第29話 傷痕
「化生斬りになった? あの子が?」
祖母から話を聞いてそう呟いた時、サァリは九歳だった。彼は十八歳。後から思えば「あの子」などという年齢ではなかったと思う。
だがサァリにとって彼は、迷子の時手を引いてくれた少年であり、時折ふらりと月白の門前にやって来ては、彼女と遊んでくれる相手であった。
だから彼女は、彼が化生斬りになったと聞いてまず喜んだ。いずれ自分が巫となる時には、彼と一緒に動くことが出来るのだと期待したのだ。
けれどそんなサァリに祖母が返したものは、ほろ苦い言葉だった。
「あれは危ういよ。お前ならそうだね……上手く御するか、距離を置くかしなさい」
「危うい? 何が?」
「そのままの意味さ。愛してやれないなら切るしかない。あれはそういう男だよ」
微笑む祖母の言葉は、年月に裏打ちされてサァリにはよく分からなかった。
そして―――― この話を聞いてから彼が化生斬りを辞めるまで、二人は七年間を共有した。
彼に関してサァリが持っている最後の記憶は、穴に落ちた彼女に手を伸ばしている必死の顔だ。
そこから先は覚えていない。暗転した意識から目を覚ました時、彼は既にアイリーデにいなかった。
だから全て、人伝手に聞くしかなかった。
左目を失ったとは聞いていた。
けれどそうなってもなお彼はサァリにとって―――― 少しも昔と変わりないままのように、思えた。
隻眼の男は機嫌の悪さを隠しもしない目で、三人のごろつきを見回した。
うちの一人が黄色い歯を剥いて、突然現れた男を威嚇する。
「なんだ、お前? そんな格好しやがって……」
「ここのところ娼妓を攫っていたのはお前たちか?」
氷のようなアイドの声に、男たちの空気が一変した。彼らはそれぞれ武器を取り出しながら、アイドを囲むように位置取る。
靴底が砂利を擦る音が重なり、サァリはそれを聞いて我に返った。
「ア、アイド」
「寄るな。邪魔だ」
言われて少女は、慌てて立ち上がると距離を取る。
それは昔から知っている男との暗黙の了解のようなもので、巫と化生斬りとして動いていた時もサァリは己の立ち位置というものを心得ていた。
刀を抜いた彼から、十七歩離れた場所。かつてはその位置を、彼の背から数えていた。
今は向かい合って立っているサァリは、以前よりも険の増した男の顔を見つめる。
アイドは彼女を無視して男たちに対した。
「他の娼妓たちは何処へやった?」
「さぁな。娼館の中に用心棒を雇ったところがあるって話は聞いたが、てめえがそれか?」
微量の警戒に敵意を混ぜた質問は、三人のうち一番アイドに近い右の男のものだ。
そしてその問いに返されたものは―――― 刃の白い煌きだった。
アイドの刀が、ひゅっと風を斬って鳴る。
捉えきれない速度の刀筋。立ったままだった男の首から、遅れて鮮血が飛び散った。
男は唖然として、みるみる血に染まっていく自分の体を見下ろす。
喉を斬られて上げる声もない。ただそのまま一度大きく傾いで、男は路地に崩れ落ちた。
仲間が何も出来ず倒れ伏したのを見て、残る二人は恐慌の一歩手前の顔になると、それぞれの武器をアイドへ構える。
「て、てめえ、よくも」
「攫った女を何処へやった?」
繰り返される質問は、先程とまったく声音を変えていない。
彼にとって、この程度の男たちなど敵ではないのだ。それを知っているサァリは、アイドはこの死体をどうするつもりなのかぼんやり考えていた。
その間にも、更に一人の男が倒される。
最後の一人が武器を叩き落され、喉元に切っ先を突きつけられるまで、十数秒もなかっただろう。
サァリを担いで攫ってきたその男は、陸に打ち上げられた魚のように喘いだ。
「しょ、娼婦がどこに連れてかれたかなんて知らねえ。ほんとにおれたちじゃねえんだ」
「ならどうして、そこの女を攫おうとした?」
「さっき頼まれたんだ。この辺じゃ見覚えがねえ男だった。知らねえやつだ」
「攫ってどうしろと言われた?」
「連れて来いって……《戻り角》の裏にだ」
「そうか」
頷くアイドにほっと表情を緩めかけた男は、その表情を動かす前に刀の一閃を受けた。
返り血が薄墨の着物に跳ね返る。袈裟懸けに斬られ仰向けに倒れた男を、サァリは呆然と眺めていた。
錆びを連想させる嫌な臭いが、少しずつ濃くなっていく。
アイドは刀の血を払うと、それと元通り鞘へ収めた。片方だけの目がサァリを捉える。
「馬鹿が。どうしてこの街にいる?」
「どうしてって……家に戻ってて……」
「ああ」
アイリーデで生まれた男は、それだけで巫が街を空ける時期があると思い出したらしい。
死体の転がる袋小路に小さな沈黙が生まれる。
もう一度会えたなら、何を言おうかと考えたことはあった。
だが実際彼の顔を見た今、言うべき言葉が分からないでいる。
夢の中にいるようなぼんやりとした気分を味わって―――― だが状況を忘れていなかったサァリは、男へと頭を下げた。
「あの、ありがとう」
アイドは彼女の礼に右目を細めただけで何も言わない。
以前の彼であれば、嬉しそうに笑って恩着せがましく触れてきただろう。だがそっけない今の態度は、むしろ昔の彼の振る舞いこそが演技であったのだとサァリに思い知らせた。遠い子供の記憶に胸が痛む。
けれど感傷に浸っていられる場合ではない。サァリは砂に汚れた裾を払った。
「ごめんね。もっとちゃんと話したいけど、すぐ戻らないと」
