第32話 先視


 ―――― 王都の空気は、地区によって纏う雰囲気をがらりと変える。

 それはシシュによって案内された一日半で、サァリにもよく分かったことだった。

 いわゆる「王都」と聞いて皆が思い浮かべる整然と律された傾向は、上流階級や軍部を中心とした中央区のもので、平民の行き交う大通りや裏町には必ずしも当てはまらない。

 数年前には、この違いはもっとはっきりとした貧富の差として現れており、多くの民は身を粉にして働けども、相応の暮らしを越えて恵まれることはなかったのだという。

 その常識を変えてしまったのは、シシュの異母兄である若き王だった。

 王は即位する少し前から父王に働きかけ、貴族や豪商が長年に渡って持ち続けてきた利権を、次々誰でも参加できる評価競争制に変えていった。「長年の不文律が、よく煮込まれた肉のように刃を入れられていく」とは、王による制度改革を皮肉っての言葉だが、今のところその言葉の出所はともかく、彼は平民には良き王として支持されている。


 ウェイ・フェスト・ミド・トルロニア―――― 美しく整った顔立ちでも知られる若き王は、広間に現れた少女を見て微笑んだ。国よりも古い血を継ぐ彼女は、男を正面に優美な礼をする。

「お呼びを受けて参りました。月白のサァリーディと申します」

 いつ何処にあっても月光を帯びているかのような美貌。繊細な造作ながら、その奥に底知れぬ淵を窺わせる少女は、透き通りそうな白の着物に半月の染めぬかれた青い帯を締めている。

 主として、また巫としての正装に、王は頬を緩めた。自らも立ち上がり頭を下げる。

「不躾な招待を受けてくださったこと、ありがたく思う。白月の姫よ」

「……随分古い呼び名をご存じなのですね」

 それは、かつてウェリローシアの祖である王が、召喚を受けた神に向けたという呼び名だ。

 今はもう知る人間もいないはずの呼称に、サァリは口には出さなかったが緊張を覚えた。視線を動かし、王の傍らに立つ女を捉える。


 両目を閉じたままの巫は、サァリに向かって黙礼した。遠視と先視に抜きんでているという彼女を見ていると、何故か不思議な既視感がよぎる気がする。

 王は、サァリの後ろに立つ弟に向かって軽く手を挙げた。

「彼女の椅子になってやりなさい」

「…………お戯れを」

「冗談だ」

「あの。私、立ってますから」

「椅子を持ってくる」

 げっそりした表情で広間を出ていくシシュの様子からして、この程度のことは日常茶飯事らしい。


 王と巫、そして自分の三人だけになると、サァリは彼ら二人に向き直った。

「それで……どのような話がおありなのでしょう。何処までを知って、何をお望みで?」

 用件を尋ねる声音は、先程のものよりも鋭い。

 おそらくシシュを外させたのも、込み入った話をする為なのだ。そう考えるサァリに、王の巫が答えた。

「わたくしも、何もかもを知ることが出来るわけではないのです。この盲いた見えるものはただ先の時間の……それも大きな破片だけです」

「先視にしては、古いことをご存じのようですが」

「単純なことです。つまり、先の時間にあなた様がそう呼ばれているのを視たのです」

「私が?」


 白月の姫とは、その由来を辿れば睦言における呼び名だ。

 ならば自分をそう呼ぶのは将来の客なのか―――― 不分明な未来に、サァリは一瞬気を取られた。だがすぐに、王の視線に気づいてかぶりを振る。

「呼び名はお好きに、と言いたいところでございますが、出来れば他の者が呼ぶようにお呼びください」

「では主嬢と呼ばせて頂こう」

 王は脱線しかけた話をあっさり引き取って片付けると、入り口の扉を一瞥した。

 シシュがまだ戻ってこないか確認したのだろう。しかしシシュは、ああ見えて鈍い青年ではない。王の意図を分かっていて遅れてくる可能性もあると、サァリは考えていた。


 指輪を嵌めた王の手が、天井を指差す。

「あれは気に入って頂けただろうか」

「充分過ぎる程に優秀な方です。彼をアイリーデに送ってくださって、ありがとうございます」

「本来ならば、余が行くのが筋かもしれないとは思ったが、年の差もある。相性にしてもあれの方があなたには合うだろう」

「陛下は充分にお若いですわ」

 三十三歳の王はそれを聞いて微笑んだが、サァリの年齢は王の半分だ。年の差という観点から言うなら確かに障りはある。

 サァリは曖昧に微笑む王に、薄々察していたことを切り出した。

「やはり陛下は、彼を私の客候補としてお考えなのでしょうか」


 ―――― それが、シシュをアイリーデに配した目的の一つなのか。


 もし是と答えられたらどうしようか、サァリは自分でもよく分からないまま王の返答を待った。

 目元が何処となく化生斬りの青年に似ている男は、彼女の予想に反して悪童のような仕草で肩を竦める。

「そうなればいいとは思っている。正直なところを言えば、だが」

「彼もそのつもりで?」

「あれは嫌がっているよ。あなたが嫌なのではなく、そういったことを命じられることが嫌らしい。あれにも一応王族の責務があるのだが」

 それでも、シシュのそのような誠実さは好ましいものだと、サァリは思っている。

 彼女のことを子供扱いする訳でもなく、逆に急かす訳でもない、一線を引いた態度は、共にいて自然に落ち着く気がするのだ。


 しかしそのようなことを言っては、かえって彼への圧力が増してしまうのかもしれない。

 微苦笑しているだけのサァリに、王は片目を瞑って見せた。

 想像よりもずっと砕けた彼の雰囲気は、確かにシシュにとっては頭の痛いものに違いない。この部屋に案内されるまでに、散々「変わった方だから」と釘を刺されてきたサァリは、思わず相好を崩した。

