第35話 引力



 現在酒宴が開かれているガラク侯の館は、正面の玄関広間とその上階の客室を、客たちに開放しているのだという。

 サァリは、広間の隅にある柱の影から、吹き抜け越しに上階の様子を窺う。

 彼女のいる場所から見えるのは四階までだが、金色の手すりの向こうに並んでいる扉はどれも同じようなもので、客室を借りたとしても、それが何処なのかすぐに分からなくなってしまいそうだ。もっとも、扉には小さな金属板がはめ込まれているようだから、そこで区別がつけられるのかもしれない。


 まだ誰も客の姿がない上階の廊下を、灰色の服を着た小間使いが歩いていく。俯き気味の表情が判然としないのは、廊下の照明が薄暗いせいだろう。

 サァリはそんなことを考えて、冷静になろうと努力しつつ―――― だが抑えきれない腹立ちに両拳を握った。目の前の青年を睨み上げる。

「どういうつもり?」

「聞くまでもないと思うが」

 白々と返すシシュも、サァリの気のせいでなければ機嫌が悪い。

 よく分からないまま一触即発の事態に踏み込んでいる二人は、華やかな空気のすぐ裏で、それぞれのままならなさに向かい合っていた。

 サァリは声を潜めて言い募る。

「あんなことを言われたら、私に何かしようとする人なんて絶対出てこないでしょう」

「それを狙って言った」

「どうして勝手に―――― 」

「巫も前に同じことをしただろう」

 冷ややかに反論され目を丸くしたサァリは、そう遠くもない過去を振り返り、言われたことに行き当たった。


 確かに以前アイリーデで異変が起きた時、新参の化生斬りを守る為に、客へ渡す飾り紐を彼に預けたことがあったのだ。

 その際に紐について、彼に詳しい説明はしなかったかもしれないが、緊急時であったのだから仕方ない。

 サァリは握ったままの両拳をぶんぶんと振った。

「あれはだって、あなたが危ないと思って」

「俺もそう思って言った」

「…………」

「自分から何にでも首を突っ込むな、サァリーディ。巫に何かあったらアイリーデの人間も困る」

「でも肝臓が」

「それについては俺が後で調査する」

 肝臓、という単語を聞くだけで、どうやらシシュは苦虫を噛んでしまうらしい。

 言い切る前に話を挫かれ、サァリはぶすっとした顔になった。

 もはや微笑の欠片もない少女の頭に、青年の溜息が降ってくる。

「そう機嫌を損ねるな。俺もこれで、陛下のご命令を半分無視することになった」

「え? 陛下の命令って?」

「妻になる相手を選んでこいと」

「え……?」


 頭の中が、すっと冷えた。

 シシュが彼女を見て、失言に気づいたのか顔色を変える。

 だが、彼が何か言おうと口を開きかけるより、サァリがぽつりと返す方が早かった。少女の青い瞳が不透明に陰る。

「シシュ、結婚するの?」

「いや、それは……」

 ―――― 不思議なことではない。

 まだ彼のことをほとんど知らなかった頃、サァリは彼が、妻帯せず化生斬りなどやっていることから「貴族ではない」と判断したこともあるのだ。

 それが実際は王の異母弟だというのだから、二十歳を過ぎて結婚していないことの方がおかしい。おかしいのだが、サァリはまるでそれが、彼の身にはずっと訪れないことのようにいつの間にか思っていた。


