第34話 虚飾



 記憶の断絶は、今に始まったことではない。

 昔からそれは何度かサァリの身に起きていて、彼女もまた自身をそういう性質のものだと思ってきた。

 人ならざる存在。血と力によって世界に佇む些少な一点。

 それが自分であり、元よりの多重性によって、意識には断絶が起こるのだと。


 ―――― だが最近、その断絶が薄らいできている気がする。

 かつては明確な欠落として在ったものが、そこにありながらも思い出せない、まるで夢の中の記憶のようなものに変わってきているよう思えるのだ。


 城の客室で目覚めた朝、サァリは寝台の上に体を起こし、窓の外を眺める。

 何か悲しい夢を見ていたのかもしれない。冷えた頬には乾ききった涙の跡が残っていた。





 ガラク侯主催の酒宴について、シシュは「出なくてもいい」と言い、ヴァスは「行くべきではない」と苦言を呈した。

 男たちがそこまで消極的であるのには、やはりそれなりの理由があるのだろう。仕度を終えたサァリは、一通りを手伝ってくれた従姉妹を振り返る。

「あなた自身の仕度はいいのですか」

「すぐに出来るし、遅れて行くからいいわ」

 何処となく投げやりに聞こえるその言葉には、軽蔑の色が混ざっている気がする。そしてそれはサァリに向けられたものではない。当主である少女は、心中で首を捻った。

「あなたは準備段階から件の酒宴に関わっていたのでは?」

「あら、そうだった?」

 棘のある声音に明確な拒絶を感じて、サァリは引き下がることにする。

 事情はよく分からないが、貴族間の問題に自分が口を出すのは領域侵犯だ。フィーラもヴァスも、若いが有能な人間で、ウェリローシアの為にきちんと動いてくれている。それを信用出来ないのでは当主として失格だろう。

 サァリは鏡台の椅子から立ち上がる。

「では、私は先に参ります。もしもの時は―――― 」

「ご命令通りに、ね」

 片目をつぶる女に苦笑して、少女は扉を出る。

 そこには彼女の同伴者である青年が、紺色の正装に身を包んで待っていた。




 ガラク侯の屋敷には、城の馬車が送ってくれるという。

 シシュの手を借りて馬車へと乗り込んだサァリは、己の赤い着物を見下ろした。若い彼女に似合う華やかな着物は、王の厚意で用意されたものだ。それに加えて薄紅を基調にした化粧を施している少女は、美しい容姿に初々しさと妖艶さを同居させていた。

 シシュは、フィーラが手によりをかけた作品とも言うべき少女の容姿を、感心したように眺める。

「今日はまた感じが違うな」

「うん。今夜は色々狙いがあるから……」

「娼妓に見えるようにか?」

「そう。あと、処女に見えるように」

「…………」

 馬車の中に訪れた沈黙は、両者のうちどちらがどれだけ原因であるのか。

 面をつけたかのように固まってしまった男の意図に、サァリは気づいたつもりで言い繕った。

「あ、確かに元々処女なんだけど、そうじゃなくて私を知らない人にもそう思われるようにってこと」

「……それは何の為にだ。客候補でも探すのか」

「え。あ、違うの。違う。本当に。あの、探したいのは、肝臓候補なの」

「肝臓候補?」

 事情を説明しようと思った結果、おかしな造語を作ってしまった。

 サァリは慌てている自分に気づくと、改めて最初から説明しなおすことにする。昨日アイドに会って聞いたという部分は伏せて、最近若い娼妓がさらわれていることと、その黒幕らしき貴族の名前を挙げた。

