第30話 追想
―――― 本当に傷ついたのはどちらだったのか。
「娼妓の真似などするな」と、その言葉はサァリの心の底に落ちて、ひんやりとした感触をもたらした。
彼女は紅のついた男の指を見る。
血よりも艶かしい赤は、夜に佇む女の概念そのものにも思えた。サァリは力なくかぶりを振る。
「アイド…………私は娼妓だよ」
たとえ誰が否定しようとも、彼女にとってそれは事実だ。
月白の巫は街最古の娼妓であり、神話時代からの約によって男を迎える。
そうして血と役目を継いで行くのだ。人間が彼女たちを必要とする限り、ずっと絶えることなく。
サァリは男の袖から指を放した。
顔を上げると、男は苛立ちと軽蔑の混ざり合った目で彼女を睨んでいる。
それはいつかのすれ違いの時から変わらぬもので、少女は男の視線を真っ直ぐに受け止めた。
言葉を探してサァリが口を開きかけた時―――― だが横合いから水に似た声が割って入る。
「それくらいにしておいてください」
「……ヴァス、どうして」
「追跡くらいしています」
角の先から現れた青年は何処となく疲れた表情をしていたが、しっかりとした足取りでサァリに歩み寄ると、その腕を引いて自分の背後に回した。
本来ならば、ウェリローシアと「サァリーディ」の結びつきを決して表に出さないはずの従兄弟。その彼が自分を庇ったことに、サァリは思わず虚を突かれてしまう。こんなことをしていいのかと問いたかったが、彼女に向けられた背は口出しを許していなかった。
ヴァスは慇懃に男へと頭を下げる。
「彼女がお世話になりました。今後このようなことのないよう、こちらで監督いたします」
明らかに貴族と分かる青年の挨拶に、アイドは煩わしげに右目を細めた。剣呑な視線にサァリは、二人の衝突を予感して顔を強張らせる。
以前のアイドであれば、ここですんなり引き下がるような真似はしなかっただろう。
だが彼は、蒼ざめたサァリをヴァスの肩越しに一瞥すると、何も言わず踵を返した。
砂利を踏む足音が遠ざかる。男の姿が見えなくなると、ヴァスはようやく彼女を振り返った。
「何をやっているんですか」
「ごめんなさい……」
「すぐそこに馬車を待たせてありますから」
「え」
「そんな顔をしなくていいです。別に屋敷に連れ戻そうという訳ではありませんから。はぐれた彼も無事です。後で合流出来ます」
言いながらヴァスは黒いヴェールを取り出した。
彼の手配した馬車に乗る以上、顔を隠さない訳にはいかない。サァリは大人しくそれを受け取って身につける。
ヴェール越しの視界は、翳の差す見慣れたものだ。そうして彼女は従兄弟の後についていきながら―――― 一度だけ、誰もいない路地を振り返った。
「余計な情けは仇になりますよ」
何処に向かっているのか分からない馬車の中、馬蹄の音に混じってかけられた言葉は、嘲りでも嫌味でもない静かなものだった。
揺れる視界の中で、自らの膝だけを見ていたサァリは、真向かいに座る従兄弟へと視線を上げる。
何のことについて言われているのかはすぐ分かった。ヴァスはちらりと彼女を見ただけで、すぐにまた紗を下ろした窓へと視線を戻す。
「幼馴染であったことは知っています。彼に情が残っているのだということも。ただそれで彼のしたことが許される訳ではありませんし……人の心根というものは、そう簡単には変わりませんよ」
従兄弟の忠告は、かつて聞いた祖母の言葉と重なってサァリの中に響いた。
―――― 今は亡き祖母は、果たしてあの時、彼の本質まで見抜いていたのだろうか。
近くにいながら最後まで彼の本心が分からなかったサァリは、ヴェール越しに目頭を押さえる。泣きたい訳ではなかったが、少しだけ支えが欲しかった。
胸の中が重い。薄紅に塗られた爪が枯れた花弁のようにも見える。
「エヴェリ」