 混乱しかける思考を手繰って、彼女は青年を見上げる。

「結婚したら王都に帰る、んだよね?」

「いや、違う、サァリーディ……」

「アイリーデの化生斬りをやめる?」

 サァリは右手を伸ばして、青年の服の裾を掴んだ。

 見上げる黒い目には是も否も見えない。そのことが、言葉で肯定されるよりもサァリに現実を思い出させた。先程よりも膿んだ苛立ちが体の中に広がっていく。


 その理由を認識する前に、サァリは己の右手を引いた。


「……分かりました」

「サァリーディ?」

「此処まで私を連れてきてくださったこと、感謝しております」

 にっこりと微笑む彼女の貌は、月白の主としてのものだ。

 初めて顔を合わせた時と同じ、優美で柔らかな態度に、シシュは顔を険しくする。

「待て、サァリーディ」

「後は一人で出来ますので。失礼致します」

 さっと身を返して広間に出て行くサァリへ青年は手を伸ばしたが、彼女はその手を避けて談笑する人々の中へと分け入っていった。




 後ろを振り返ることはしない。薄く微笑を湛え、背筋を伸ばして、少女は夜の空気の中へと自身を溶け込ませる。その後を追おうと思っても、広間の混雑からしてまず叶わないだろう。サァリはわざと人の中を細かく蛇行して進んだ。

 入り口近くにさしかかった時、まるで彼女を待っていたように、新たに外から女が入ってくる。

 女は別の方向を見ながら近づいてくると、サァリの前で足を止めた。


 深い青色のドレスに、灰色の髪を垂らした彼女は、普段の得体の知れなさがすっかり消え失せ、目には一分の隙もない気位の高さが目立っている。

 ウェリローシアの代行者である女―――― フィーラ・ハネル・ウェリローシアは、己の当主にしか聞こえない声で囁いた。

「一人でいるなんて。痴話喧嘩でもしたのかしら?」

「どうでもいいことです。それより、多少計算外の事態になりました。折角の支度ですが、私は避けられてしまうかもしれません」

「あら?」

 人前でああ言われては、まず基本的な条件である処女の印象が失われてしまう。

 それでなくとも王弟が目をかけている娼妓になど、まともな神経の持ち主であれば手を出すはずがない。

 サァリは心中で一つ舌打ちをして、化生斬りの青年を恨んだ。

 しかし、余所へ流れていきそうな思考を、フィーラの笑う気配が引き戻す。

「化生斬りの彼が何かしたとか? でも、そんなものあなたにはどうにでも出来るでしょう」

「無理を言わないように。今の私はただの娼妓です」

「ただのなんてことはないわ。エヴェリ、あなたが芯から命じれば、囚われない人間はいないのに」

 女の白い手が、サァリの耳朶へと伸ばされた。触れるか触れないかの距離を、形のよい指がなぞっていく。首筋に舌を這わされるような、ぞっと温い感覚に、サァリは冷淡な視線をフィーラに返した。

「まさか。私にそんな力があるなら、苦労はありません」

「そうかしら。ウェリローシアのお飾り当主なら無理かもしれないけれど。―――― 本当は、どんな人間でもあなたこそが選ぶ側。そうでしょう? 《月白のサァリーディ》」

 フィーラはくすりと笑って、少女の前を通り過ぎる。そうして貴族たちの中に加わり見えなくなった女から、サァリは呆れ混じりに視線を戻した。再び賑わう広間の只中を歩き出す。


 ―――― どんな人間でも虜にする力など、自分にあるはずもない。

 それは巫の力が及ぶ領域ではない。もし本当にそうであったなら、今感じているどろりとした腹立たしさとは、きっと無縁でいられただろう。


 サァリは意識してゆっくり呼吸する。そうしていると自分の感情が沈殿して静まり、周囲のことが手に取るように分かった。

 酒の匂いを漂わせての歓談。その中から何本の視線が己に向けられているか、彼女は足を止めず一つ一つを手繰っていく。視界の端を影がよぎる錯覚が、何度か意識の隅に訪れた。女たちのねっとりとした笑い声が遠くから聞こえてくる。

