第28話 再会



 普段は昼前に起きて、夜更け過ぎに床に入る生活をしているサァリだが、それは別に朝起きられないというわけではない。

 むしろいつもと違う場所にいる緊張感が働いているのだろう。日が昇ってまもなく目を覚ました彼女は、軽い頭痛を覚えて頭を押さえた。

 まるで風邪の引き始めのように寒気を伴った不調が体の中でたゆたっている。

 彼女は訝しく思いながらも、身支度を整える為に洗面所へと向かった。そこでくすんだ金縁の丸鏡を見たサァリは、あることに気づく。

「あれ……? 何これ」

 剥き出しになっている右腕を、鏡の中にかざす。

 数日前不思議な手形が痣となっていたそこには、いつの間にか白い包帯が丁寧に巻かれていた。



「王都の幽霊は気が利く……」

「何言ってるんだ?」

 仕度を済ませて食堂へと向かっていたサァリは、横合いから声をかけられて足を止めた。

 少し低いその声は、シシュのものである。今まで彼女が来るのを待っていてくれたのだろう。右の廊下に立っていた彼に、サァリは包帯の巻かれた腕を示した。青年はそれを見て、無愛想から無表情になる。

「……怪我でもしたのか」

「最近の幽霊は手当もしてくれるみたい」

「何だそれは」

 説明不足から来る意味不明さは、彼には理解されないに違いない。

 それ以上何を言う気もないサァリに、シシュは軽くかぶりを振ると食堂のドアを開けた。


 中では既にリアナが忙しく立ち働いており、食卓には次々新たな皿が並べられていく。

 瑞々しい青物が添えられた蒸し鶏。隣の皿では黄金色に焼かれた卵がふんわり膨らんで、その上には焼きたての白パンの香りが漂っていた。

 鮮やかな眺めに感動したサァリは、我に返ると慌てて女の方へ駆け寄る。

「おはようございます。すみません、お手伝いします」

「いいのよ。お客様なんだから座っていて」

 笑顔のリアナは、薄青い着物姿のサァリを見て、満足そうに頷いた。

「似合ってよかったわ。私の若い頃のものだから心配だったのだけれど。丈も問題ないようね」

「ありがとうございます。あの、後できちんとしてお返しします」

「いいの。差し上げるわ。日頃この子がかけている迷惑には足りないでしょうけど」

「え、いえ、そんな……」

 借りた着物と帯は十分に上質のものだ。

 恐縮して固辞しようとするサァリに、だがリアナはくすくす笑いながら台所へ行ってしまう。戸惑う少女の肩をシシュが叩いた。


「ああ言うならもらっておけばいい。どうせこの家にあっても誰も着ない」

「そうなの?」

「月白でも使ってやればあの人も喜ぶだろう。―――― 普段の化粧の方が、きっともっと似合う」

 青年の意外な言葉に、サァリは目を丸くした。確かに今の彼女は昨日と同じく婀娜めいた化粧をしている。明らかに夜の女だと分かる風貌にもかかわらず、好意的に接してくれるリアナは出来た女性だろう。

