第31話 疑念


 壁も天井も青いタイル張りの浴場は、白い湯気が厚く立ちこめ、あちこちに大きな水滴が溜まっていた。

 何処からかさらさらと水の流れる音が聞こえる。同じくタイルが敷き詰められた床の中央には、人三人くらいは余裕で入れそうな四角い窪みが穿たれ、そこには澄んだお湯が湛えられていた。


 窪みの周囲には、水を入れた大きな円器がいくつか置かれ、天井から滴る水をよく響く音と共に受け止めている。

 贅沢に水を使った浴場は、この国では珍しい蒸気を取り込む作りからして、誰かの趣味が反映されているのだろう。

 そんなことを考えながら、陶器の椅子に裸で座っているサァリは、苦痛を堪えて歯を食いしばった。

 先程から剥き出しの背を、女の手が麻布できつく擦っているのだ。ひりひりと痛む肌に少女はそっと吐息をこぼす。

 それを聞き咎められた訳ではないだろうが、背を擦る手が不意に止まった。

「―――― ちゃんと手入れしていたの?」

 やんわりと聞いてくる女の声。その語調は美しく柔らかであったが、毒のある棘をも思わせた。

 サァリは背を擦っている従姉妹に、出来るだけ平静な声で返す。

「言われた通りのことはしていました」

「そうかしら。背中だからって適当に済ませていなかった? 手抜きをするとすぐ分かるのよ」

 既に赤剥けているのではないかという肌の上を、ざらついた布が再び強く滑っていく。

 サァリは痺れるような痛みに思わず声を上げかけたが、すんででそれを飲み込んだ。

 色々言いたいこともあるが、この垢擦りが折檻を兼ねている以上、文句を言っても事態が悪化するだけである。ヴァスなどは姉に「そう時間がある訳でもないので簡単に」と釘を刺していたが、彼女は昔から言われて手加減するような人間ではなかった。