「何処にだ?」
「シシュが襲われてて――」
言いながら死体を避けて小走りになったサァリの腕を、伸びてきた男の手が掴む。
思わず足を止めるとアイドは、膜のかかったような目で彼女を見下ろしていた。
「あいつがお前を連れていたのか」
「連れていたっていうか……王都を案内してもらってたんだけど、いつの間にか複数につけられてて、それで」
「相手は何人だ?」
「五人、か、六人」
あれからどれくらい時間が経ってしまっているのか。ほんの数分の気もするが自信はない。早く戻りたいのだが道も分からない。
それでも戻らなければと焦るサァリに、アイドは呆れたように言い放った。
「六人程度であいつがどうにかなるか。お前が戻る方が足手まといだ」
「え、でも」
「それよりも、自分の物知らずを何とかしろ。こんな場所をそんな格好で歩いているとは馬鹿か?」
「そんな格好って……」
言われてサァリは己を見下ろす。
今の騒ぎで少し汚れてよれてしまったが、まったく申し分のない上質の着物である。
「何か不味い?」
「ここはアイリーデじゃない。高級娼婦が無防備に裏路地を歩いていたら、身包み剥がされて殺されるのが落ちだ。―――― それともあの男は、裏町の常識も知らずにお前を見せびらかして歩いていたのか?」
射竦める視線にサァリは息を飲んだが、咄嗟に出来たのは首を横に振ることだけだった。
サァリと変わらぬ程度に物知らずなところがあるシシュだ。元々娼妓を苦手としている彼がそんな常識を知っているはずがない。
だからこうなったのも、どちらかと言えば無用心な自分のせいだ。
そう主張しようとしたサァリは、しかしアイドに腕を強く引かれ転びそうになった。
男はよろめく彼女に構わず、袋小路を出て歩き出す。その後に引きずられるサァリは、小走りになりながら背後を振り返った。
「ア、アイド、死体そのままでいいの?」
「この辺りじゃごろつきが死んでいようが、誰も気にしない」
「でも」
「それよりも、雇い主だ」
アイドはまったくサァリを顧みぬまま角を曲がる。土地勘がない上、目隠しで攫われてきた少女は、今自分が何処にいるのかさっぱり分からなかったが、男が何処に向かおうとしているかは見当がついた。おそらくさっきの男たちに拉致を頼んだ人間を、捕まえようというのだろう。
サァリは目まぐるしく路地を進むアイドに振り回されながら、何とか息を整え口を開いた。
「アイドは、今、王都に、住んでいるの?」
男は答えない。
掴まれたままの腕は、サァリにあの薄暗い地下室でのことを思い出させた。走っている為とは別の息苦しさが、喉元をせりあがってくる。
彼女は長身の男の横顔を見上げた。
「娼妓が、攫われてるって?」
「お前には関係ない。さっさとアイリーデに戻れ」
「でもアイド」
―――― 自分が何を言いたいのかよく分からない。
分からないままサァリが抗弁しようとした時、だが男はぴたりと足を止めた。次の角を前にして、彼女の体を無言で壁に押し付ける。そうして自分も身を隠して先の様子を窺う彼に、サァリは合わせて息を潜めた。自分の肩を押さえている大きな手を見つめる。焦燥でも郷愁でもない感情が、伏せた視線の先で静かに足下を浸していった。
俯く少女の耳に、男の舌打ちが聞こえる。
「もう逃げたか」
探しにきた相手の姿は、既にそこにはないらしい。サァリはようやく離された男の手に、気づかれぬよう息をついた。
そして顔を上げた彼女は、アイドがじっと自分を見下ろしていることに気づく。
繕いのない強い視線は、以前の彼のものと少しも変わりがなかった。
何かを言えるのなら、今なのかもしれない。
サァリは突き動かされるようにして、彼の着物の袖を掴む。
「アイド―――― ごめんね」
「何を謝る?」
「分からない」
それでも謝りたいと思ったのだ。手の中に、まだいつかの温もりが残っている気がする。サァリは定まらない視線を宙に泳がせた。
「私は……」
続く言葉が形になるには、未だ少しの時間が欠けている。
サァリはうっすらとそのことを自覚したが、自分たちに次の機会があるとも信じきれなかった。
きつく袖を握ってくる少女を、アイドの無表情が見下ろす。
「……似合わないな」
「え?」
袖を掴んでいない方の手が、サァリへ伸ばされた。彼女は反射的に身を引こうとしたが、後ろが壁なのでそれも叶わない。
その間にアイドの指は、彼女の瞼の上をきつくなぞりだす。翳をつける為の色が、少しずつ男の肌を染め上げていった。
乱雑で、だが何処となく優しい手に、彼女は子供の頃を思い出す。
―――― 昔もこんなことがあった。泥遊びをした後に、彼に顔を拭いてもらった思い出が。
あの時の少年はサァリ以上に汚れた顔で、だが自分よりも小さな彼女を慮ってくれたのだ。
もう戻ることの出来ない過去の記憶。少女になったサァリは甘やかな喪失感を味わう。
化粧を取り去る男の指は滑らかな頬をなぞり、最後に淡い血臭を帯びた親指が、唇の紅を擦っていった。 その感触に背筋を震わせて、サァリは男を見上げる。
「アイド?」
「娼妓の真似などするな、サァリ」
右目だけの視線が彼女を射抜く。
その目は、化生斬りであった彼よりもずっと、少年の頃に近い、傷を帯びたものだった。
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