「―――― ネドス男爵がそんなことを?」

 シシュは初めて聞くらしき話に眉を寄せる。

 王弟である彼は、問題の男のことも知っていたらしい。途端険しくなる青年の顔に、サァリは小さく首を横に振った。

「まだその人が、犯人って決まったわけではないのだけれど」

「だが、男爵が若い娼妓をさらって何をするんだ」

「だから、肝臓」

「そこをまず説明してくれ。一番意味の分からない単語だ」

 シシュが若干うんざりして見えるのは気のせいだと思いたい。

 サァリ自身も最初に聞いた時には「意味が分からない」と思ったのだ。彼女は、一旦頭の中で整理した文章を作ると、それを口にする。

「最近、貴族たちの間で《若返りの妙薬》ってものがこっそり流通してるんだって」

「若返りの妙薬?」

「そう。その材料は、表向きには若い雌鹿の肝臓を煎じたものって話なんだけど、実際には―――― 」

「処女の肝臓、というわけか」

「当たり」

 胸の悪くなる話だが、かつて南部には「具合の悪い臓器があるなら、それと同じ子供の臓器を食えば治る」などという迷信もあったくらいだ。蒙昧の輩にとっては信憑性のある話に聞こえるのかもしれない。

 シシュは唾棄したそうに顔を歪めて、だがすぐに怪訝な目をサァリへと向けた。

「しかし娼妓は普通処女ではないだろう」

「うーん、攫われた人には若い下働きの子も混ざってるらしいから、その辺の真偽は分からないけど……この《若返りの妙薬》には、裏処方があるんだって」

「既に元々裏のようなものに思えるが」

「裏の裏なら普通表になるのにね。じゃなくて、その裏処方っていうのが、客の前で娘から生きたまま肝を引きずり出して、その血肉を啜るってものらしいの」

「……趣味が悪い」

 シシュの表情は、険しいを通り越して、見るもの全てを忌んでいるかのように歪んだ。

 しかし、フィーラから同じことを聞いた時のサァリも似たり寄ったりであった為、何を言う気にもなれない。彼女はただ淡々と話を前に進めた。

「結局だから、若い娘であれば処女かどうかはどうでもいいってことじゃないのかな。客は気にするかもしれないけど、実際確かめることは難しいわけだし。それよりも生きながら腹を割かれるっていう、見せ物の方が重要な訳でしょう?」

「……安価な部類の娼館なら、貴族たちに娼妓の顔が割れていることもないし、か」

「フィーラ曰く、最初は普通の家の娘がさらわれていたみたいだけれど。そういう誘拐を重ねると城にも怪しまれるだろうし、方針を変えたみたい。普通は娼妓が行方不明になっても、逃げたって思われるだけだろうから」

