第33話 補完
何だかよく分からないが、あそこまで機嫌の悪そうなサァリを見るのは初めてかもしれない。
閉まる扉の向こうに少女の姿を見ながら、シシュは彼女を追うべきかどうか迷った。けれど結局は、先に状況を確認することにする。
彼は椅子に座す主君を振り返った。
「何を仰ったのです」
「大したことではないよ。悪い夢のような戯れ言だ」
「神としての彼女が出てきていたようですが」
「ああ。だがまだ幼い」
きっぱりと断言する王は、いつものように微笑んでいたが、普段とは違う諦観がそこには隠されている気がした。
辺りには、まだ少女の淡い残り香が漂っている。シシュは、少しの疑念を込めて主君を見返した。
「……此度の企みについて、お話されていたのでしょうか」
「企み? 何のことだろうか」
「私たちを囮になさったでしょう」
そう鋭く切り込むと、王は口元だけで笑った。
微笑とは違う裏のある表情は「正解」と同義だ。シシュは舌打ちになりそうな心中の悪態を、視線だけに乗せる。
「まったくご趣味が悪い。彼女に何かあったなら、どうなさるおつもりだったのです」
「お前が守ると信じていたよ」
「生憎ご期待に添えず、見失って別行動になりました」
「誰かに何かを聞いたのか?」
突然変えられる話題は、要点に近づいた証拠だ。
戯れをやめて本題に入るつもりなのだろう。シシュはひとまず苦言を諦めると、王の問いに答える。
「己で考えました。あの手紙に挙げられた店々はどういう基準で選ばれたのかと」
「気を利かせてやったのだよ。お前が彼女に愛想をつかされないように」
「それにしては問屋街などが混ぜられていたようですが」
言い方に棘が混ざってしまうのは、今朝の母親からの揶揄を思い出すからだ。
シシュの選ぶ場所は確かに女性受けしないのかもしれないが、王はきちんと気の回る人間だ。弟と同じような間違いを犯すはずがない。
にもかかわらず大差ない目的地が混ぜられていたということは、つまりサァリを楽しませる為だけではない意図がそこにあったということだろう。シシュは含み笑いをする王をねめつける。
「現にご指示を受けた場所を回り始めてから、私たちには追跡がつくようになった。その上、最終的にはあれです。これはどういうことでしょうか」
「お前を襲った者は何も吐かなかったのか?」
「金を貰って頼まれたとだけ聞きました」
「そうであろうな」
自分一人で納得しているのか、王はしきりと頷いている。
その様子にシシュは冷たい非難の目を送ったが、彼と父を同じくする兄はそれくらいで堪えることはない。
もしこの男がシシュの視線に感じ入るような性格だったなら、今頃もっと人格者になっているか、自室に引きこもって出てこなくなってしまうかのどちらかだろう。
いつもと同じ平行線を辿る兄弟を、王の巫が仲裁する。
「何も申し上げず失礼致しました。その方があの方を案内なさるのによいかと思いまして」
「あれらの店々はなんなんだ?」
「陛下のなさり方に不満をお持ちの可能性がある方々です」
「……謀反者か」
思わず溜息混じりの声になってしまったのは、王に反する者たちとの小競り合いを、シシュは昔から士官の一人として繰り返してきたからだ。
ある者は暗殺という直接的な手段によって、ある者は隣国に与するという行いによって、彼らは改革者である王を廃そうと画策してきた。
それはまるで雨期の草刈りに似て、どれ程徹底的に対処しようとも、次から次に新たな敵が現れてくるのだ。
それでもここ一年程は深刻な問題もなくなり、治世はようやく落ち着いたと思っていた。
思ってはいたが、こういったものは決して絶えることはないのだろう。
シシュは手紙に並んでいた店の名を思い出す。
全部で二十ほどあったそれらを頭の中で並べていると、王はシシュに向かって軽く手を振った。
「そう険しい顔をするものではない。お前はすぐに顔に出るのだからな。隠しておかれるのも無理はないと思うだろう?」
「……申し訳ありません」
「それに今回は単に金の問題だ。余の目を誤魔化して払うべき税を懐に入れている者たちがいる。それが単に私服を肥やす為のものであるのなら、まだいいのだがな」
「闇資金で何かをしようという動きが?」
「まだ分からない。分からないから、お前を目の前にちらつかせた」
「餌の役目を果たしきれず恐縮です」
「大丈夫。まだ挽回の機会は残してあるから。いい餌になってきなさい」
「…………」
冗談が過ぎる、とは思うが、こう言われて冗談であった試しがない。
ただ、人には向き不向きもあれば、動くに適した時と場合もある。シシュは半ば以上諦めつつも食い下がった。
「ご命令であるなら、餌は承知いたしました。ただ出来れば彼女のいない時に―――― 」
「それではいいところが見せられないぞ」
「見せなくて構いませんし、既に不味い目にあわせています」
「ウェリローシアがガラク侯から圧力を受けていることを聞いたか?」
再びがらりと変わった話題は、どういう関連があるのか。シシュは、明日の酒宴の主催者である男がどんな人間だったか、思いだそうとした。
「ガラク侯というと、普段あまり表には出ない印象がありますが」
「地味な人間だからな。ただ圧力の話は本当だ。フィーラ・ハネル・ウェリローシアに再三、自分の後妻になるよう声をかけている」
「ああ、あの」
蛇のような女か、という言葉をシシュは飲み込んだ。
サァリの従姉妹である彼女には、ついさっき顔を合わせたばかりだが、美しい外見にはそぐわない嫌な圧力を優美な物腰の中に感じた。
