに眉間に深い皺を刻んでしまった青年は、我に返ると顔を上げる。
いつの間にか歩き続けて館の裏にまで来てしまっていた。周囲には灯りも乏しく、客の姿も見えない。
餌の役割を振られているのだとしても、こんなところに立っていてはあからさますぎて用心されそうだ。
シシュは軽くかぶりを振って踵を返した。そうしてだが―――― 視界の上端をよぎる影に気づく。
「なんだ?」
視線を上げた彼は、そのまま絶句した。
先程消したものよりも大きい鳥型の化生が、庭の上を飛んでいる。
それだけでなく館の屋根や窓の桟、庭木の上にも十数羽の影がとまり、獲物を探すように地上を注視しているのだ。
シシュは、すぐ傍の茂みから鼠の形をした化生が走り出てくるのを見て、我に返った。
「……ここの館は」
アイリーデのように化生が実体化しない場所では、多くの化生が集まっているといってもすぐに誰かに命の危険がある訳ではない。
むしろ不味いのは、これだけの化生を出現させ引き寄せてしまう「何か」が、ここにはあるということだ。
化生は人の発する「悪い気」を好む。
腹に一物も二物もある人間たちを集めた酒宴は、確かにその格好の場所であろうが、逆に言えば酒宴だけにここまで化生が集まってくることはない。シシュが知る限り、二十体近い化生が集まってくるのは戦場や大きな戦闘があったばかりの場所だけだ。
何の変哲もない貴族の集まりが、途端得体の知れない魔窟に思えて、シシュは辺りを見回した。
「不味いな……。サァリーディを帰さないと」
彼女に何かあっては困るし、彼女が何かしてはもっと困る。最悪王都が吹き飛んだら目もあてられない。
シシュは館内に戻ろうと早足で歩き始めた。その時、少女の真剣な訴えが脳裏に蘇る。
『その裏処方っていうのが、客の前で娘から生きたまま肝を引きずり出して―――― 』
「まさか」
想像した通りのことがこの館の何処かで行われているというのなら。事態は当初の見積もりよりもずっと複雑で深刻だ。
シシュは足を止めて振り返る。改めて化生たちが何処を窺っているのか、一体一体の様子を確認した。
そうしてあたりをつけようとしている彼の背後で、草を踏む乾いた音が鳴る。
「おや、殿下」
あまり好きではない呼称に振り返ると、そこに立っているのは昨日サァリと訪れた茶屋の主人だ。主君から要注意の店々として挙げられている店の主に、シシュは表に出さないよう内心で身構えつつ挨拶した。
酒盃を手にしている初老の男は、人のよさそうな笑顔を見せる。
「昨日はありがとうございました。今日はあのお嬢様とはご一緒ではないので?」
「少し事情がありまして」
一緒に来ているとも来ていないとも言わなかったのは、サァリに危険が及ぶ可能性を考えてのことだ。
だが、相手も先程彼女を紹介したことを知っていて、かまをかけているのかもしれない。
―――― 周囲に他の客の姿はない。
それが有利に働くか否か、シシュは老人との距離を測った。
老人は人懐こく微笑むと両手を広げてみせる。
「それは残念。折角面白い見世物がありますので、お連れ様にもと思ったのですが」
「面白い見世物?」
「ええ。女性にもご満足頂けるものではないかと、私は思っております」
老人はそこで言葉を切ると、目を糸のようにして笑った。
「―――― ご覧になりますか、殿下」
その誘いを拒否する理由は、何処にもなかった。
ネドス男爵に誘われて向かった場所は、サァリの予想通り客室の一つ―――― ではなく、館の地下だった。
薄暗い階段を下りていくサァリは、いつぞやのことを思い出して気分が悪くなる。壁際にかかる影を、青ざめた顔で見やった。
「どうしたのかね。具合が優れないようだが」
「申し訳ありません。少し空気が悪くて」
口にしたものは言い訳ではあるが、事実でもある。階段の先から漂ってくる匂いは、甘さと生臭さをぐちゃぐちゃにかき混ぜたかのようなものだ。意識すれば嘔吐感にもつながるであろうそれに、サァリは鼻と口を手で覆った。先を行く男爵が笑って懐から何かを取り出す。
「空気が悪いのは地下だから仕方ない。これをつけると少しすっきりするだろう」
そう言って男爵が差し出してきたのは、白い花の胸飾りだ。生花であるらしい大きな飾りは、しまわれていたせいか少し歪んではいたが、受け取ると爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。サァリはピンがつけられた胸飾りをしげしげと眺める。
「見たことのない花ですわね」
「南部から取り寄せているものだそうだ。―――― それに珍しいものではなくては困る。客人がこの地下に入る為の目印が、その花なのだからね」
「ああ……」
それならば見えやすいところにつけなくては不味いだろう。サァリは少し考えて、髪に挿している簪のうち一本を引き抜くと、それに花飾りを通して銀髪に挿しなおした。
単に王から借りた着物に針を通したくなかっただけなのだが、髪飾りとしても一応似合っているらしい。男爵が驚いた顔でサァリを見上げる。
「……よく似合うね。目印としては分かりにくいかもしれないが」
「その時はお口添え願いますわ」
邪気のない媚態を向けると、男爵は苦笑した。
二人は再び階段を下りていく。紫がかった明るい光が漏れ出している先は、かなりの広さの空間になっていた。
目に入る光景を、一言で説明することは出来ない。
それは形容しがたいという意味ではなく、あちこちで多くのことが行われすぎている為だ。
サァリは手すり越しに眼下に広がる眺めを見渡した。
一階の広間よりも、地下は一回り大きく場所を取られているようだ。三階分の高さはあるそこには、客たちが集まる「遊び場」ごとに細かく段差がつけられており、お互いの見通しはいいのだが、それぞれの領域を巧みに切り分けていた。ある場所では大きなテーブルが置かれ賭けが行われているようであり、ある場所では裸同然の少女たちが台座に上げられ踊っている。酒盃を手に笑いながらそれを眺める貴族たちは、いずれも胸に白い花をつけていた。
生臭く甘い香りは淫猥さから来るものだろう。サァリは、シシュがここに来たならどれだけ顔を顰めるか想像して、噴出しそうになった。
表面上は驚いた顔をしている少女を、男爵は笑顔で覗き込む。
「どうだろう。お気に召したかな」
「素敵ですわ」
間髪入れず返したサァリは、艶美に微笑んだ。青い瞳が好奇心に輝く。
「それでわたくしには、どの味を試させてくださるのです?」
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