「分かっています」
口出しするなと跳ね除けられないのは、これがアイリーデの問題ではなくサァリ個人の問題だからだ。
むしろアイリーデの巫としては、彼を許してはならないことは分かっている。
立ち止まってはいけない。通り過ぎなければならない感傷だ。周囲の人間であれば皆そう言うだろう。
サァリは鈍く沈殿しそうな意識を切り替えると、顔にかけた手を下ろした。
―――― もう大丈夫だ。頭は冷えている。
「ヴァス」
「何でしょう」
「あなたが直接迎えに来て、後が不味くなりませんか」
「彼に対してなら、どうとでも言い逃れはききます。遠縁の娘とも、監督を頼まれているだけとも言えばいいだけですから」
「そう」
「そのようなことを気にするのなら、昨晩一緒に帰って欲しかったですがね」
「昨晩?」
首を傾げるサァリに、青年は何を言っているのかという表情になった。だがその時、馬車が道を曲がり、大きな揺れに二人は口を噤む。
窓には紗布がかけられ外が見えないが、見えたとしても土地勘のないサァリには目的地の見当はつけられない。
行く先を聞こうかと彼女が迷っていると、ヴァスが親指で背後にあたる進行方向を指差した。
「それに、これから行く場所が行く場所ですから。私が付き添わなければ問題でしょう」
そう言う青年は、如実に不機嫌が表情に漂っている。
この王都において、彼に付き添ってもらわなければならない場所などあるのだろうか。心当たりのないサァリは大きな目をまたたかせた。
「あの、何処へ向かっているの?」
「王宮です」
「……え?」
予想外の答に、彼女は窓にかけられた紗布を見つめる。
その先は何も見通すことが出来ない。黒い薄布は外からの光を吸い込んで、ただ静かに揺らいでいた。
王宮ということで衆目に曝されるのかと用心していたサァリだが、実際にはほとんど誰にも会わず中に入ることが出来た。
あらかじめ話はある程度ついていたのだろう。馬車は兵士たちに見咎められることなく裏門から入城し、そこから下りた二人は侍女の案内を受けて奥まった部屋の一つへと通される。
サァリは部屋の中を見て目を丸くした。
「何これ」
「……着替えろってことでしょう」
品のよい調度品で統一された広い室内の只中に、何十着もの服を吊るした銀の衣装掛けが鎮座している。
洋装も着物も一通りあるそれらは、全てが女性もので、しかもサァリの背丈に合わせてあるらしい。
彼女は困惑して、一番手前にかけられた淡い水色のドレスを眺めた。汚れている己の掌に視線を移す。
「確かにあちこち汚れちゃったけど」
今着ている着物も酷く崩れてしまっている訳ではないが、汚れてしまったことは確かだ。出来るなら早く手入れしたい。
それだけでなく化粧もほとんど落とされてしまったサァリは、自分が娼妓でありながら当主であるという二重性以前に、人前に出られる姿ではないことを思い出して小さく唸った。
「困った……」
「何か必要なものがあるなら、姉に持ってこさせますが」
「大丈夫。何とかします」
こんな状況でフィーラを呼ばれたら、何をされるか分からない。
サァリは半ば反射的に断ると、とりあえず服を選ぼうと衣装掛けに歩み寄った。汚れた手で触れないよう気にしながら覗き込んだ時、部屋の扉が叩かれる。
入り口近くに立っていたヴァスが応えると、扉は音もなく外から開かれた。
入ってきた青年を見て、サァリは飛び上がる。
「シシュ! 無事だった!?」
「それは俺が聞く方だろう……。悪かった」
刀を佩いたままのシシュは、サァリを見てほっと表情を緩めた。秀麗な顔立ちに罪悪感が浮かぶ。
彼は、駆け寄ってきたサァリの着物が土に汚れていることに気づいて、ますます苦い顔になった。
「すまない。怪我は……」
「ないから大丈夫。私こそ鈍くてごめんなさい」