何しろあのサァリが「怖い人間」というのだから、それだけのものがあるのだろう。逆に言えばそのような人間を後妻にしようとは、ガラク侯はかなりの物好きか人を見る目がないかだ。シシュはまったく面識のない男を、そのどちらであろうかと考えた。
いささか失礼な思考が表情に出ていたのか、王がにっこりと微笑む。
「まぁお前の好みは《彼女》だろうからね。理解出来ないと思うのはいいが、面には出さないようになさい」
「……私は何も」
それに好みなど、巫の少女とのことを勝手に言われる筋合いはない。
ぶすっと顔を顰めた異母弟に、王は「おや、そうかい?」とわざとらしく両手を上げて見せた。
「そうだな。いい機会だから言っておこうか」
「何をでございましょうか」
「お前のことだ。もう二十も過ぎた。《彼女》が嫌なら別の女性を迎えなさい。何人かこちらで候補を選んである」
「は?」
王が軽く右手を挙げると、盲目の巫がその手に釣り書きの束を手渡した。王はそれらをそのままシシュへと差し出す。
「いずれ劣らぬ名家の令嬢であるし、中には隣国の王女もいる。こちらに引き入れれば如何様にも使い道はあるだろう。―――― 他国の人間はさすがに来ないが、明日の酒宴には何人か顔を出すそうだ。好きに選んで来るといい」
「好きに、とは……」
一度神に捧げたものを取り下げることは出来ないと、言ったのは他ならぬ王ではないか。
それを今更他の女を選べとは、《彼女》に知られたらどうなるか分からない。シシュは主君の真意を計りかねて眉を寄せた。
王は釣り書きを差し出したまま微笑む。
「お前は余の臣下であり、弟だ。そのことを忘れぬように」
「……重々承知しております」
―――― たとえ王の意図が読めずとも、自分の立場を、忠誠を忘れるはずがない。
シシュは困惑を押し隠して主君の前に進み出てると、膝をつき、釣り書きを丁重に押し戴いた。
柔らかな声が頭上に振ってくる。
「そして《彼女》を守りなさい。これは命令だ」
「仰せのままに」
その命令については、元より少しも異存はなかった。
「もう帰る」などと言っていたのだから、ウェリローシアの屋敷に帰ってしまったのかと思ったが、サァリは律儀にもシシュを待っていたらしい。広間を出てまもなく、侍女から言付けを受けて、シシュは最初に彼女が通された部屋へと戻った。そこで待っていた少女は、彼に駆け寄るなりほっとした顔になる。
「―――― よかった」
「巫を置いて帰ったりはしない」
シシュとしては当たり前のことを口にしたのだが、サァリは目を閉じてかぶりを振っただけだ。
そのような憂いを含んだ仕草は妙に大人びていて、どちらの彼女が表に出ているのか尋ねたくなる。
だが尋ねたとしても「人格が分かれているわけではない」と答えられるだけだろう。どちらの彼女も、連続した「サァリーディ」という一個の存在だ。なかなか実感としては飲み込めないが、シシュもそのことは理解している。
彼は無意識のうちにサァリに向かって手を伸ばす。
だがその指先が自分の視界に入った途端、何をしようとしていたのか不明な事態に我に返った。
やり場のない手に困って、結局は何にも触れぬまま下ろす。サァリは青年のその動きを不思議そうに目で追った。
「シシュ?」
「いや、何でもない。巫は何か言われたのか?」
「何も。普通のことだけ」
青ざめて見える頬は、普段よりも体温が下がっているようだ。存在の位階が変わっている時は体が冷えてしまうようであるから、そのせいかもしれない。
具合の悪そうな少女を、シシュは気遣って覗き込んだ。
「今日は屋敷に戻るか? 城に部屋を用意することも出来るが」
「あ、頼めるなら城で。フィーラが怖いし。―――― もう追跡もないと思うけれど」
付け足された言葉に、青年は目を丸くする。
「誰が追跡してたか気づいていたのか?」
「さっき会って分かった。あの巫だろう?」
少女の苦笑に彼は首肯した。
昨晩「追跡されている」という話を聞いたからこそ、用心して手薄な母の家を離れたのだが、蓋を開けてみればそれは王の巫の仕業だったという落ちだ。おそらく彼に、使役した何かをつかせていたのだろう。最初からそうして疑わしい店々の反応を窺いつつ、シシュたちが本当に危なくなったら介入するつもりでいたに違いない。
そうとは知らず、余計な結界の手間をかけてしまった彼女には、何と言って謝ればいいのか分からない。屋敷にいるよりは外の空気を吸った方がいいと思って連れ出したにもかかわらず、結果余計に疲れさせてしまっている気がする。
シシュは、後で金平糖を買い足そうと心の中に留めた。
「必要なものは何でも用意させる。せめてゆっくり休んでくれ」
「お言葉に甘えます」
眉を緩める彼女は、言葉遣いからも表情からも、どちらの存在が強いのかよく分からない。
ただ分かることは、彼女に元気がないということだけだ。
サァリは青年から視線を外すと窓の外を見やる。長い銀の睫が光に揺らいで、存在の輪郭そのものが薄らいで見えた。ふっと短い吐息が聞こえる。
「シシュ」
「何だ?」
「出来るだけ私の傍にいて。そうすれば―――― 」
彼女はそこで言葉を切ると首を横に振った。不安を追い払おうとする仕草にシシュは頷く。
「大丈夫だ。次はちゃんと守る」
サァリはそれを聞いて、ほんの僅か顔を綻ばせた。
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