「確かに俺は初耳だな……」

 考え込むように深く頷いたシシュは、けれど馬車の揺れに跳ね上げられるようにして顔を上げた。探る目でサァリを見る。

「それで、もしかしてサァリーディは……」

「うん。私を狙って来ないかな、って」

 赤い袖を上げて見せると、シシュは思い切り顔を引きつらせた。

「そんな話の囮になる気か! いくらなんでも月白の主になど、相手も手を出さないだろう!」

「だから、シシュの知り合いの見習い娼妓ってことにしといて欲しいの」

「…………」

 何か激しく言いたげな青年の視線に、サァリはあえて気づかぬ振りをする。


 ―――― 危ないからで避けていては、解決には少しも近づかない。

 幸いフィーラには「首を突っ込みたいというならご自由に」と言われている。少々罠をかけてみるくらいはいいだろう。

 もっとも何故この件に関わりたいのか、理由を聞かれたなら、はっきり答えることはおそらく出来ない。

 ただ目の前の曇りを拭えば、少し何かが楽になる気がする。それが単なる代償行為なのだとしても、サァリは聞いた話をそのままに忘れることは出来なそうだった。


 シシュは顰め面で口を開きかけて……だがそれを飲み込む。

 そんなことを何度か繰り返して、彼はついには何も言わなかった。

 蹄が路面を蹴る固い音だけが、気まずい沈黙を外から糊塗していく。

 やがて、目的地に到着したらしく馬足が緩んで止まると、青年はようやく小さな溜息をついた。

「今夜の酒宴については、俺も陛下から面倒事を仰せつかっている」

「面倒事?」

「だから悪いが、今は巫の方の揉め事に付き合う余裕がない」

 苦りきって言われた言葉は、サァリにとって拍子抜けするようなものだ。

 元より自分から勝手に手を出すのだから、無関係の彼に迷惑をかけるつもりはない。中に一緒に入ってくれさえすれば、あとは自分で何とか出来るよう準備もしてきている。

 サァリはふっと頬を緩めて、青年を見上げた。

「大丈夫です。ありがとう」

 シシュは軽く眉を上げただけで、何も言わない。馬車の戸が外から開かれると、彼は白い手袋を嵌めた手を、向かいの少女へと差し出した。






 ガラク侯の館は、ウェリローシアの屋敷と同区画の、少し離れた場所に存在している。

 夕暮れ時、青年の手を借りて馬車から降りたサァリは、暗い影がかかる大きな館を正面から見上げた。

 今は酒宴が開かれているということで、庭には多くの灯りが見え、玄関も開け放たれてはいるが、普段のこの館はきっと不気味な圧力を醸し出しているに違いない。サァリは空いている手で何となく肝臓の上を押さえた。

 半歩前を行くシシュは、彼女を伴ったまま開かれた正面扉へ向かう。そこにいる男に自ら名乗って受付をした。

 サァリは自分が無事同伴者として処理されるのを見て、ひとまず安心する。館の中へ入るシシュにそっと耳打ちした。

「別行動した方がいい?」

「いや、まずは主催に挨拶する」

 そう言って彼が視線で示した先は、眩い光と色が溢れる華やかな空間になっていた。

 短弦の柔らかな音が、ざわめきの中を縫って聞こえてくる。あちこちで上がる笑声は、酒と白粉の匂いを含んで、虚飾の光を広間内に乱反射していた。

 貴族と、彼らが連れている装飾品たちを見回して、サァリは薄い笑顔を顔に張り付かせる。


 真意を隠した仮面としての微笑は、アイリーデの女であれば誰でも身に着けているものだ。

 鮮やかな着物や薄い襦袢を全て脱ぎ捨てたとしても、女たちにはこの微笑が残る。そこから先を客に見せることはない。

 だからアイリーデの夜を買う男は、束の間の安寧に酔っていられるのだ。


 シシュは少女の表情に気づいて両眼を細める。けれどそのまま何を言うこともなく、人々の間を通り奥へと向かった。

 正面階段の前で談笑している数人の前へと、二人は歩み出る。

 豊満な肉体を黒いドレスに包んだ年嵩の女性が、シシュに気づいて「あら」と声を上げた。

「このようなところに貴方様がいらっしゃるとは、珍しいことですわ」

「たまには皆様にご挨拶するよう、陛下より申し付かりました」

 愛想の足りない王弟の礼に、集まっていた貴族たちは二種の反応を見せた。

 一つは、何か面白いことでも思い出したかのように、笑みを零す者たち。

 そしてもう一つは―――― 用心するように表情を消す者たちだ。

 ガラク侯に挨拶するシシュの後ろから、一人一人の反応を窺っていたサァリは、彼らの中に目的であるネドス男爵の姿を見つける。

 王より数歳年上であろう男は、豊かな顎鬚に手をやって、娼妓の少女を興味深そうに眺めていた。


 ―――― ここで目をつけてもらえるなら、話が早い。

 サァリは意識して、はにかんで見せる。

 その時黒いドレスの婦人が、シシュへと疑問の声を投げた。

「それで、お連れになったその娘は?」

「ああ」

 振り返った青年と、サァリは目が合う。

 いつも通りの苦味を帯びた表情。けれどそこに、いつもとは違う怒りが見えるのは気のせいだろうか。

 サァリは反射的に息を呑む。そんな彼女の肩に手を置いて、シシュは貴族たちに視線を戻した。平坦に答える。

「彼女は、私がアイリーデで懇意にしている娼妓です。近いうちに身請けを考えております」

「…………え、シシュ?」

 話が違う―――― と言いかけた時には既に遅い。

 自ら囮になろうとする彼女を前に、どうしてシシュがあっさりと引き下がったのか。

 彼の思惑を理解したサァリは思わず呻いて、人前にもかかわらず完璧な微笑を歪めてしまったのだ。

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