言いながらサァリは、黒いヴェールを取り去った。今この部屋には顔を隠さなければいけない相手はいない。そうして彼女は、怪我がないこと示そうとしたのだが、強引に化粧が拭い去られた顔に、シシュはかえって訝しげになった。
「サァリーディ?」
「あ、本当に平気なの。どうせ着替えるなら化粧も直したいし……」
サァリは汚れた両掌をヴェールの中に隠す。
―――― 本当に何もなかったのだから、あまり心配しないで欲しい。
そう思いつつ、けれどサァリは、自分でも不思議な程の安堵を覚えて熱い息を吐いた。少しだけでいいから、シシュの胸に寄りかかりたいと思う。
疲れて甘えたい訳ではない。ただ彼の傍にいると、アイリーデの巫である自分に戻れる気がするのだ。
何も知らなかった過去の子供でも、屋敷に閉じ込められた当主でもない自分。己の役目を第一と考える自分であれば、きっと何物にも揺らがずにいられるだろう。
サァリは薄いヴェールをきつく握った。瞼を下ろして、青年の纏う空気を感じる。
―――― もっとも新しい化生斬りであり、王の臣である彼にアイリーデを思い出すとはおかしなものだ。
だが自分にとってはやはり化生斬りこそが、これからの未来を共にする相手である。
彼女は微笑んで、心配げな青年を見上げた。
「シシュ、ありがとう」
「何がだ?」
「あなたがいてくれることが。嬉しい」
てらいのない感謝にどうして絶句されるのか、サァリにはよく分からなかった。
男二人の話を総合したところ、王宮にサァリを呼び出したのは王であるのだという。
聞いた瞬間は驚いたが、よくよく考えてみればウェリローシアに働きかけてサァリを連れてこさせられる人間など他にいない。
何しろ切れ者で知られる王は、シシュの報告以前から月白の主とウェリローシア当主が同一人物であることを知っていたらしいのだ。
ヴァスなどはそれを聞いて「何処から情報が洩れたのか」と嫌がったが、シシュ曰く、それは王の巫が原因であるらしい。
「何しろ先視と遠視が人間離れしている巫だ。大抵の情報は筒抜けになる。もっとも、アイリーデは他の場所より見えにくいらしいが」
「それ、私のせい?」
「多分」
だから王は、わざわざシシュを送り込んだのだろうか。
普通の巫の力の仕組みは分からないが、よく見えない霧中に明かりを投げ込むようなものかもしれない。
サァリは半ば自己完結でそう納得した。納得した上で、改めて自分の姿を見下ろす。
「じゃあ私、どういう格好で謁見すればいいんだろう。巫として呼ばれたのかな? それとも当主?」
それによって選ぶ衣装や化粧も変わってくる。
シシュは少女の問いを受けて、しかし迷うことなく返した。
「サァリーディに会いたい、と言っていた」
「私に?」
「ああ」
それは分化した役割上の彼女ではなく、彼女自身にということだろう。
考え込むサァリをよそに、それまで黙っていたヴァスが軽く手を上げる。
「情報の秘匿はきっちりとして頂きたいのですが」
「承知している」
「あとは、衣装だけでなく湯浴みの準備もお願いします。彼女を半端な仕度で出させる訳にはいきませんから」
「分かった」
てきぱきと決められていく話を聞きながら、サァリは居並ぶ衣装を振り返る。
自分に会いたいという王のもとに、どのような格好で向かうべきか。―――― 結論を出すまでにそう時間はかからなかった。
サァリは従兄弟を手招く。
「ヴァス」
「はい」
「やっぱり屋敷から取ってきて欲しいものがあります」
「なんですか?」
それでフィーラの折檻がついてくるのだとしても、必要なものは必要だ。
サァリは手短に指示を出してしまうと、改めて汚れた両手を見下ろし「……お腹すいた」と小さく零した。
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