 布が離れてほっとしたところで、前触れもなく冷水を浴びせられ、サァリは悲鳴を上げる。

「ひゃあ!」

「あら、どうしたの? 香油を塗るから動かないで欲しいのだけれど」

「わ、分かりました……」

 まだ手足も残っているのだ。こんなところでばてていては謁見まで保たない。

 サァリは肩で息をつくと背筋を伸ばした。香油を帯びた女の指がぞっとするような感触と共に背中を這っていく。


 ―――― 色々と怖い女ではあるが、こういったことに関してフィーラの腕は確かだ。

 蒸気に灰色の髪を濡らしながら浴着姿でサァリの湯浴みを手伝っている女は、不意にふっと微笑んだ。

「そういえば化生斬りの彼……綺麗な顔をしているわね」

「…………」

 来たか、とサァリは内心身構える。シシュの顔は彼女の好みだろうとは思っていたが、むざむざ彼を生贄にする気もない。

 サァリは意識して冷淡な声で返した。

「そうですね。とは言え、アイリーデの人間に余計な手出しも困りますが」

「どちらかと言うと王都の人間ではないの? 王族で王直属の士官なのでしょう?」

「彼は化生斬りです」

「あなたの?」

「アイリーデの、です」

 だからウェリローシアの口出しは不要だ。

 暗黙のうちにそう防衛線を張るサァリに、フィーラはくすくすと笑う。

「手出しが迷惑かどうかは、彼自身が決めることよ」

「私としては、身内に恥を曝されても困ります」

 そう言った瞬間、女の両手がぬるりとサァリの体の前に回った。香油に光る右手が背後から喉を掴み、左手が薄い腹を探る。

 サァリは己を絡め取ろうとする両手に、冷水を再び浴びせられたかのような気分を味わった。女の息が首筋にかかる。

「恥だなんて、エヴェリ。わたしは家を出たりしないわ。ただ少し遊びたいだけ」

「……必要な役目は果たしているつもりです」

「あなたは、ね」

 言外に指摘されているのは、家を出た母親のことだろう。

 サァリは隠しもせず溜息をつくと、女の腕を払った。椅子の上でくるりと向きを変え振り返る。

 向かいあう血族の女二人は、フィーラが薄い笑みを湛え、サァリは欠片も微笑んではいなかった。

 当主である少女は、しなやかな四肢を従姉妹へと投げ出す。

「ならばあなたも己の役目を果たしなさい。余所事が気になって仕方ないというのなら、私が自分でやりますが」

「あら、とんでもないわ」

 女の手が、恭しくサァリの足を取った。

 傲然と持ち上げられた細い肢。その白い甲に口付けて、フィーラは忌まわしくも微笑む。

「手を抜くはずがないわ。わたしの大事なエヴェリ。―――― 他の人間になんて触らせてあげないから」

 昔からよく言われるその言葉が何処まで本気なのか。サァリは黙って天井を仰いだ。




 浴場から出たサァリの躰は、肌を全て新しくしたかのように滑らかにはなっていたが、代償として凄まじい疲労が精神にまとわりついていた。

 その疲労は従姉妹である女が主原因なのだが、当の彼女は鼻歌混じりにサァリの髪を乾かしている。

 素肌に襦袢を羽織っただけの少女は、鏡に映るフィーラの笑顔にげっそりとした気分を味わった。

 今回の蔵開けこそはこの従姉妹に捕まりたくないと願っていたのだが、回りまわってこの現状である。

 慣れない土地であるせいか、よく分からないうちに周囲の状況に翻弄されている気がして、サァリは慌しい二日間を振り返った。


 そうしている間にもフィーラは手際よく少女の銀髪を乾かして結い上げ、化粧を施していく。

 何だかんだ言いながらも、サァリの指示通りになるよう色を乗せてくれる従姉妹に、少女は信頼に似た感情を抱いた。

 フィーラは体を起こすと、鏡の中の少女を確認する。

「まぁ、こんな感じかしら。もう少し威圧気味でもいいかもしれないけれど」

「王に謁見するのですよ」

「だから? あなたはウェリローシアの姫よ」

 女の嘲るような声音には、王を王とも思わぬ不遜が如実に嗅ぎとれた。

 かつて在りし古き国の王―――― その血を継ぐ者としての誇りが、フィーラの姿勢には染み付いている。

 サァリは従姉妹の態度に肩を竦めつつ、だが話を変えてあることを口にした。

「近頃、王都の裏町で娼妓が攫われているという話を知っていますか?」

「真偽の確定しない噂としてなら、知っているわね」

 予想通りの返答に、サァリは頷く。

 ウェリローシアの姉弟のうち、ヴァスは主に城やアイリーデの情報を重点的に集めているようだが、フィーラの持つ情報網の広さは弟のそれを優に上回る。サァリはアイドが追っているらしき話を、もう少し詰めてみようと問い質した。

「今までに攫われた娼妓は何人?」

「十一人。いずれも十代の娘で安い娼館の人間よ。だから初めは皆、ただ逃げたのだと思っていたそうね」

「見つかった人間はいないのですか?」

「いないわ。でもレセンテには心当たりがあるみたい」

「レセンテ?」

「レセンテ・ディスラム。裏町を取り仕切る館主の一人で娼妓よ。わたしの恋人」

「ああ……なるほど」

 容姿が好みであるなら男女を問わないフィーラの交友関係はともかくとして、その話は非常に気になる。サァリは紅を選ぶ従姉妹を鏡の中に見ながら重ねて問うた。

「心当たりとは?」

「誰がやらせているのか見当がついている、ということかしら?」

 サァリが何を聞きたいのか分かっているだろうに、回りくどく答える女に、少女はむっと眉を寄せる。

「心当たりの名前とその目的を聞きたいのですが」

「当主がそれを知りたいというのなら、答えない訳にはいかないわ。―――― 心当たりの相手はネドス男爵。或る高級娼館と繋がりがある男よ」

「その高級娼館からは、行方不明者が出ているのですか?」

「いいえ?」

 分かりきったことだが、一応確認してサァリは頷いた。

「それでは、商売敵への妨害でやっている、ということですか」

「それもあるだろうけれど。若い娘が必要だからじゃないかと聞いたわ」

 フィーラは紅筆ではなく自分の小指に赤い色を乗せる。黙るよう示してくる従姉妹の手振りに、サァリは話を中断させた。

 鏡と彼女の間に割って入りながら、女は艶めかしく笑んで紅を小さな唇に塗っていく。

 ―――― 普段自分でやるのと同じようにされているはずなのに、どうして出来上がりの完成度がこんなにも違うのか。

 女の指が離れた時、サァリは我知らず感嘆の息をついた。隣でフィーラが満足そうに喉を鳴らす。

「どうかしら?」

「希望通りです」

「次は着付けね。弟にやらせた方がいい?」

「どちらでも」

 昔はよく、サァリの着付けは彼がやってくれていた。

 ここ数年は王都で着物を着る機会がなくなっていた為忘れかけていたが、やらなくなったからといって忘れてしまうものでもないだろう。

 サァリは、フィーラにべたべた触られるのと、ヴァスの嫌味を聞くのとどちらがマシか一瞬悩んだが、よく考えれば着付けは自分一人で出来る。

 彼女は鏡越しに、屋敷から持ってこさせた着物と帯を確認した。

「……話の続きを聞きたいのですが」

「なんの話だったかしら?」

「若い娘が必要だという話です。その理由を知っていますか?」

 襦袢の前を合わせながらサァリは立ち上がる。

 頭の中にはその問いに対する答がいくつか想定されていたが、返ってきた答はそのどれでもなかった。

 フィーラは指に残る紅を己の舌で舐め取る。

「エヴェリ、処女の肝臓を煎じて飲むと若返るらしいわよ」

「………………なにそれ」

 思わず素に戻ってしまったサァリは、けれどすぐにフィーラの言いたいことを悟って、思いきり顔を顰めた。





 さすがに《神》を呼び出すにあたって、王も鉢植えだらけの謁見室を使う気はないらしい。

 城内の奥まった広間にて、機嫌がよさそうに客を待つ主君を、シシュは疑いを多分に含んだ眼差しで眺めた。革張りの椅子に座す王の傍には彼の巫が控えていて、青年の視線に気づいてかにっこりと笑う。


 亜麻色の髪を後ろで一つに編んだ巫は、十代の少女のようにも二十代の女のようにも見えるが、シシュは本当の年齢を聞いたことはない。

 そもそも彼女は生まれた時から目が見えないという話であるのに、普通の人間以上に多くのことが分かるのだ。

 常に閉ざされたままの両瞼。その長い睫毛には銀の小さな輪がいくつか通されている。細い十指にも嵌められている銀の輪は、巫具の類であるというが、実際にどう使うのかは知らない。濃灰のだぼついた巫衣には銀糸でいくつにも重なった円が刺繍されており、白の外衣に金糸の刺繍の王と対であるように見えた。


 王の巫は、椅子の背もたれにかけていた手を上げて、正面の扉を指し示す。

「《彼女》の仕度がまもなく終わります。迎えに行かれるとよろしいでしょう」

「―――― 分かった」

 この王宮において、アイリーデの神と王の橋渡しを託されているのは自分だ。

 シシュは主君に向き直り一礼すると、人ならざる少女を迎えに、足音をさせず広間を出て行った。

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