「先視の巫がついていらっしゃるのならば、私の客が誰になるかもお分かりなのではないですか」

 もし分かるのなら、それを聞いてみたい気がする。

 いささかの稚気と興味を漂わせるサァリに、けれど王の巫は小さくかぶりを振った。

「あなた様の力は、これから先どんどん大きくなられる。時が経つと共に見えにくくなっていくのです」

「阻害しているつもりはないのですが……」

「わたくしの視ることが出来るものは《人の歴史》であり、あなた様はその枠に入らないということでございましょう。今までのことも皆、他の人間の運命に、あなた様が映りこんでいたからこそ視えただけのことでして」

「それは、シシュの……ということですか?」

 巫は軽く微笑んだだけで答えない。だがむしろその反応に、サァリは自分の推測が当たっていることを知った。


 彼女は未だ開かない扉を振り返る。真意の見えぬ話の先が何処に続いているのか、判然としない予感が己の奥底から湧き上がった。頭の中が静かに冷えていく。

「―――― あなた方は、私に何を望むのです?」

 本来ならば、《自分》がこのように王に呼び出されることもおかしなことなのだ。

 古き国が滅びてから今までずっと、アイリーデとそれを擁する国は、必要以上の干渉をしないようにしてやってきた。

 その暗黙の了解を、どうして今踏み越えようとするのか。

 サァリは青い目をほんの僅か細めた。黙っていた王がふっと苦笑する。

「余はただ、あなたと繋がりが欲しいのだ」

「彼を介して、ですか?」

 神供としてシシュを捧げ、その代わり国にサァリの加護を得たいというのか。

 王としても兄としても趣味の悪い発想に、少女は形のよい眉を寄せた。

 しかし王は、別のことを口にする。

「……あと数年のうちに、我が国を含めた数カ国に、大きな異変が起きる」

「大きな異変? 戦でも起きるのですか?」

「それだけではない。ただ、何があるかは分からない。―――― この異変によって、多くの人間が失われる」

「え……?」

 聞き間違いかとも思った。

 だが男の苦い微笑を見るだに、そうではないらしい。

 軽い困惑に比例して、サァリの心胆は冷えていく。

「先視にそのような未来が見えたと?」

「断片的にではあるが」

「回避は」

「試みたいが、原因が不明だ。或いは人の身では元より、決まった未来の回避自体、不可能なことであるのかもしれない」

「そんなはずがない」

 反射的に出た言葉は、半分が自分のものでありながら、もう半分は何処か遠いところから響いてくるようだった。

 サァリは白い指先で己の喉を押さえる。


「そんなはずがない。人は、それ程不自由な存在ではない」

「……そうであるのなら、嬉しいのですが」

 軽く目を伏せて頭を垂れる王に、サァリは違和感を覚えなかった。

 自分への言葉遣いが変わっていることにも気づかない。ただ体の内側が冷え切って、逆に熱を持っている気がする。

 ちりちりとした苛立ちの正体がなんであるのか、彼女は自分の隣が空白であることに不安を抱いた。

「お前たちは、その先視を回避する為に私を引き入れたいのか?」

「そこまであつかましいことをお願い出来るとは思っておりません。人の身には難い荷であろうと、己で抗うつもりです」

「ならば何処までを望む」

「あなたに弟を委ねたい」

「迂遠な言い方をするな」


 ―――― まだシシュは戻ってきていない。


 サァリは振り返らずとも分かる背後に、注意の大部分を割いていた。

 王の双眸が、作られた柔和さで彼女を見つめる。そこに後悔に似た沈痛さが読み取れるのは、彼女が今まで多くの客を見てきたが為のものだろう。

 男は右手を挙げ、サァリの背後を指差した。


「弟は……このまま行けば、《異変》において一人の女性を守って死ぬことになるのだという」


 扉の開く音が聞こえる。

 けれどその一瞬サァリは、王の言葉以外の何も聞いてはいなかった。指先の冷たさが、まるで他人事のように思える。


「あなたには、その結果を変えて頂きたい」


 穏かにも聞こえる願い。サァリはシシュに肩を叩かれるまで、凍りついたかのようにその場に立ち尽くしていた。





「座らないのか?」

 眉を顰めて覗き込んでくる青年を、サァリはまじまじと見上げる。

 然程付き合いが長い訳ではない。だがすっかり信頼と愛着が沸いてしまった相手だ。本当ならば、自分は彼を選ぶのではないかとも考えていた。

 ―――― そう思った瞬間、苛立ちが口をついて出る。

「ばか!」

「……は?」

「ばかだ! なんなんだ! がっかりだ!」

 握った拳で青年の胸を叩くと、シシュは思い切り不審そうな顔になった。殴ってくる少女を好きにさせながら主君を顧みる。

「一体何を仰ったのです」

「大したことではない。お前の愚行について少しお教えしただけだ」

「…………」

「勝手なことばかり! お前は私のなんだ!」

「サァリーディ?」

 性格の変わっている少女に、シシュはそこでようやく気づいたらしい。不審の目で王とその巫を見たが、二人は何も答えることはしなかった。

 サァリは肩で息をすると、ふいと王に背を向ける。

「もういい。帰る」

 これ以上話すことは何もない。

 歩き出しかけた彼女は、けれどシシュが持ってきた椅子に気づくと小さな唇を曲げた。赤い布張りの椅子に一瞬だけ座り、再び立ち上がる。

 そのまま制止を待たず扉の前まで来た彼女は、足を止めると溜息を一つついた。振り返らぬまま王に尋ねる。

「その女は…………私なのか?」

「分かりません」

 王の返答が本当なのか嘘なのか、サァリには判らなかった。

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