 サァリは青年への返答に迷って、だが結局彼を見上げると蕩けるように微笑んだ。

「ありがとう。嬉しい」

 何故かシシュには顔を背けられた。    



「―――― それで、今日はあなたたち何処に行くの?」

 食後のお茶はサァリが淹れたものだ。

 王都にある老舗の茶屋が限定で売っている茶葉は、ある花の香りが特色であり、一部の貴族たちに非常に人気が高いのだという。

 三人は、微かに甘い香りをそれぞれ楽しんでカップに口をつけた。母親の問いに、シシュは眉を僅かに動かす。

「……陛下からご指定を頂いた場所が、まだ半分以上残っている」

「あら、あなたの代わりにご配慮下さったのね」

「別に頼んだ覚えはない」

「だって、誰も何も言わないと、あなた刀匠の工房を案内したりするでしょう? そんなの面白がる女の子はいないわ」

「…………」

「あ、あの、大丈夫です。面白かったです!」

「…………」

 三者三様の沈黙は、お茶の香りと混ざってテーブルの上に漂った。母の憐れみを帯びた視線を無視して、シシュはお茶を飲み干す。

「そろそろ出かけるか、サァリーディ」

「あ、うん」

「夕食は何がいい? 支度しておくわ」

「いい。今夜は戻らない」

「あ、そうなんだ」

 きょとんとした顔で相槌を打つサァリを見て、リアナは黒い瞳をすっと細めた。射抜くような視線を息子へと向ける。

「あなた、もしかして」

「違う……誤解だ」

 会話の意味が分からぬサァリは、微笑んだまま首を傾げていた。




 二日目の最初に訪れた場所は、王都では古い歴史を持つ問屋街だ。

 東の区画にあるそこは、狭い路地の左右に卸店が立ち並び、中にはところ狭しと様々な道具や素材が並んでいる。客は普通の客も多いが、職人や見習いの姿も多々見受けられ、王都の商売人にとっては馴染み深い場所だ。


 きょろきょろと辺りを見回していたサァリは、シシュに腕を引かれて他の通行人を避ける。居並ぶ店の二階や三階部分からは、向かいの建物に向けて縄や布が張り巡らされ、そこには店の名前や商品を記した看板がいくつも吊り下げられていた。人通りは少ないが賑やかな景色に、少女は感心の声を上げる。

「凄い。別の国みたい」

「そうか。アイリーデの方が余程異国めいてると思うが」

「うーん、慣れの問題かな」

 見るもの全てが新鮮と如実に語る眼差しは、年相応の少女のものだ。

 サァリは素焼きの壷ばかりが並ぶ店に目を留めた。

「中を見てもいい?」

「構わないが、買い物は勧めない」

「あ、うん。お金も持ってないし」

「金なら俺が出す。単に荷物になるからだ。小さいものなら構わない」

「え、でも」

「とりあえず壷は勧めない」

 真面目腐ったその忠告は、彼の性格をよく表している。サァリは笑い出しそうになるのを堪えて唇を横に結んだ。それを拗ねられたと思ったのか、シシュは早口で付け足す。


「明日の酒宴に必要なものがあるなら、ついでに買い出せばいい」

「あ……そっか。それがあったんだった。衣裳とか要るね」

「もう二本先の通りなら確かそういうものがあったはずだ。……この通りは工房通りとそう面白くなさは変わらないと思う」

 そう思いながらもサァリをここへ連れてきたのは、王の指令書があったからだろう。母から朝言われたことを気にしているらしき青年に、サァリは素直にかぶりを振った。

「全部楽しいよ。ありがとう」

「ならいいが」

 本当のことを言っているのに顔をそむけられてしまうのは、何が悪いのか。

 サァリは少しだけ悩んだが、彼の性格かもしれないと割り切ることにした。彼女の知る限り、化生斬りとは大抵おかしな人間だ。シシュはその中でも比較的まともだが、若干の挙動不審くらいはあってしかるべきと思う。


 だがそんなことを考えている少女の肩を、彼は急に自分の方へと抱き寄せた。転びそうになってシシュの胸にぶつかったサァリは、青年の顔を真下から見上げる。

「シシュ?」

「―――― 前に二人、後ろに四人。武器を持ってる」

「え? もしかしてヴァス?」

「違う。別口だ」

 言われてサァリは通りの前方を見た。

 少し先の金具屋の軒先に立っている男と、反対側の柱に寄りかかって手帳を見ている男。どちらも職人のような格好だが、目つきが普通の人間ではない。商売柄人をよく見るサァリにも、彼らの違いを感じ取ることは出来た。


 ごろつきたちともまた違う鋭い目に、少女は眉を寄せる。

「何だろう」

「あの手の奴らは少し厄介だな。さっさと片づけよう」

 言うなりシシュは、サァリを連れて目の前の角を左へ曲がる。人一人通るのがやっとの細い曲がりくねった道を、サァリは青年に抱えられるようにして小走りに抜けた。出た先の通りは店の裏口ばかりで、薄暗く人気がない。シシュは少し離れた壁際を指さした。

「あそこで待っていてくれ」

「うん。気をつけてね」

 サァリが頷いて彼の元を離れた時、ちょうど最初の男が路地の出口に現れた。



 職人風の男は、手に厚刃の短剣を抜いていた。

 刃が少し反り返ったそれは東部の人間がよく使うもので、人を殺すに長けた武器だ。

 最初から逃げ出した二人を追って来たのだろう。忌々しげな顔で走ってきた男は、しかし路地に出ようとした途端、びくりと体を硬直させた。その喉元にはシシュの抜いた刃が突きつけられている。