 いつの間にか、音楽は聞こえていない。それは自分が頭の中から締め出しているせいだと、サァリは遅れて気づいた。


 最後の視線を追って、少女は左の壁際を見やる。

 喧騒から薄皮一枚隔てたそこに寄りかかっている男は、サァリの目的であるネドス男爵だ。

 談笑する人々の間を縫って目が合った男に、赤い着物の娼妓は小首を傾げて微笑む。

 人の魂を絡めとる媚態が、少女の形となってゆらりと男に投げかけられた。

 壁に寄りかかったままの男爵は、品定めをするように軽く目を細める。それは巧みに覆い隠された粘度を以って、彼女の細い躰にまとわりついた。

 物言わぬ視線に己を引き寄せる意思を感じて、サァリは微笑したままゆっくりと瞬きする。

 伏せた長い睫毛を上げ…………ただ命じた。思うがままに。「来い」と。



 男の愛を、彼女が請う訳ではない。

 彼女を欲するならば、自らが歩み寄り、その眼前に膝をついて懇願するべきだ。

 サァリ自身はそれを知らない。ただ魂では分かっている。

 自分こそが―――― どうしようもなく「選ぶ側」なのだと。

 それが、月白の女だ。



 ネドス男爵は、軽く息を詰めたように見えた。壁に寄りかかっていた背を起こす。

 通りがかった女が彼に声をかけたが、それに気づいた様子もない。ただサァリだけを取り付かれたように注視している。

 男の強い視線をその身に受ける少女は、彼を見たまま紅い唇を軽く開いた。物憂げに宙へと吐息を零す。

 ささやかな、けれど何処までも妖艶な仕草。見えない息は広間の床を滑り、男の足元まで届くとその爪先を静かに誘った。

 サァリは目を閉じ、己を佇ませて相手を待つ。




 ほんの数秒のうちに、左肩に誰かの手が置かれる。しかしその手はすぐに取り去られた。

 目を開けると、見知らぬ若い男の手をネドス男爵が掴んでいる。おそらくサァリに触れた手は、その若い男のものだったのだろう。

 男爵は年長者の余裕を持って、顔を歪める男に笑いかけた。

「彼女には連れがいる。後で面倒なことにはなりたくないだろう?」

 よい身なりをした若い男は、うろたえた顔でサァリと男爵を順に見る。

 だがサァリは男爵だけを見上げたままだ。呼んだのは、待っていたのは、他の男ではない。

 若い男も無視されていることに気づいたらしく、男爵に会釈するとそそくさと立ち去った。

 サァリは憂いを含んだ声で礼を言う。

「ありがとうございます」

「なぜ一人で? 先程殿下が庭に出て行かれるのを見ましたが」

「些細な行き違いですわ。もっとも、ようやく自由になれてほっとしておりますが」

「ほう?」

 男の声音が微かに変わるのを、サァリは確かに感じ取った。

 彼女は物知らずな少女を装って、可憐な貌に不満げな表情を乗せる。

「折角このような場に参りましたのに、鳥篭に入れられたままでは息がつまります」

「だが上等な鳥篭だ。一生を豊かに暮らせる」

「そんな生き方、退屈なだけですわ。ずっと同じ処で眠らなければならないなんて」

 つんと顎を逸らして見せると、男爵は苦笑した。

「殿下にもそのようなことを?」

「申し上げました。そうしたら『それならば、もういい』と仰いましたので」


 ―――― シシュが広間にいないのならば、どうとでも誤魔化せる。

 彼には彼で面倒事があるというのだし、それぞれ自由に動けばいいだけだ。貴族の女に会うでも妻を選ぶでも、好きにすればいい。


 サァリは内心蠢く熱を表に出さぬよう、娼妓としての面を意識した。

 男の目が値踏みをするように彼女の全身を撫でていく。

「退屈が嫌いと?」

「ええ。わたくしたち娼妓も、多少の《毒》が必要とされますでしょう? それをわたくしも、己で味わいたいのです」

「多少でない場合は?」

 ―――― 試されている。

 サァリは肌でそう感じ取ったが、あえて気づかぬ振りをした。幼く傲慢な笑顔で男を見上げる。

「毒見で死ぬなら本望ですわ」

「……なるほど」

 納得したように頷く男爵は、軽く身を屈めると彼女の手を掬い上げた。目を瞠る少女に広間の奥を指し示す。

「では、面白いものを見せてあげよう」

 左手の腕輪が軽い音を立てる。

 サァリは男に手を引かれると「愉しみですわ」と、小さく謳った。


 ―――― 離れてもいいのかと、記憶の底で誰かが囁いた。

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