「何者だ? 何故俺たちをつけてくる」

 簡潔な誰何に、男は顔を青黒くさせた。

 だが間を置かず、路地の奥から次の男がやって来る気配がする。味方の足音に背中を押されてか、職人風の男は何も答えぬまま、さっと腰を落とした。短剣を振るい、シシュの足へと刃を振るう。


 ―――― しかし男の腕は、次の瞬間短剣を握ったまま地面の上に転がった。


「ぎゃあああ」

 生まれた空隙を男の絶叫が埋める。蹲る男の側頭部をシシュの左足が思い切り蹴りぬいた。

 昏倒する一人目を無視して、青年は二人目へと刀を向ける。

 次の男は脇差を抜いて声もなく斬りかかってきた。だが彼は、顔色一つ変えず無言の攻撃を受ける。刃同士のぶつかる澄んだ音が、人気のない通りに響き渡った。



 離れた場所に立つサァリは、その間、息を殺して化生斬りの動きを見守っていた。

 けれど青年の後方、もう一つの路から三人の男が走り出てくるのを見て飛び上がる。

「シシュ! 後ろ!」

 青年の腕は信用しているが、さすがに多対一で何処まで戦えるのか分からない。

 サァリは逡巡して―――― しかし意を決すると、右手を新たに現れた一人へと向けた。意識を集中して相手を撃とうとする。


 ―――― 僅かにでも隙を作れればいい。


 そう思って標的を睨むサァリの視界は、だが力を打ち出す直前、突如暗転した。

 背後から顔を覆ってくる大きな手。声を出そうと開いた口に何かを押し込まれる。饐えた臭いのする布で素早く目隠しをされる。

 そのまま彼女の軽い体は、誰とも知れぬ手によって担ぎ上げられた。

「サァリーディ!」

 シシュの声が遠ざかる。激しく前後上下に揺らされ、何も見えないサァリは気分の悪さに身を捩った。

 小道を曲がったのか、足が何処かの壁にぶつけられる。髪を結い上げた簪が、目隠しの布に触れて軽い音を立てた。

 そんなことを何度か繰り返された後―――― 彼女の体は無造作に固い地面の上へ放り出される。

 手足が自由になったサァリは、慌てて目隠しと口に押し込まれた布を取り去った。


「……何?」

 薄汚れた襤褸布に吐き気を堪えて顔を上げると、そこは何処ともしれぬ薄暗い袋小路だ。

 地面に手をついた彼女を、だらしなく服を着崩した三人の男が見下ろしている。

 そのうちの一人、サァリを担いでいたと思しき男が、節くれだった茶色い指で彼女を指さした。

「いい着物だな。高く売れる」

「どこの娼館の女だ? 毛色が違うぜ」

「知るか。が、夜の女だ。この顔じゃ高級品だな。貴族でもなきゃ買えねえ」

 自分を娼妓として値踏みする会話に、サァリは混乱しながらも現状を把握しようと思考を働かせた。

 シシュを襲った男たちはあれで全員ではなかったのか。地面の上を後ずさりながら問う。


「あなたたちは、何?」

 細い声は震えてはいなかったが、男たちには恐怖混じりのものに聞こえたのだろう。嗜虐心を漂わせて彼らは笑いあった。

 一番手前にいた男が、サァリへと手を伸ばす。

「まぁいいさ。とりあえず連れて行きゃあいい。と、その着物と帯は置いていってもらおうか」

「え……」

 垢と脂に汚れた指が、着物の襟元にかかる。サァリはそれを反射的に振り払ったが、相手は鼻で笑っただけだった。


 背筋を、寒気が滑り落ちる。

 彼女は何とか男の腕から逃れて立ち上がろうと地面に手をついた。その時、短い溜息が聞こえてくる。

「馬鹿か」


 ―――― 吐き捨てる言葉は、三人の男のうち誰のものではなかった。


 棘のある、だがひどく懐かしい声。サァリは男たちの向こうに声の主を見て、青い瞳を瞠る。

「アイド」

 左目を覆う眼帯。薄墨の着物にすらりと長い刀。

 そこに立っている金髪の男は、彼女を裏切りアイリーデを去った、かつての化生斬りだった。

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